9-21 命子出陣
本日もよろしくお願いします!
「美少女の分身はズルいよ……っ!」
大喝采を浴びてにゃんのポーズをするルルを見て、命子は言葉を絞り出した。
タブレットからはルルの無邪気な様子を背景にして、『さあ、いよいよ次は羊谷命子選手の演武になります! お見逃しなく!』などと実況者の興奮した声が流れている。
映像が切り替わり、命子が出走するまでの束の間、各コースの観客たちの様子が映った。
命子が行く予定の必殺技コースの終点では、沿道はもちろんのこと、隠れスポットである川の対岸や橋の上、ビルの窓にも観客が溢れかえっていた。
そんな観客の中に、部長率いる風見女学園の顔ぶれがあった。
カメラは当然のごとく、美少女たちのキャッキャとした姿を捉えたのだが、なにを思ったのか、部長たちがドッドッパン! ドッドッパン! と足踏み二回に拍手を一回のビートを刻み始めるではないか。
そのビートは風見女学園の生徒だけで終わらず、すぐさま隣の観客に伝播し、さらには沿道を彩る観客に侵食し、ゴール地点からウェーブのように命子がいるこのスタート地点にまで到達した。
まるで東京全体がドッドッパンしているような命子ちゃん大煽り祭りが開催された。
「東京の人はノリが良すぎるんだよな!?」
きっと洒落乙なディスコとかで培っているに違いない!
まあ東京の人からすれば、風見町の住人だけには言われたくないだろうが。
そう、風見町出身者の命子もノリの良さなら負けないのだ。どうしようどうしよう、と言っておきながら、ドッドッパンのリズムに華奢な肩が自然とクネクネ動き始めてしまう。たーのしーぃ!
「羊谷さん、それではお願いします!」
自分たちが運営しているイベントが大盛り上がりになっているのが嬉しいのか、スタッフさんも興奮した様子で命子に声をかける。命子のクネクネした下手くそなダンスは全く気にしない。
「はっ!?」
命子はドッドッパンから正気に返り、ドッドッパンのリズムに合わせて顔を叩いた。
「よし、やったるか!」
気合を入れて、いざ出陣。
さあ、掴みから飛ばしていくぜ!
「スタッフさん。そちらからは行きません」
「え? それは……え……えぇえええ!?」
カーテンを開けてくれているスタッフさんに、命子はにやりと笑って言うと、自分らしい登場を演出した。
命子が行なったそのプレイに、スタッフさんがすっげぇと目を見開いて、その姿を追った。
時は2月の下旬。すでに17時に差し掛かり、いよいよ空は夜の支度を始めた薄闇模様。
しかし、大都市東京に死角はない。夜の暗さを消し飛ばせとばかりに、コース上を明るく照らしていた。
『さあ、歓声鳴りやまぬ本大会もついに最後の選手となりました! 生きる伝説、時代の風雲児、彼女こそファンタジー・オブ・ファンタジー! 小龍姫・羊谷命子選手の登場です! って、うぇええええ!?』
ドッドッパンしながら待つ観客の前に、いよいよ命子が姿を現した。
ステージの上から。
なんと命子はステージの背景を飛び越えて、浮かんで登場したのである。
「「「わぁあああああ!」」」
実況者の驚愕の声をかき消すような大歓声が上がる。中にはアイドルのコンサートさながらに、「命子ちゃーん!」と熱烈なコールも聞こえた。
さて、浮遊を可能とするスキルは今のところ見つかっていない。馬場が手に入れた体重を操作する種族スキルがそれに近いが、上昇する効果はない。
ではなぜ命子が浮いているかと言えば、足の裏にある2冊の魔導書がそれを助けていた。
そう、命子はついに魔導書で自分の体重を完全に支えられるまでになったのである。
腕を組み、仁王立ちでふよーっと飛んでくる命子。
地味だけど、なんか凄い!
