第ニ話 舌打ち
むせかえるほどの花の匂いが寝室から外へと流れ出ていく。
ロゼが普段纏う強い香水の、それを数種、何層にも重ねたような匂い。もはや異臭と呼んでいいそれは、中へ立ち入るのを無意識の内にためらわせてしまう。
普通ではなかった。
人が過ごせるような、それも休むために使うような空間ではない。これが趣味だと言われたのなら、それこそ正気を疑ってしまう。
「やぁ」
クリスと共に顔を覆っていると、中から出迎えの言葉が飛んでくる。おそらくロゼのものであろうそれは、くぐもっているのか聞こえにくいものだった。
部屋の主に対し、あまりに失礼かと廉太郎は怯んでしまった姿勢を正す。
香りづけはともかく、寝室の内装に目を引く物は何もなかった。一目で上等な寝床だと分かる。整頓され、家具には統一感と品がある。ホテルの一室だと言われても違和感はない部屋だった。
部屋の中央には、それが主体だとばかりに悠々とした重厚なベッドがあり、先の声が聴こえたのも当然、その上からのものであった。
「……ロゼ」
その五感がだれよりも繊細であるがゆえに、一切の知覚情報を客観的事実として脳内処理できるユーリア。彼女は初めから怯むことなく、自然と横たわるロゼへと近づいていく。
その異様さに気圧され、廉太郎はそこから動けずにいた。
匂いにではない。
ロゼはその姿を見せていない。ベッドの上で、頭から毛布をかぶっている。薄い毛布だったが、三人は満足に寝れるようなベッドを余裕をもって包めるほどの毛布だった。それは何枚かの正規品を縫い合わせたかのように、不自然に布が重なり合っているものだった。
薄い布を被せているのだから、当然人の体ほどのふくらみが生まれる。
それなのに、そこにあるふくらみをロゼだと判断する、その自信が足りなかったのだ。
実体ではないイメージだとはいえ、彼女と同一の『ロゼ』とは毎日顔を合わせていたからよく分かる。
ロゼの背は、廉太郎よりも優に高い。
そのはずであった。
「すまないね、出迎えにも出れなくて……見舞いに来てくれたんだろう?」
子供でも丸まっているかのようなふくらみ。そこから馴染んだ口調で紡がれる声がしゃがれていた。単に布越しでくぐもっているのではなく、喉に不調でもあるのかというそんな声だった。
起き上がるでも顔を見せるでもなく、ロゼは身動き一つ取ろうとしない。
「――ん、あぁ廉太郎君もいるのか。クリスちゃんも?」
気配だけで察したのか、ロゼは確かめるように笑い、
「……なんだ、恥ずかしいな」と呟いた。
「ごめんね、ロゼ」
ユーリアに続き、部屋には一歩だけ足を入れ「すいません」と頭を下げた。何に対しての謝罪なのかは、実感として得られない。
『恥ずかしい』とは言うものの、それは寝姿だからなのか、あるいはそうでないのか定かではない。
ベッドの傍で膝をつき語りかける、そのユーリアの顔は見えない。
「……どうなの、調子は」
「うん、心配させてるほど悪くはないよ」
どういった状態なのか、とっさに判断できないほどの状況。そんな中、ロゼの言葉だけが場違いに軽い。喉が不調であるにせよ、耳に聞こえる彼女の調子は悪くない。
軽快で、しかし姿と声だけが不確かであった。
「強いて言うなら、食欲がなにも出なくて困るということくらいかな」
「ふふ……大変ね」
ユーリアの問いも、ロゼの言葉も。触れるべき核心には触れていない。すぐさま話に入るのも野暮というものだが、只ならぬ事態が明らかなのに、それが先延ばしにされているようで、それがかえって痛ましい。
ロゼの抱える事情、その断片的な事情を知ってはいる。だがその詳細はこの中ではユーリアのみが知るところだ。
部外者である廉太郎は、クリスと共に席を外した方がいいのだろうかと静かに隣へ目を向けると、
