第六十二話 独りの夜
「なーんて、よろしくやってるんでしょうよ。どうせ」
その場に居合わせず、聞き耳を立てているわけでもなかろうと。クリスには二人の様子が手に取るように予想できた。知れず頬がつり上がる。そう仕向けておきながら、あまりにもあっさりと事が運ぶのが目に見えているので、少々欠けた手ごたえを物足りないとさえクリスは思った。
冷えた夜の空気が顔を撫で、外に出るにはまだ肌寒い服だったことに気づく。
「『眠れない』ですか……贅沢な話だ」
誰の家で寝ているのか。今一度よく思い返すといいのだ、あの男は。
少なくとも今夜、辛気臭い思考に悩まされることはあるまい。今現在の頭の中、その実のところは知らないが、少なくとも少しはマシで悩む価値のある事柄になるだろう。
思考は読めていない。
予想はできても、廉太郎の目や耳を介した情報は何もクリスに伝わっていない。
魂の繋がりが改善されたからか、それとも『ロゼ』のお節介か、あるいは廉太郎自身の慣れの問題か。ともかく、今のクリスに廉太郎の心の表層は流れていない。以前まで垂れ流された電波のように受け取り続けた、受け取らされていたその情報が、ぴたりと壁に閉ざされている。
それでも、感情の起伏くらいは読み取れる。それでだいたいが分かる。
廉太郎とはある程度の距離を離れられるようになった。まだまだ通常の、遠隔操縦兵器としての運用が十全に行えるには足りないが、それでも目を離して移動する程度には問題がない。
互いの煩わしさは軽減される。真っ先に、クリスは寝室を別に分けた。特に意味はない。いつまでも隣で安眠に役立ってやれるだけの甲斐甲斐しさを持ち合わせていなかっただけ。その役を面倒に思っただけだ。
適任が他にいるのだから。
ユーリアには簡単に、廉太郎が精神的にやつれていることを伝えておいた。
元の世界に帰還できるのか、という不安。あるいは恐怖。
わりと早い段階から、それが心の底に根付いている。日中はやることもある上、他人と関わっていられる。余計な不安を忘れていられる。
だから、否応なしに一人となる夜の寝台に耐えられない。たった一度席を外したクリスを、医務室にまで求めにくるほどだ。
危険だと思う。
精神安定剤のように使われるのが気持ち悪かったというのが本音だが、もっと根本的に対処していくべきなのは間違いない。
ゆえに押し付け半分、冷やかし半分、それに僅かな親切心でユーリアを焚きつけて向かわせてやった。
目の色を変えて飛び出していく様は、予想通りでありながらも圧巻。友人家族のためにならいくらでも身を削るような奉仕体質、どこまでやるのか見ものというものだ。あの性格と様子ではまさに「何でも」やりかねない。同じ部屋で眠ってやると言い出したとしても、不思議ではない。
しかし方や性格、方や性質が致命的にそれに向いていない。一線なんてものは互いに目に入らず、超えるも何もないだろう。
ユーリアにはあれで、廉太郎への遠慮がある。『あまりに馴れ馴れしく接してしまえば、異性として意識させてしまうだろうし、それは可哀そうだ』という、独特なものが。
自信家なのか卑屈なのか微妙な線。
ことのほか人の目を気にする彼女は、それで普段着にさえ制限をかける。あれだけ足が細いのにスカートさえ履けないのはもったいない。おそらく本人も少しくらいそう思わないでもないだろうし、たぶん廉太郎も思っている。
「はっ――」
ともかく。
廉太郎はそれどころではなく、ユーリアは使命感に燃えている。
おかげで、こうして一人家を抜け出すクリスに気を留めることもないだろう。
クリスは夜道を歩いていた。家の通りを手前に下り、すれ違う他人も今のところは誰もいない。左右に連なる民家は集合住宅が多いのか、まばらについた灯りからとりとめもない話し声が聞こえてくる。
月は眩しいと錯覚するように明るく、周囲の魔力灯が無粋に見える。
いい夜だと思った。