観客は喜んだ。
足を支える魔導書をサッとどかすと、命子はふわりとステージに降り立つ。その周りでは3冊の魔導書が螺旋を描いて、着地のアクションを派手なものに仕立て上げる。
中級の魔導書を手に入れたことで、ついに『魔導書士』をマスターした命子は、今では三次ジョブ『魔導書師』を解放していた。
そのジョブスキルの中には、【魔導書装備枠+1】が追加されており、命子は3冊まで魔導書を装備できるようになっていた。
ステージに降り立った命子は、ニコパと笑いながら観客に愛想を振りまく。
その笑顔の裏側で、命子は冷や汗を流した。
これまでの選手たちが温め続けてきた場の空気は、誰も見たことないような驚天動地のフィナーレを期待しているような雰囲気に満ちていた。
紫蓮に偉そうなこと言ったけど、正直、命子は吐きそうだった。
命子ちゃん、ちょっと肩透かしだったよね、とか言われたくない。
だが、もういまさらグダグダ言っても遅い。
要は、魔法が放てない共通コースをどうにかすればいいのだ。必殺技コースに入れば、もうこっちのものである。だから、そこにたどり着くまでハッタリでやり過ごすしかない。
実況の紹介が終わり、ステージゲートが上がった。
頑張ってやるっきゃねえ、と命子は覚悟を決める。
「刮目せよ」
命子は小さな声で呟き、心の中のスイッチをテシッとオンにする。
中二病ランプがペカッと光った。
サーベルを抜き、胸の前に突き出して真横に倒す命子。
意味ありげに目を瞑り、サーベルの根元に左手を添え、切っ先に向けてゆっくりと滑らせていく。
本大会では何人かが修行せいのポーズをしてしまったので、羊谷命子、苦肉のポージングである。
左手がサーベルの切っ先へ移動するにつれて、命子の角が淡い光を放ち始める。
現象はそれだけで終わらない。
命子のショートヘアと和服が風を孕んでふわりとはためく。
明鏡止水に至った達人のように薄眼を開ける命子の体から、薄い緑色のオーラが溢れ出した。
「秘術【龍脈強化】」
命子は奥の手をさっそく使った。
最近、ジョブ『小龍姫』をマスターした命子は、マスターボーナスで全ての種族スキルが少しだけ強くなった。
そもそも【龍脈強化】とは、常時ほんの少しだけ全体的に強くなるパッシブスキルだ。
体感では一割も強くならない地味なスキルなのだが、もう少し強化できないものか研究した結果、意図的に龍脈から力を引っ張り出すことに成功した。それでやっと一割ほどの強化になる。
その状態がこの薄緑色のオーラだ。
紫オーラに赤オーラ、そして最新のトレンドは緑オーラなのである!
さらに、魔導書にも光が宿る。
魔導書は魔法を唱えさせるとページを開いてエフェクトを発生させるが、命子は閉じた状態で属性を付加することに成功していた。これは紫蓮たちが武器に属性を宿していることから、できると確信して編み出した技法だ。
緑色のオーラを纏い、周りには水、火、土の属性の光をそれぞれ宿す3冊の魔導書。それらの中心には、森に佇む泉のように静まり返った瞳をする命子。
その姿はとても神秘的なのだが、それこそが罠。
これぞ、羊谷流中二芸。そう、これらをするのに目を細める必要もサーベルを横に倒す必要もないのである!
羊谷流中二芸の使い手である命子は、絶妙なタイミングでクワッと目を見開いた。
その開眼演出が、観客の心にぶわりと突風が駆け抜けたような錯覚を与えた。これこそが羊谷流中二芸の真髄!