『何をやってるんだ、私め……いきなりこうなるってことは、何かやらかしたってことだぞ』
そこでは他に事情を知る、他ならぬ彼女自身のもう一つの人格が目を丸くしながらその有様を見下ろしていた。
『やっぱりこうして見てると、本当……いつ駄目になるかも分からない身体だったんだなぁ……』
異形化がどれだけ進もうと、人間でいられる稀有な存在であったはずだ。切り落とされた腕を植物のように再生させたほどだ。この現状がそれと同じなら、どうあれ復調可能でその後も悩みはないだろうに。
それでも『ロゼ』の口ぶりは、途端に破滅的なものとなった。
前回、自我を失い肉体に引きずられながらも、ユーリアも本人もそれには大した反応を見せなかった。大騒ぎはしなかったし、大きな心配もしていなかった。
ユーリアの性格を鑑みれば、そんなことはあり得ないのに。
――慣れだとしたらどうだろう。
そういう暴走、不意な異形化の症状が、発作のように起こるのだとしたら。
『……あぁ。そう考えると、運が良かった……のか。私は――』
「おい」
不穏さを感じたその一瞬、その場の誰でもない声が背後から耳に飛び込んだ。
目を向けた先に居たのは、こちらを睨む白髪の青年、ローガンであった。いつもと違い機関職員の制服を着ていない。ラフなシャツから腕のタトゥーが覗いていた。
だからではないが、普段はどこか匂わせていた知的な空気が少しもない。目つきが嫌にするどく、また明らかにそれが敵対的で、まるで別人に会ってしまったのかと思ったほどである。
「どいつもこいつも、何かあるとすぐこの女だ……」
廉太郎には目もくれず、ローガンは邪魔だとばかりに横にどけて中へ入り、しゃがみこんだユーリアを見つけたかと思うと、おもむろに鼻を鳴らし、
「と思ったがお前かよ、クソ」
「うっ……」
喧嘩腰に絡んでいく。二人の仲がよくないことは知っていた。
だが、廉太郎の印象では先に口を尖らせるのはいつもユーリアの方であり、むしろローガンはそれに自然な対応を返しているだけだったはずだ。
それが逆転している。
ユーリアは気まずそうにしているし、そもそもただ見舞いに来ただけで咎められることはしていない。
無理しているのが分かるような、そんな愛想笑いをユーリアは浮かべ、
「その、仕事は?」
「そんな暇じゃねぇ」
「そ、そうね」
短く気のない返事にも、食ってかかるどころか嫌な顔一つ見せようとしない。
そんな彼女に近づいたかと思えば、ローガンは語気を強め凄むように見下ろし言った。
「ユーリア、てめぇ……見舞いなら一人で来いよ、分かるだろ」
「それは、……そうね。ごめんなさい」
少しだけ言い返す素振りを見せ、すぐに項垂れて謝罪するユーリア。
それを見て、廉太郎は申し訳なく思った。
抱える事情は複雑で、その上女性の家である。何が起きているかも知らず気楽に来てしまったのは確かだが、配慮にあまりにかけていた。『ロゼ』が傍にいるものだから、つい気が緩んでしまったのかもしれない。
「その、付いてきてしまったのは俺なんです。すみませ――」
「黙れよ、鍵持ってんのはこいつなんだ」
目も合わせずに挟んだ口は遮られた。
今のローガンには普段見せていた余裕も、通常あるべき余裕も何もない。彼とロゼの仲を考えれば、彼女の不調に対して気が立ってしまうのも無理はない。
だがそれにしても、あまりにユーリアに攻撃的だとは思う。
「――っていうか、返せ」
「あっ、えぇ。……今までごめんなさい」
大人しく合鍵を手渡すユーリア。
二人の口ぶりから察せられるものがあるが、あまりに済まなそうに応じているので廉太郎は聞かなかったことにした。
「見舞いは済んだか?」
「いいえ、まだ――」