何も変わらない夜だが、気づけば一人になるのはクリス自身も久しぶりのことで、良い気分にも少しはなる。あの二人が二人でいるというのも、クリスにとっては気分がいい。これまでは片親についた瘤のように、常に二人きりになるのを邪魔していたようで。
少なからず居心地が悪かった。
背中を蹴ってやらねば進展しそうにない仲だが、その背に常に待機する奴がいたのでは元も子もないのではないかと憂鬱だった。
その不安はこうして消えた。町中程度の距離であれば、いくら離れてもクリスへの魔力供給に支障はないようだった。足取りは、折れているのに心なしか少し軽い。
「いいですね、二人……二人きりで――」
興が削がれたように、クリスの足が止まる。途端に杖が手荷物に思えて、うっとおしくなって道端へと投げ捨てた。
二人きりとは言えなかったのだ――正確には。
あの場にはいない。この世に存在しているわけでもない。
だが、廉太郎の魂の中にはロゼの魂が内包されている。
はっきり邪魔だと、クリスは思った。
顔も見せず、気分次第で横から口を挟んでくるあの存在を、クリスはもはや信用してはいなかった。
いつからそんな存在が魂にいたのかと問えば、初めからだと『ロゼ』は言う。廉太郎がこちらに来て二日目の昼、クリスと繋がる二日も前の話だ。クリスがそれを知ったのは一昨日の話だから、五日も隠されていたことになる。
それだけで、いい気はしなかった。
その五日、廉太郎を通じて『ロゼ』は周囲を知覚していた。監視されていたようなものだ。起きている間の廉太郎に自信の存在を忘却させていたのも、こすからいようで気に食わない。一言あってもいいはずだったろうに。
『ロゼ』がどのような存在か定義するのなら、現実に存在するロゼの魂から複製したまったく同一の人格データだ。コンピューターの中に住まう人工知能のように、廉太郎の魂の中に住まっている。
思念体、魂の残り香。
つまり、人間ではない。
この世とは永遠に関係を絶った存在。物理的干渉はできず、知覚範囲も廉太郎のものに限定される。
元の人格とまったく同一であるとはいえ、そんな存在の精神構造がそのまま変わらないなんてことはありえない。近いうちに――あるいはすでに――人間とはまったく異なるものと変化していく。そう考えるのが自然と言える。
遠慮なく言えば、邪魔でしかない。
廉太郎は魂の中に爆弾を抱えたようなものだ。消し去ってしまえばよかったものの、あそこまで向こうに自己確立を許してしまえば今となってはそれも難しいだろう。もはや他人の魂に他ならず、干渉することはできない。
それでいて、向こうは廉太郎に干渉できる。
記憶の編集、感情の抑制。それが可能なら、廉太郎の精神は向こうの気分次第でどうにでもなる。生殺与奪の権利を、常に握られている。
もちろん、今の『ロゼ』は廉太郎に敵対的でなく、その理由も気配もない。
だが、この先のすべてに保証などない。
そして、それを疑うだけの、無暗に怪しいと思ってしまうだけの理由がクリスにはあった。
――敵、味方。
はたして自身がそれらを定義して何かにあたるべき状況にいるのか定かではないが、少なくとも『ロゼ』がそのどちらでもないのは確かである。
『ロゼ』は知っていること、話すべきことを隠している。
そしてそのくせ、「役立った」ような顔をして満足気だった。それが余計に気に入らない。
あの場、先日の基地でのメインデルトとの戦闘において『ロゼ』の協力は必要不可欠だった。彼女がいなければ死んでいた。あの場の全員がだ。
だが、それに対処できるだけの情報を握っていたのは何故か。
『ロゼ』は敵の能力を知り、敵の名前も性格も知っていた。
その理由を語らないというだけで、クリスが敵視する理由には充分すぎる。
『ロゼ』はその先のことを話していない。意図的に隠している。そこまで「彼ら」に精通しているのなら、この先起こりえる事態を想定し警告するのが当然の流れ。そこまでして初めて協力したと言える。必要な情報をあえて隠すのは、それは実質的な妨害と何も変わらない。