「ゆくぞ!」
気勢を上げて、命子がステージから跳躍する。
【龍脈強化】を使っても、その動きは純粋な近接ジョブのささらやルルに劣るもの。しかし、一般人からすれば十分に速い動きだった。
ただ、当の本人は自分が近接ジョブに劣った動きだと思っているため、普通にしたら観客の感動は引き出せないと、頑張っていた。
空中で魔導書を蹴りつけ、三角飛びをしながら体をコマのように回してサーベルを振るう。そのサーベルの動きに合わせて、3冊の魔導書が飛び交った。
緑のオーラと角から零れる燐光が命子の動いたあとに残り、ふわりと消えていく。
シュタリと着地した命子を見て、観客から歓声が上がった。
その声を聞いて命子はホッとしつつも、気を抜かずに演武に集中する。
決して長いとは言えない足を動かし、シュババと走る命子。
ギミックがあれば派手なアクションを、ギミックの間でも疾走しながらアクションと、多くの選手がやっていたオーソドックスな構成だ。
かつては前転すら真っすぐできなかった子が片手で側転し、体を戻す反動に逆らいながらサーベルを鋭く切り上げる。
回転斬りに、魔導書を足場に使った三次元殺法、時にはコロンと転がってサーベルを振る。
それらのアクションは命子の懸念とは裏腹に、観客の目にはこの大会の誰よりも派手なものに映っていた。
その原因は魔導書にある。
命子は、実のところ他者の目線で自分の武術をじっくりと分析したことがなかった。
命子スタイル、つまり魔導書による打撃を組み込んだ武術は、そもそも通常の武術よりも魔導書の分だけダイナミックに見えるのだ。
しかも、命子の場合は魔導書が属性の光を空中に残すため、よりダイナミックに感じられた。サーベルを振るたびに、まるで巨大な爪牙が生まれたように錯覚するのだ。
そんなふうに、命子が通り過ぎた場所では、多くの観客が大変な満足感に満たされつつ、大興奮しながらお手持ちのタブレットでその後の命子の様子を追うのだった。
『素晴らしい演技に来場者も私も興奮を隠せません! 解説の藤堂さん、いかがでしょうか!?』
各テレビ局が実況者のほかに解説者を招致しているように、命子の演武を独占放送するエネーチケーも解説者を招いていた。世界一強いと噂がある自衛官の藤堂である。
『はい、羊谷さんはメキメキと強くなりますね。おかげで我々もうかうかしていられません』
『世界トップクラスというのは、やはり誇張ではないということでしょうか?』
『それはもちろん誇張ではありません。ただ、体術関連についてはそこまでではないですね』
『えぇ、あれでですか!?』
『はい、体術に関しては、近接ジョブの恩恵を受けて熱心に修練を積んだ覚醒冒険者には届いていません。羊谷さんの恐ろしいところは、魔力操作と魔導書関連の技術です。世界中の猛者も同意見になるかと思いますが、これらの技術に関しては世界でも十指に入るレベルです。私としては十指どころか一番なのではないかと思っています』
『それほどですか!?』
『羊谷さんたちの攻略サイトは各国で翻訳されて、エリート軍人も熟読していると言われていますからね。これは自衛官も同じです。魔力や魔導書の扱い方や裏ワザはほぼ羊谷さんの後追い状態になっているのが現状です。例えば、いま見せている『武器に属性を纏わせておきながら攻撃性能を抜く』という小技は、高い攻撃力を求める自衛官ではなかなか思いつかないですね』
『なるほど。MRSの『冒険道』、私も実はあのサイトの大ファンで……おっと、今の技はなんでしょうか!?』
命子の突きを見て、実況者が話を変える。
ただの突きではなく、命子の背後から3冊の魔導書が前方へ飛び出し、サーベルの周りを螺旋状に飛んで、突きのサポートをした。
藤堂は若干苦笑いをした。
完全に命子の趣味の技なのだ。派手さは凄いがあまり実用的ではない。本気の命子なら、もっと勢いがつく横殴りの軌道でぶん殴るだろう。
しかし、批判的なことも言いづらいので、それらしいことを言っておいた。
