第六十三話 揺れる手鏡
メインデルトは死亡した。
彼の描いた計画は瓦解し、手中の駒はその役を果たせなかった。それを知るや否や、その原因の一端と判断した者たちが居座る前線基地へと意味のない攻撃に打って出ることになる。抵抗できる者など存在し得ない未知の力――相対する者の心を縛る能力を存分に振るって。
その結果、想定外の要因を前に返り討ちとなって殺害される。
メインデルトには目的があった。
トリカとベリルに接触し、彼らを町への敵対行動に移らせるよう仕向け、その過程にある障害を排除しようとしたのにも理由がある。
そして、決して自らそこへ直接関わろうとはしなかった理由も、また存在する。
その目的、行動の理由。
――それらを、今のルートヴィヒには当たりがつけられていた。
世界復興機関。本部塔八階、代表室。
日々使い倒す机が差し込む朝日に触れられている。机の上は仕事など何もないかのように整頓されていて埃一つなく、そしてかすかに揺れていた。内側から微弱な振動が生まれている。引き出しの一段。まるで、そこだけ地震の影響下にでもあるかのように。
篭った音が、机に触れる腕を伝って耳にまで届いた。
「――まったく、厄介な話だ」
ユーリアに下した指令から、段階的に持ち込まれた不都合な事実の数々。
あのアニムスに実子がいて、しかもそれが敵勢力の諜報員と家庭を築いていたこと。その上、その夫婦間の子どもが生きたまま町の外に逃れ、そしてメインデルト――「彼ら」の一人の目に留まってしまったこと。
アニムスの血縁者など、産んだ腹も定かではなかった実子――ラヴィだけだと思っていた。
知っていれば、隠されていなければ対処できたものを。
苦々しく思わずにはいられない。であれば自身もアニムスも、こうして面倒な事態に煩わされる羽目にならずに済んだろうに。
何かを催促するように、振動の音が強くなった。
「もっとも、私に不都合はないのだが」
「彼ら」は特定の存在を探している。それが主な存在理由、行動原理と言ってもいい。
だから、首を絞められたのはアニムスだけだ。
アニムスはその血縁、孫。トリカの存在を認知されることで、それを発生させた大元である自身の存在とその居所が町にあることまでも「彼ら」に認知されてしまったことになる。
だが、これから「彼ら」がどう行動し、アニムスとの間に何が起ころうともルートヴィヒの知るところではない。どちらに肩入れするつもりもないし、その理由もなかった。
結局のところ、どうでもいい。
しかし。
――厄介なのはルートヴィが現状、「彼ら」とアニムスのその両方と関わりを持ち、互いに不干渉でいることを定めていることだ。
他方に対し、他方が不利になる情報を開示することができない。そのため、両者からの物言いに挟まれるのが目に見えている。
それがすでに、憂鬱だった。
差し込まれたままの鍵を回し、ルートヴィヒアは引き出しを開けた。中にあるのは、手鏡にも似た無機質な金属製の人工物。外気に晒され、机を揺らす振動の耳に不快な音が強まっている。
それを取り出し、ルートヴィヒは指を表面のガラスに這わせ、その振動を停止させる。
その動作は手慣れていた。
「よお」
迷わずそれを当てた耳に聞こえてきたのは、不躾で遠慮を知らない男の声であった。
聞き覚えがあったかは定かではないが、男の第一声から面識があるものだと判断し、気を害することもなく片手間な調子でそれに応えていく。
「謝罪なら手短に頼むよ。私も、暇じゃないからね」
受話口からくぐもった息遣いが断続的に聞こえ、笑っているのが分かった。
その態度に、悪びれた姿勢の一切は感じられない。
「そうだな、うちのモンがえらい迷惑かけちまったみたいでよ」
受話口を介した空間の向こうで、男は他人事のように嘯いていた。
会話が、二人の人間の間で成立している。
説明のできない、少なくともこの場に第三者がいればその首を傾げるほどの現象。
その場、そのとき。空間と距離、次元を隔てた意思疎通が行えるだけの条件が限定的に整えられていた。
「まぁ、死んだあいつが一人で勝手にやったことだからな。大目に見てくれよ、ってさ」
ルートヴィヒの目が細められる。
あまりにも軽い謝罪、到底見合うものだとは思えない。
幸い人的被害は軽微で済んでいるものの、こちらは「彼ら」の一員であるメインデルトに、基地常駐の職員数名の命を直接狙われるまでに迫られたのだ。彼の能力で人を使い、間接的に牙を向けてくるのとはわけが違う。
言い逃れの余地なく、追及されるべき契約違反であった。
「なら、今後は気をつけるように」
「あぁ」
しかし、男の態度が言うべき文句を掻き消してしまう。まともに取り合われるようにも思えず、意味を見出すこともできなかったのだ。
元から、言葉だけの謝罪に価値を求めてはいない。
短く話を切り上げると、大人しく話が次へ進むのを待った。
「――で、だが」