事は一刻を争うかどうか、それすら分からないほどに緊張している。
それを理解しているのは、『ロゼ』を除けばクリスだけだ。
クリスはそれをどうしても言えない。言えない理由がクリスにはある。そしてそれは、他ならぬ廉太郎のためでもあった。だが、『ロゼ』の言えない理由には皆目見当がつきそうになく――、
そこまで考えて、はたと気づく。
「まさか、私と同じ理由で――?」
だとしても、それはそれでますます不可解だと思える。
それに至るにはクリスが有するだけの情報が必要で、さらにクリスが知り得ない情報にまで手が及んでいるともなれば、それは明らかに知り過ぎている。
知り過ぎていて信用できない。
逆説的に、それは「彼ら」そのものであるという疑いをさらに強めることになるのだから。
冷静ではない自覚がある。
しかし、クリスは焦っていた。
このまま事が始まれば、こちらは圧倒的に戦力に欠けている。ユーリアは間違いなく見方についてくれるだろうが、対人間戦闘に特化した彼女の能力ではあまりに分が悪い。
廉太郎は何も知らず何もできず、『ロゼ』はとても信用に足らない。組織に頼れるだけの価値が、自分たちにはない。
頼れる味方に欠けていた。
「――こんばんは」
だからクリスはここに来た。
折れていなくても階段を上がるのには不便な足だ。苦労はしたが、明かりも消えた館内からは戸を叩くより前に返答があり、徒労に終わらなかったことを安堵した。
「何の用だ?」
不愛想な男の声。
待ち構えていたようなタイミングだが、そのはずもない。聞いた通り、思った通りの超常性。この敷地内のすべては素行から思考までも監視され、営業時間外の訪問者であろうと即座に侵入の気配に気づかれるのだ。
アニムス――図書館を独りで動かすこの男に。
開けてくれない入り口の戸を自分で開け、クリスは歓迎とは程遠い態度のこの場の主へと一礼を下げた。
「はじめまして」
「あぁ」
話はしていないが顔だけは一度合わせている。適当な男なのかあしらわれているのか、どちらにしても手ごたえは悪い。
「自己紹介が必要ですか?」
「いや」
廉太郎もユーリアも、誰も紹介などはしていないはずだ。思考を読むとは深層心理や過去の記憶も指すのだろうかと訝しんではみたものの、続く言葉に納得させられてしまった。
「興味がないからな。お前にも、あの男にも」
一瞬くじけそうになる対応だが、あの男――廉太郎と繋がる人形だという認識さえ持っていてくれるのなら話しは通るのでそれでいい。気を取り直し、
「……無理もない話ですが、まるっきりどうでもいいという訳でもないのですよね?」
クリスのそれと同じように、アニムスもまた意図的に廉太郎へ隠している事実が存在する。そしてそれは、少なからず彼のためにしている行動だ。そうでなければ話が通らない。
「でしたら、ここにきて貶めるような真似はやめてほしいのですが」
「何のことだ?」
「私には分かっているということです。あなたがここから廉太郎を締め出しにした意図が」
「……そうか」
とぼけられたらそれまでだった追及。だが、アニムスは懸念した反応を見せることはなく、かといって悪びれることもなくそれを認めた。
締め出し、出入り禁止。
それも今、この瞬間。廉太郎に関わってほしくないと思った理由は、クリスにとっては考えるまでもなく分かってしまうことだった。ユーリアや廉太郎の話に聞く断片から、この図書館の主の正体というものにクリスだけが思い至っていた。
そしてそれは、言ってしまえば向こうの都合だ。今廉太郎に関わられることで、アニムスとしては不都合が生じるという事実がある。
だが、その結果不都合を被せられるのは今度はこちら側なのだ。
事情を唯一知る身として、代わりに苦情くらいは言っておかなければならない。
「いい迷惑ですし、やめてほしいんですけれど」
「知らん。俺が身内以外に情を抱くことはない」
取り付く島もなかった。
しかし、この場で食い下がらないわけにもいかず、どうにか心象でも良くしておかなければと会話の突破口を模索していく。