『突きの軌道をわかりにくくしていますね。基本的に魔導書に魔法をセットしますので、あのまま殴りつけるのではなく、途中で分離して魔法を放つなどいろいろな戦法が考えられます。ただ、E級以降の魔物は武器をパリィして耐久度を落としてくるものもいますので、F級くらいまでに使う技でしょう』
『はぁー! 魔導書使いの真髄とも言える演武なわけですね』
それからすぐに少し実況に間が空きそうな場所に入ったので、藤堂はネタを挟むことにした。藤堂はこういう仕事は初めてだったので、沈黙を恐れてネタをいくつか用意したのだ。
『以前、羊谷さんに魔導書の扱いが上手くなるコツを聞いたことがあります』
『それは興味深いですね!』
『魔導書を抱いて寝る、だそうです。羊谷さんは魔導書を手に入れてよほど嬉しかったんでしょうね。あとは中二病的な発想力らしいですよ』
『なるほど! そんな初心が、世界一の魔導書使いを作り上げたのかもしれませんね! あとは若さですか!』
実況者が嬉しそうな顔をする。
こういうエピソードは視聴者ウケするので、大好物だった。
藤堂はなかなかできる男だった。
楽しい。
観客の声援に包まれる命子は、嫌な緊張が抜け、いつしか笑っていた。
かつてはドッジボールで1メートル先の地面にボールを叩きつけていた少女は、運動でみんなから称賛されることに快感を覚えていた。いや、そういう人生だったからこそ、この歓声に喜んでいるのかもしれない。
足が速かったあの男子も、バレーボールが上手だったあの女子も、みんなこの歓声を知っていたのだろう。文化祭で演劇をしたあの子も、歌を歌ったあの子もきっと同じだ。
自分の努力を大会で披露して、みんなが笑顔になる。
それはきっと——
ギミックがない場所でシュタタタと疾走した命子は、走り幅跳びをした。
ささらたちよりもずっと劣る飛距離しか跳べない命子だが、魔導書を使えばみんなにはできない凄いことができる。
慣性を宿したまま宙を舞う命子は、緑色のオーラをマントのようになびかせて、魔導書に着地する。
地上50センチくらいの高さをスゥーとスライドするように移動し、バックフリップしながらアスファルトに着地した。
——とても凄いことだ。
万雷の拍手を浴びる命子は、ニコパと笑ってそう確信した。
大盛況のまま、命子は必殺技コースに入った。
途中でパーティコースの方に行きそうになったが、スタッフが誘導してくれたので回避。おのれ、東京めである。
必殺技コース。
隅田川を左手に走る必殺技コースは、河川へなら魔法を撃っていい。もちろん、木や柵などへ当てるのはご法度だ。
ほかの特徴として、このコースは魔法が見たい観客が集まっているので、余計なギミックはない。あるのは選手の走行補助や射線確保のための仮設のスロープや階段などだけだ。
やはりここも盛大にライトアップされており、命子が走る場所は濃い影を見つけるほうが難しいほどだ。
命子は大観衆に迎えられながら隅田川の前に立った。
さっそくなにかぶっ放すと思いきや、命子はサーベルを納めると、代わりに服の中から魔導書を1冊取り出した。
『変化の魔導書』
最近少しずつ発見され始めた中級の魔導書の中の一つで、命子が唯一持っている中級の魔導書でもある。
命子は3冊の魔導書を魔法待機状態にすると、変化の魔導書を手に持って発動する。
命子の角が光を放つとともに、手の中でひとりでにページが捲れていき、幾何学模様が3つの魔法に飛んでいく。
以前作った『火炎龍』と違って作業工程があっさりしており、それはつまり、今の命子にとって労せず作れる魔法という意味でもあった。
「魔法鳥」
命子がそう唱えると、魔導書の上で待機する水弾、火弾、土弾が鳥の形に変化して、隅田川へ向かって放たれる。
翼の先端から属性エフェクトの線を引きながら飛翔する魔法鳥。青と赤と黄色の光がまるで戯れるように螺旋を描き、これから向かう下流方面に飛んでいき、やがて着水する。