ルートヴィヒが想像した通り、男は本題に向け、その声の調子を低く落とした。自らが話したい用件だけ軽口にならないというのも、随分勝手な話ではある。
「あいつの行動は、確かにあんたとの約束を破るもんだったが――それをしたくなるだけの理由はあったってことだろうがよ」
不干渉。
互いの行動に口出しせず、不利になることを禁ずる。
そして、その上で一部の協力体制を結んでいる。
「つまり、あんたは隠してたんだ」
「あぁ、言ってなかったね」
「だとすれば、先に約束を破ったのはあんただってことになる」
「彼ら」が探して止まない存在が、万が一ラックブリックの住民の中に見つかった場足――ルートヴィヒはそれを「彼ら」へ報告する。そのような契約を結んでていた。そうするだけの義務が、ルートヴィヒにはあった。
原因がその不履行にあるのだから、今回の向こうの暴走が帳消しにもならないほどの失態である。
しかし。
「――いいや」
顔を見られないのを良いことに、ルートヴィヒは口元を緩め、元々契約時より用意し備えておいた言い分を、悠々とした口ぶりで告げていく。
「『その人物』は私の管理下にない」
「……どういうことだ?」
「確かに町の中に居住しているが、町に住んでいるわけではない……ということだ」
アニムスの住まう図書館は彼の領土であり、町とは独立している。そういう取り決めが、この町が復興した瞬間から続いている。
図書館という領土の周囲を、町の領土が取り囲んでいるようなものだ。町の中に空いた、町ではない一画。
「だから、『その人物』について君たちに報告する義務を私は持たない。そんな約束はしていないからね」
「……」
アニムスはラックブリックの住人ではない。ゆえに、その存在を、そもそも初めから知っていたとしても、「彼ら」へ伝えるつもりはなかった。
そしてそれこそが、アニムスとの契約の内容でもある。
再現された音にしてもそれと分かる、忌々し気な舌打ちが部屋に響いた。
「……そうかよ。今になって理解したぜ、俺みたいな奴に電話役が回ってきた理由が」
「適任ではないね」
「うっせぇ」
揶揄でもない感想、それが互いに口から零れた。
「クソ……あいつら嫌いなのは電話じゃなくて、さてはあんたの方だったな――」一人ぼやく男の声を聞き流しながら、代表室の前で待機している誰かの気配に気づいたルートヴィヒは、通話の終了が早まることをただ願った。
「分かった、分かったよ。あんたは悪くねぇし俺たちが悪いことをした。要求があるなら好きに言えや」
「特にないね、今のところは」
「なんだ、順調ってわけかい」
「君たちと違ってね」
「そうかよ」
鼻で笑わうような男の声に、どこか自虐的な色が混じっていた。「彼ら」の最終目的を思えば、それも無理からぬ反応だと理解できる。
ついで、男は交渉するかのように僅かながら下手に出、
「……で、改めてそいつを紹介、ってのは――」
「それはできない」
「あぁ、そうかい」
断られるや否や、吐き捨てるように語気を荒げる。
特に電話越しに、最も神経をすり減らされる類の人間で、ルートヴィヒにはそのような心労がもはや懐かしく思えてくるようでもあった。
「――だがよ」
さらに続けられる嘆願の予感に、ひとまずの立場さえ弁えないその神経にルートヴィヒは身構えた。続く言葉に苦い顔を浮かべずにはいられなかった。
「俺らが勝手に探して回る分には問題ねぇよなあ?」
「……」
「あんたには何も迷惑かけねぇよ。ちょっと町中をうろつくってだけだ」
「構わない。――もちろん、歓迎はしないが」
心からそう答えた。
男は機嫌よく声を上げ、
「――じゃ、俺は行きたくねぇけどよろしくな」
言葉もなく唐突に通信は切られた。
同時に、それを可能にしていた空間の異常は消滅する。ガラスの板、端末の表面は触れられ反応を見せるものの、その機能は殆んどが無効化され、無用の長物へと成り下がっている。
灯された端末の灯りを暗転させ、ルートヴィヒはそれを再び引き出しの奥にしまい込んだ。
すると図ったかのようなタイミングで代表室の戸が開けられ、待機していた者が頭を下げたまま指示を仰いでいるのが見えた。
その姿に思わず、ルートヴィヒは苦笑してしまった。
「――あぁ、まったく。次は私が頭を下げる番になるね」
まったく悪いと思っていなくても、それでも態度でしめさなければならない。
それが奇妙でまた難しく、煩わしくすらある。
この椅子に座るようになってからというもの、人との関わりで煩わしさを覚えることなどまるで久しい。
だからこそそれを存外悪いものでもなかったなと、思い出したように名残惜しく引き出しの鍵を回していた。
これからアニムスへの謝罪と、それを埋め合わせるように今しがたの情報を伝える言葉を伝えなければならない。相手が納得するように。
そして、どうあってもそれは不可能だと分かり切っている。
それが僅かに、楽しみですらあった。