10-24 エピローグ
本日もよろしくお願いします。
命子たちの前、翡翠色の光が揺蕩う魂魄の泉の上で、教授の体をマナの繭が包み込んだ。
マナ進化は見ているほうも感動するものだ。
魂魄の泉という神秘的な場所の水面上で行われたことであれば、それはなおのことであった。
しかし、命子と馬場はわたわたしていた。
「馬場さん。このままだとせっかくマナ進化したのに、教授が可哀そうなことに!」
発動したマナ進化は、宙に浮いてから、最終的に着地する。
ところが、教授の下は魂魄の泉。着水である。
「あ、あれを使いましょう!」
馬場は空洞の端に置かれていたゴムボートを指さして言った。
地底湖の調査ということもあり、すでにゴムボートが一隻用意されていたのだ。使用しないときは壁に立てかけてある。
命子と馬場は大急ぎでゴムボートを運び、魂魄の泉の上に浮かべた。
そうして、その場にいた自衛官と共に馬場が乗り込み、オールを漕ぎ始める。お船素人な命子は、お留守番だ。
そんな裏方の努力はどこ吹く風と、マナ進化は最終段階に入った。
繭を形成していたマナが教授の胸に吸い込まれていく。オールを漕ぐ馬場と自衛官は必死である。
ふわりと目を開けた教授は、自分がマナ進化したことをすぐに理解できた。
噂に聞いていた以上に、それはとても素晴らしい体験だった。
見るもの全てが煌めき、生まれ変わったように空気が美味い。肌を撫でる空気すらも愛おしく感じ、今まで出会った人々や先人が残してくれた学びに感謝したい気持ちになった。
マナ進化を終えた瞬間に目に入る景色は人それぞれだが、教授の場合は地底湖の天井だった。面白味のないものだけれど、そんなものでも教授にはキラキラして見えた。
そんな教授の視界に、アイが飛んできた。
アイは、教授の代わりにイザナミが入った精霊石を持ってくれていた。
「助かったよ。ありがとう、アイ」
『むーっ!』
するとどうだろう。
教授の言葉に対して、アイが甲高い声で相槌を打つではないか。
「おや? ふふっ、そうか。君も進化したのか」
『むーっ!』
ああ、楽しいなぁ。
教授はアイに微笑みかけて、そう思った。
そんな教授の体が、静かに落下していく。
普通ならばここで地面に足をつけるところだが、教授はゴムボートにポヨンと受け止められた。
頭は何者かの太ももに着地し、その太ももの持ち主が教授の顔を覗き込む。
夢見心地で微笑んでいた教授だったが、すぐに悪戯を目撃された少女のように「はわっ」と目を見開いた。
太ももの持ち主である馬場はニコニコとしながらも、ビキビキとこめかみに血管を浮かせていた。
「マナ進化おめでとう」
「あ、ああ。おかげさまで。あ、あと、イザナミも無事だよ。ほら。私、頑張った」
教授が言うと、アイが『むっ!』とイザナミの入った精霊石を見せてくれた。
「そうね。任務、ご苦労様」
「も、諸々、怒っているのかい?」
「当たり前じゃないの!」
教授はほっぺをムニーッと引っ張られた。
その瞬間、馬場の怒りは一時静まり、モチプル! とびっくりした。
そんなことをしている裏側では、任務に忠実な自衛官がゴムボートを岸辺に着岸させていた。
すると、すぐに命子や、たった今到着したささらたちがその周りに集まった。
「よいしょ。おとととっ」
ゴムボートの上でバランスを崩す教授の手を命子が引っ張り、おしりを馬場が押す。
マナ進化してもすぐに能力が上昇するわけではないので、教授は相変わらずだった。
「いや、すまないね」
謝る教授を見た子供たちは驚愕した。
「教授のクマが無くなってる!」
「美人さんになってるデス!」
「龍角が生えていますわ!」
「良い香りがするでゴザル!」
劇的マナ進化ビフォーアフター。
なんてことでしょう、マナ進化が不健康そうな女をピカピカのお姉さんに変えたのです。もう犬の臭いがするなんて言わせません。しばらくは。
そんな命子たちの叫びの中から、ささらの言葉を拾った教授は、自分の側頭部に手を置いた。
「ふむ、龍角が生えたか。これはいいね」
「お揃いですね!」
命子はテンションを上げた。