80メートルと通常の魔法の倍もある飛距離にもかかわらず、着水した水面から水の柱が立ち上がる。
命子には聞こえないが、解説者の藤堂がこれを絶賛した。
魔法は最終的に放物線を描くように落ち、その際の攻撃力はほぼゼロになる。
命子は込めた魔力でどこまで威力を維持できるか正確に見切り、着弾させている。しかも3つの魔法を同時にだ。
藤堂が世界一と称賛するのは、決して命子の人気にビビっているわけではないのである。
興奮する観客の声を聞いて手ごたえを感じた命子は、すぐに3冊の魔導書を魔法待機状態にして走り始めた。
そうして、手に持つ変化の魔導書から指示を出し、1冊ずつ順番に魔法を放っていく。
最初の1発は魔法を使う狼煙だったのでそこそこ派手なことをしたが、これからは魔力を節約するために1発ずつだ。
火の蝶、水の魚、土のイタチ、火の剣、水の槍、土のパンチ、といろいろな形の魔法が飛んでいく。
その都度、観客から歓声が上がるさまは、今までシンプルなものしかなかった魔法に更なる可能性を見出している様子だ。ロマンと言い換えてもいいかもしれない。
しかし、使っている本人はこれらの魔法の正体を知っていた。
形こそ変わったが、これらは水弾であり、火弾であり、土弾なのだ。二次職の魔法使いが使う魔法に威力ではかなり劣った。例えば、水弾を回転のこぎりのような形状にしても、『水魔法使い』が使う水刃に劣るのである。それを証拠に、これらの魔法変化には大して魔力を消費しなかった。
まあ、それでも喜んでもらえて、命子はとても嬉しいのだが。
そんなふうに楽しむ心情とは裏腹に、命子の顔からは笑顔が消えていた。
最近すっかりお姉さんぽくなったと評判のロリッ娘フェイスを勇ましくキリリとさせ、その脳みそでは今まさに、何十匹もの脳内ハムスターがホイールを必死に回して、魔導書操作や魔力計算など様々な処理の手助けをしていた。
400……392……381……。
一定間隔で魔法を放ち、魔力もその都度減っていく。
初級魔法のベースは5点。
どういった変化や命令でどれほど魔力を上乗せする必要があるのか、命子はすでに熟知していた。
373……365……。
魔力が減り続けるが、命子は焦らない。
むしろ変化のバリエーションが尽きたことに焦った。仕方ないので、すでに使った形状を再利用する。
やがて、人垣の厚さや歓声の大きさが変化し始めた。
「「「命子ちゃーん! 頑張れー!」」」
ふいに部長たちの陽気な声が聞こえた。
魔力残量のカウントが脳内でポンとはじけ飛んでしまったが、すでに目途は立った。
命子は少しだけ口角を上げて、部長たちに片手で挨拶し、最終地点へ目を向ける。
隅田川から晴海運河に入る手前にある三角地帯。
そこには命子の魔法を一目見ようと、沿道は元より、対岸、橋の上、ビルの窓や屋上と、観客で埋め尽くされていた。
「ふふっ、まるでスーパーアイドルじゃんね」
さすがの命子も、この光景には体の奥底から熱いものが込み上げてきた。思わずそんな独り言を呟いて、自分の緊張の度合いを推し測る。
そうして、それほど緊張していない自分を発見する。
多くの経験を積み、命子の中で、緊張ゲージみたいなものはすでにぶっ壊れてしまっているのかもしれない。
命子は最後の準備として、服の中から2冊の水の魔導書を取り出し、火と土の魔導書と入れ替えた。命子の服の中には、【アイテムボックス】を展開したポシェットがあるのだ。
水の魔導書3冊という布陣にしたのは、命子の魔法は火力が強すぎるためで、本気の状態で火魔法を絡めると川の水が大爆発することが事前の調査で分かっていた。各所から苦情がくることを予想して、このようになったわけだ。
そうして、命子が三角地帯にせり出したステージの上に立つと、命子が姿を現してから鳴りやまなかった歓声が、不思議と波が引いたように静まっていく。
時折、「めいこちゃーん!」とファンから聞こえるのはご愛敬だろう。
命子は、そんな中にキャルメたちの姿を見つけた。