「まさか、『他に用があって来た』なんて言わねぇよなあ? ぶっとばすぞ、てめぇ」
「――ちょ、ちょっと! 昨日から当たりが強いんじゃない?!」
腹に据えかねたように立ち上がるユーリア。
今までは人の家――それも、本人同士認めなかろうと同棲が明らかである家――である上、無遠慮な訪問だったことへの後ろめたさから飲み込もうとしていたようだが、さすがにそこまで言われてしまえば両者の立ち位置的にはイーブンであると踏んだのだろう。
しばし睨み合う二人。背の低くないユーリアでも、その視線は頭一つ分上を向く。体格差にも身長差にも彼女が怯む様子はない。
だが、ユーリアはすぐ思い返したのか、やがてその緊張をほどいていた。
「ねぇ、どうしたのよ? あなたから常識的な面を取ったら、もうそれただの嫌なやつじゃない」
「あぁ……? 偉くなったなぁ――おい」
素で喧嘩を売られたような反応を見せるローガン。
どうにもならそうな状況に、さすがに見かねたのか、ロゼが毛布の下から制止の声を上げていく。
「おうい、外でやってくれないか」
「……あぁ、分かったよ」
一目その声に視線を向けると、ローガンは追い立てるように部外者三名へ向けて言い放った。
「帰れ、お前ら――」
そして。
「んあ?」
廉太郎の腕をつかんだかと思えば、その顔を覗き込むように顔を近づけ、
「お前――」
「な、なんです……?」
「……いや、なんでもねぇ」
しかしすぐに興味を失くしたように、軽く放って廊下へと出された。
不審に思う間もなく、クリスへはどうするものかと不安に思った。が、「ところで寝室は一緒なんですか」とユーリアより不躾なことを言いだしたクリスに対し、ローガンは黙って背を押すだけだった。
ユーリアが心の底では常識人だと認めてしまったように、見た目にも言動にも反して気のいい一人の大人なのである。何もなければ。
「――ねぇ、ローガン」
場を後にする廉太郎とクリスに次いで、一歩帰りかけたユーリアが口を開く。
歯牙にもかけず矛も納めず、変わらず睨むような視線でそれは返された。
「何だ、糞ガキ」
「それはやめて」
本気で嫌なのだろう。早口でそう断り、ユーリアは軽く咳払いを挟んで話を続けた。
「その、少しだけ二人で話をさせてくれない?」
「あぁ……?」
「たぶん、分かったわ。――あなたが言いたいことも、私がしたことも」
「……そうかよ」
どうやら、それ以上聞くべきではない話であるらしい。そう判断し、廉太郎は玄関の戸から外へ出た。
戸が閉まると、一人でに鍵が施錠する音が聞こえる。
部屋の前で立っているのは他の住民にも悪いので、クリスと共に上がってきた階段まで引き下がる。
外の景色を見下ろしながら、些細な失敗をした子どものような気分で、廉太郎は何の気なしに話題を振ろうと話しかけた。
「――迷惑だったかな、『ロゼ』」
返事はなかった。
部屋に入りロゼを見かけたときは、何やら考えこむように言及していたのだが、気がつけばいつからか姿と声がしなくなっていた。
「『ロゼ』……?」
姿はなくとも常時意識は通じているはずなので、無視されているのかと不安になる。
魂の中の魂、その自意識がどう存在しているのか分からないので、何かに集中していて気がつかないということもあり得る。それでもついしつこく辺りを見渡す廉太郎に、聞こえてきたのは舌打ちだった。
見れば、そこに居たのはクリスであり、そしてその表情はこれ以上ないほどに曇りきっていた。
「どうした?」
「……気が回りませんでした。ここに来るべきでは――」
「えっと、なにが?」
不可解な様子に、どうしたものかと尋ねてみる。
そんな廉太郎に「本気で言ってんですか?」と、クリスは呆れたような視線を寄越していた。