すると、教授の外見の変化を見たアイも頭に龍角を生やしてバージョンアップ。
『むーっ!』
「「「しゃ、喋ったー!」」」
お祭り騒ぎだった。
魂魄の泉から出た命子たちは、急ぎ、風見総合病院に来ていた。
次元龍は、『封印が解かれたことで龍の巫女の魂が解放された』と言っていた。
つまり、龍の巫女はすでに眠りから覚めている、あるいはそろそろ覚めるはずだ。
命子たちは、その功労者であるイザナミを引き合わせるために、病院に来たのだ。
「音井君!」
「柏木先生。お疲れ様です」
駐車場に止めた車から出た命子たち。
すると、研究用車両の近くにいた柏木が、教授に声をかけた。
「聞いてくれたまえ! 先ほど龍の巫女が1分ほど目を……むっ?」
柏木は教授の顔を見て、目を光らせた。
教授はもじもじした。
「き、君、もしやマナ進化したのか!?」
「はい。おかげさまで」
「なんという種族になったんだね!? その角は龍角か!? マナ視とはどんなものなんだね!?」
「ちょ、ちょっと待ってください。それは後程にしましょう。それよりも今は龍の巫女です」
「むっ、わかった。とりあえず、なんという種族になったかだけ教えてほしい」
「え、ええっと。文殊姫です」
「ほう、文殊か。いい名ではないか」
柏木はそう言って喜んでくれるが、教授は少し恥ずかしかった。
文殊とは一般的に、知恵を司る文殊菩薩を指す言葉である。
宗教観によるかと思うが、多くの人は『知恵の神』と捉えるだろう。
だから、教授は照れているのだ。
教授は咳払いをして、柏木に言った。
「龍の巫女の容体について教えてください」
「うむ。今から1時間ほど前かな、58秒間、目を覚ましたよ。その後、勾玉を手にして再び眠りについてしまったがね。わずかな時間だったので、コンタクトは取れなかった」
命子たちは顔を見合わせた。
柏木の情報は、命子たちが無限空間道に入る前に教授が言っていた情報だったのだ。
「ということは、それ以降に変化はないんですね?」
「ああ、ないね。なにかあったのかい?」
「はい。話せば長くなるのでかいつまんで説明しますが。例の精霊が日本列島に施されていた全ての封印を解いたことで、龍の巫女の魂が解放されたとのことです。おそらく、これでいつでも目を覚ます状態に入ったかと思います」
「ほう、全然わからんが、すぐに行こう!」
封印などと言われ、すぐに受け入れられる老齢の学者はめったにおるまい。
柏木もそうだったが、変化した理を柔軟に受け入れる度量はあった。封印とやらも、あとで研究すればいいのだから。
その場で柏木を、病院内では医師を捕まえて、命子たちは龍の巫女の病室に入った。
龍の巫女はベッドで静かに眠っていたが、先ほど来た時とは違い、その胸に勾玉を抱いていた。
「教授、龍の巫女の魔力量がレベル25相当くらいに上がっています」
命子は【龍眼】を発動して、龍の巫女の変化を教えた。
「ふむ、万全な状態になったということかな。了解した」
命子から教えてもらった教授は頷きつつ、自身でも【神秘眼】を発動してみるが、まだ熟練度が足りないようでわからなかった。
教授はベッドサイドに立つと、イザナミが入った精霊石を取り出した。
「君の相棒がとても頑張ってくれたよ。褒めてあげてほしい」
教授はそう言って、勾玉の代わりに精霊石を龍の巫女の手に握らせた。
すると、龍の巫女が静かに目を開けた。
ゴクリと喉を鳴らす一行の前で、龍の巫女はよろよろと上体を起こそうとした。
「まだ無理をしてはいけないよ」
医師が優しく諭して、龍の巫女をそのまま横にさせた。
龍の巫女は少し困惑した様子で医師を見つめ、すぐに命子へと視線を向けた。
「龍神様、お会いしとうございましたのじゃ。このような格好でお許しくださいなのじゃ」
龍神様。
テレパシーを受け取った際にも言われたが、その勘違いはきっと、命子の中に多く次元龍のマナ因子が混ざっているからだろう。
その訂正の優先順位は高いものの、これを説明すると目覚めたばかりの彼女に負担がかかりそうなので、命子は言うべきことを言うことにした。