ホテルでの朝や夜のバイキングで、キャルメたちは少しばかり日本人に遠慮している素振りがあった。しかし、この時ばかりは特等席に陣取り、みんなが爛々とした目で命子の姿を見ている。
目を細めて笑う命子はそんなキャルメたちへ、小さく手を振る。
命子も彼女たちからは大ファンの気配をビシバシ感じていた。だから、その期待を裏切るわけにはゆくまい。
「さあ、みんな行こうか」
命子は魔導書たちへそう告げて、川というには広大な三角地帯へ目を向けた。
嘘のように静まり返った会場。
隅田川のせせらぎが妙に耳につく。
その静けさが命子の集中力を高めていく。
命子の前方で、3冊の魔導書が逆三角の形で配置された。
「水よ」
その宣言とともに、右上に配置された水の魔導書が開き、水弾が出現する。
「水よ!」
左上の水の魔導書がページをめくり、そこからも水弾が現れる。命子の龍角が魔法を重ねるたびに光を増していく。
「水よ!!」
最後に、下部に配置された水の魔導書に3つ目の水弾が形成された。
全てを水の魔導書に入れ替えたが、3冊の魔導書に魔法を待機させるのは、ここまで道中で常に行なっていたこと。
しかし、魔力が上乗せされたことで、その規模が違う。いま現れているのは、強化水弾と呼ばれる数割強い魔法であった。
【龍眼】が紫色に輝き、【龍角】から青い燐光が溢れ出す。
魔力パスを操作するために前方へ片手を突き出す命子の足元で、【龍脈強化】を表す緑色のオーラがぶわりぶわりと幾重にも波紋を作り始める。
「はぁあああ、【魔法合成】!」
命子がそう唱えると、3つの水弾が逆三角に配置された魔導書の中央で混じり合う。
そこに現れたのは、一流とさえ言える部長たちが6人で作り上げた水球を上回る巨大な水の塊だった。
街を照らす文明の光を溶かしてしまいそうな、透き通った青い光が一帯を照らす。
だが、この巨大な水球をただ飛ばすだけではない。
手元にある4冊目の魔導書がひとりでに高速でページをめくり始める。
この頃になると、会場はしっかりとした意味を持って静まり返っていた。
大きな魔法現象の前にして、魂が畏怖し始めたのだ。それはメリスのマナ進化ほどではないが、集団心理も手伝って多くの人が言葉を発せずにいた。
変化の魔導書から幾何学模様が巨大な水球に向けていくつも飛んでいく。
一つの模様が魔法に吸い込まれていく度に、突風にも似た不可視の波動が生まれる。
ステージの下の水面に大きな波紋が生じ、近くで見守る自衛官は突風から片手で顔を隠し、スタッフは想像以上の現象に尻もちをつく。
波動の影響は観客の下までは届かないものの、スタッフの様子を見れば否応なしに胸が高鳴る。
やがて全ての幾何学模様が注ぎ終わると、役目を終えたように変化の魔導書が命子の手の中でパタンと閉じた。
一瞬の凪のような静寂。
そこに命子の声がこの魔法の名前を宣言する。
「水龍」
その瞬間、巨大な水球から水の龍が飛び出した。
解き放たれた水の龍は凄まじい速度で飛び、水面をV字に切って大きな水飛沫を作り出す。
その光景は破壊力を意味しているが、水の龍から放たれる青い光が水面や水飛沫を輝かせるさまは、あまりに美しい。
夕闇を切裂くその青い龍の姿に、魔法という力に身震いをするほどの憧憬を抱く者は多かった。
龍は途中で川の中に頭から突っ込んでいく。
終わりかと思うよりも早く少し離れた水面が爆発し、そこから再び龍が飛び出した。
三角地帯の中央に現れた水の龍は水上10メートルほどまで昇ると、水でできた体を静かに散らしていった。キラキラと輝く青い雫が闇に溶けて消えていく。
命子の魔法が終わり、時が動き出す。
唖然とする人とキャッキャする人が入り乱れる中、命子は後半あまり使わなかったサーベルを抜き放ち、天に掲げた。
「やぁあああああ!」
とりあえず、いつだって盛り上げていくスタンス!
民意は、キャッキャする方へ一気に傾く。
東京の町が震えるほどの大歓声が上がった。
読んでくださりありがとうございます!
いくつかの補足は次回にでも。