「身内っていうと……お孫さんのことですか?」
「あぁ」
ユーリアから話を聞いていて本当に良かった。どうやら事の焦点は例の子供にあるようで、付け入る隙がそこにないものかと目を細める。
アニムスは強く顔をしかめ、
「トリカはまだ目を覚まさん。目覚めたとして完治するまでは、あらゆるトラブルに巻き込んでやるつもりもない」
「そうですか……」
思いのほか明確で頑なな、それでいて理解の通る理由にかえって頭を悩まされてしまう。
これでは交渉の余地もなく、意思を変えるのはほぼ不可能。諦めるような思いで、クリスは妥協案を仕方なしに絞り出そうと口を開いた。
「では、その後であれば」
「断る。知ったことではない」
――これである。話しが通じない。
状況も忘れて切れ帰りたくもなる。
いくら上位存在の思考回路とはいえ、もう少し話せていいはずだ。理由もなく振りかかる火の粉を他人に押し付けて良しとするなど、どうせ人間を辞める前からろくな性格もしていなかったに違いない。
徒労。糾弾も泣き言も通じない。時間の無駄でしかなかった。
あまりの対応に、脳内はすでに捨て台詞を拾い集めている始末。睨むというより見下げ果てた視線で、口を開こうとしたその最中、
「――意地悪しないの」
いつからそこに立っていたのか、ラヴィが館内の暗がりから姿を現す。父親である館長をいさめるような物言いに、僅かな希望がクリスに生まれた。
ラヴィは視線を寄越した父親に近づくと、細めた怪訝そうな目で確かめるように言った。
「彼、日本人だよ」
「……なんだと?」
「確認したくせに気づかなかったの? 便利な頭してるよね、ほんと」
ぶつぶつと、呆れたような口ぶりでぼやくラヴィ。会話の意味はクリスにも分かりかね、何を言ったものかとしばし逡巡。
そんなクリスへとラヴィは気さくに近づき、親しい間柄でするかのように片腕を上げた。
「やあ」
「しばらくです。――少し痩せました?」
「骨一本分ね」
「ふっ――」
真顔で軽口に答えられ、笑ってしまったことに敗北感すら覚えなかった。その登場と口ぶりに幾分か気と緊張を和らげられ、知れず好感度が上がっていく。珍しいことだったし、純粋な人間には程遠いと聞いてからは興味も薄くなっていたのだが、父親と並ぶとあまりに付き合いやすくて霞んでしまう。
「肉を付けたいと常々思ってるのに、まさか落としてくるなんてね」
「元気そうですね」
たとえ肉体が再生しなかったとしても同じ言葉を吐いてきそうなのが見上げたものだ。体のあちこちの欠落を半ばタトゥーのようにしか思っていないクリスにしても、さすがに腕を落として冗談を吐いていられる自信はない。
「えぇと……なんです?」
気を取り直し、うやむやになりそうな点をつつく。
「廉太郎の出身が、何かプラスに働いたりしますかね」
「うん」
皆目見当もつかないが、ラヴィの言うことに偽りはなさそうに見えた。苦い顔をしているアニムスはしきりに手帳をめくっていて、何かを確認するのに忙しそうである。
今話しかけるのは逆効果だろうと、手持無沙汰で待機しているクリスに、
「説得しといてあげるから、今日はもう帰りなよ」
「……助かります」
ラヴィの労わる視線が身に染みて、通常人に良くされるのを心よく思わないクリスであっても頬が緩むのに満更でもなかった。
「私の味方は、もしやあなただったのかもしれません」
「いいよ。友達の男のためだしね」
もはや事情を知られてもそういう認識になるのか、あの二人。
それよりラヴィから廉太郎への心遣いが何に起因するのか気になった。あれの出身が何にどう関わるのか、機会があれば聞きたいところだがそれは今ではないように思う。
あまり、この二人の深い事情にこちらから探りを入れるのは得策ではないからだ。
「あっでも、妹の恋敵でもあるわけか。――どうしよ」
問われても困る。
それが冗談で済み、気まぐれには発展しないことを性格の掴みきれない黒髪の少女の顔に願っておいた。