「ううん、気にしないで。私もあなたとお話しできて嬉しいよ」
「本当なのじゃ?」
「うん。さっきも私に語りかけてくれたよね?」
「なのじゃ」
「約束通り、イザナミちゃんは助けたよ。まあ、私じゃなくて、こっちのお姉さんがだけどね」
命子が言うと、龍の巫女は教授に視線を向けた。
「御礼申し上げるのじゃ。イザナミを助けてくれてありがとうなのじゃ」
「君を助けたいと命を張ったイザナミを、君の同胞である私たちが見捨てることはできまい。イザナミが助かったのは、我々の心を打つ友情をイザナミ自身が見せたからだよ。君のお礼は確かに受け取ったが、イザナミこそ褒めてあげたまえ」
「……なのじゃ」
龍の巫女はコクンと頷くと、精霊石を優しく撫でた。
精霊石がピカピカと光った。
龍の巫女の目がトロンとしているのを見て、教授は続ける。
「君は目覚めたばかりだ。ゆっくりと世界のことを学んでいこう」
教授の言葉を聞いた龍の巫女は、天井へ目を向けて言った。
「……わらわは、きっととても遠くまで来てしもうたのじゃろうな」
「それも含めてね。学ぶことは多い」
「一つだけ教えてほしいのじゃ。トヨは立派に女王を務めたかの?」
トヨと聞いた教授と柏木は、顔を見合わせた。
「君はイヨで間違いないね?」
「いかにもなのじゃ」
「ならば、トヨとは君のことではないのかい?」
邪馬台国の壱与は『台与』と呼ばれることもある。
これは同一人物であるとされていたが、どうやらそれは違ったようである。
龍の巫女・イヨは、首を横に振った。
「わらわとトヨは双子なのじゃ。先代龍の巫女様は、女王と巫女をしておられたのじゃが、その力は強く、誰も後を継げなかったのじゃ。そこで、わらわが龍の巫女を、トヨが女王を分けて継いだのじゃ」
「そ、そんなことが」
教授と柏木、そしてある程度歴史に明るい紫蓮が、驚愕した。
「わらわやトヨのことを忘れてしまうほどの時が流れてしもうたのか。……いや、龍神池を封印したのはわらわたちか。ならば、『オモイカネ』を使える者も生まれぬは道理であったのじゃ」
「オモイカネ?」
思兼とは、アマテラスが岩戸隠れした際に、アマテラスを外に出すための策を授けたとされる神の名だ。
しかし、イヨが言うオモイカネは違う意味だった。
「オモイカネとは思いや伝承を残すための巫女衆の秘術なのじゃ」
イヨはそう言うと、空中にマナ文字を書いた。
それは一筆綴りの見たことがない文字だったが、魔眼が使える者には『わらわはイヨ』と書いてあるのがわかった。
イヨはマナ文字をサッと手で散らすと、パタンと腕をベッドに落として、瞼を重たそうにした。
「先代様……トヨ……」
イヨはそう呟くと、眠ってしまった。
医師に促されて、命子たちは病室から静かに退室した。
「たくさんの人と別れてしまったんですのね」
ささらがしゅんとした。
「そうだね。しかし、これからたくさんの出会いがある。もちろん、ささら君もそうだ。君らは会う機会も多くなるだろう。良くしてあげたまえ」
「はい」
ささらや命子たちは頷いた。
「私はしばらく病室に留まりたいと思う」
教授がそう言うと、馬場が眉根を寄せた。
「あんた、報告書を書かないとならないでしょ。マナ進化の検査もあるし」
「それはそうなんだが、イザナミ君に魔力を提供できるのは私と命子君しかいない。イヨ君が眠ってしまった以上、もしものために私が待機しておいたほうが良いと思う。あの状態の精霊がどこまで安定しているか不明だからね」
「むぅ、そういうことなら……」
「報告書は病室で書いておくよ。翔子は悪いが、命子君たちを頼む」
「わかったわ」
というわけで、教授をその場に残し、命子たちは帰路についた。
こうして、命子たちが関わった精霊事件は幕を降ろすことになった。
読んでくださりありがとうございます。
前書きで書きたかったんですが、軽いネタバレになるので、こちらで。
今回の話では大昔の人が出ますが、『日常会話が通じる』ということでご容赦ください。
調べるのも大変ですし、読むほうも大変でしょうから。
という感じでよろしくお願いします。