桜田門外に紅の花が咲く
一八六〇年 三月早朝、鉛色の空からは、その不気味な色に、似つかわしくない真っ白な雪が次々と降り注いでいた。辺りを見回すと、庭は一面、雪景色に変っていた。
井伊直弼は、長いため息に似た息を吐いた。すると、寒さのせいで口から白いゆげがゆらりと流れ、それが消えるまでしばらく眺めていた。
一昨年から始めた、反体制派と攘夷派の弾圧は成功したと言ってもいい。政敵であった水戸の徳川斉昭の動きもなりを潜め、水戸でおとなしく蟄居していた。各藩の大名達も幕府の強い姿勢に従い、誰も異を唱える者はいなくなった。京でも直弼は厳しく取り締まり、朝廷で現役の公家達も容赦なく処罰した。対象であった者達を守る人間まで入れると、死者の数は相当数にのぼり、その事を考えると断腸の思いであった。
夕べは、幕政の構想を書面に記していたために一睡もしていなかった。そのせいか、目は赤く充血し体調も良いとは言えない。
この二年間の直弼は、正に鬼と化して行動していた。そのせいもあってか、傾きつつあった徳川幕府の権威は元に戻りつつある。これからはようやく前を見据え進むことができるだろう。だが、これで本当に良かったのか。他にも何か手があったのではないか、弾圧と言う強硬手段を使わずに話し合いで解決できなかったのか。
だが、今更そんなことを考えても仕方ないことだった。この悪行を、後の世の人々が勝手に解釈すればいい、直弼はそう思った。
「殿、お呼びでございますか」
襖の向こう側から、戸口政朝の声が聞えた。戸口は今年になってから藩の家老に昇格させていた。
「入れ」
直弼が短く答えると、襖は開けられ、頭を下げていた戸口が立ち上がり中に入った。座るように指示をすると、直弼の背後に回り姿勢を正して座った。
「もしや、夕べは一睡もされなかったのでは? お願いでございます、せめて睡眠だけはとっていただけませんか」
すっかり痩せてしまった直弼の姿と充血した目を見て、戸口は心配そうに直弼を見た。
「一晩くらい、どうと言う事はない」
「ここのところ、食の方も細くなっております。それでは体がもちませぬ」
戸口は尚も直弼に言い放つ。
「わかった、わかった。後で朝食を取るゆえ、案ずるな」
直弼は苦笑しながら戸口の説教を止めた。
「実はな、これを届けてもらいたいのだ。本人は、今、この国にはいないのだが、重要な書簡にて、直接、お前に届けてもらいたい」
直弼は一通の書簡を手に取り、戸口に手渡した。その宛名を見た戸口は首をかしげて直弼を見た。
「その男はな、これからの幕府にとって重要な役割を成す男になる。元々は阿部 正弘殿が見つけてな、なかなか出来る男だと評判なのだ。今日の登城、お前は付いてこなくてよい、そのかわりこれを頼む」
「分かりました。仰せの通り私が直接お届けいたします」
直弼は再び文机に体を向けた。戸口は一度頭を下げて顔を上げるが、何か言いたげな表情をすると、しばらくじっとしていた。
「なんだ、何か言いたいことでもあるのか? 遠慮せずに申せ」
その気配を感じて、書き記していた書を片付けながら直弼は背中越しに声を掛けた。
「はい。今日の登城、警護の人数を増やしてはいただけないでしょうか? 殿のお命を狙う噂が聞えております。できれば、あのお方にも来ていただいた方が宜しいかと思うのですが」
「あのお方? ああ、朽葉か。あいつは駄目だ。あんな奴が行列に加わったら彦根の品位が疑われてしまうだろう」
直弼は嬉しそうに声を上げて笑った。そして、再び立ち上がると庭の方にある襖を開け外を眺めた。
「陰であいつが動いてくれなければ解決できぬ事が多々あった。あいつにはこの二年間本当に助けられたのだ、もうこれ以上迷惑はかけられんよ。それに、朽葉士光と言う男は私にとって唯一の友なのだ、立場の違いはあれど、あいつとはいつまでも対等だ。行列になんか参加させては、私が上の立場になってしまうではないか。それにな、自分の命が惜しくて警護の数を増やしては、幕府の沽券に関わる。例え命を狙われていても背筋はしっかりと伸ばしておきたい」
直弼の話に戸口は黙って頭を下げるが、それでも何か言いたげに、じっと動かずにいた。
「心配するな、戸口。このように雪が積もった状態では襲う気もそがれるだろう。この寒さだ、警護の者達にはしっかりと防寒をさせるように命じておけよ」
直弼が笑って諭すと、戸口は顔を上げて直弼の顔を見た。その笑顔から、大きな哀しみを感じた戸口は、それ以上何も言えず再び頭を下げると、部屋を出ていった。
やがて刻は、登城を告げる太皷の音が響く。すると、彦根上屋敷から遠く離れた場所で、一軒の居酒屋の戸が開けられ、一人の男が顔を出した。
『おお、結構積もってやがるな。こりゃ、雪見酒と洒落込まねえともったいねえ。源之助、酒持って来いよ!』
江戸城の周りでは諸侯の面々が行列をなして城に向かっていた。それを見物するために、多くの町民達も姿を現している。
『全く、酒ぐらい自分で持って来いよ。 ・・・・・なるほど、こりゃ積もってるな。待ってろ朽葉、今、何か食い物の持って来てやるから、まだ飲むんじゃねえぞ! 』
上空からは、若干雨が交じった雪が降っている。
やがて、彦根藩上屋敷の門が開けられ、六十名程の彦根藩の者達がゆっくりと出て来た。皆、防寒着を着込み、刀には袋が掛けられている。
彦根藩の行列は、城の内堀通り沿いを通って桜田門に向かって歩いている。下はぬかるみ始め、歩くとびちゃ、びちゃと音を立てていた。
『ほらよ、取り敢えず昨日の残り物だが食えよ、朽葉』
『悪いね、源之助くん。酒は注いでおいてやったから乾杯といくか』
行列を見物している人の数が大分多くなってきていた。皆、口から白い息を吐いている。やがて行列は桜田門外にさしかかり、行列の先頭が松平親良の屋敷に近づくと急に歩みが止まった。
駕籠の中にいた井伊直弼は、特に気に止めず目を閉じたまま座っていた。駕籠の周りにいた護衛の一人が、直訴が始まった事を告げる。だが、その後に見物人達の驚きの声が聞えた。そして、騒ぎ声が辺りを覆い始めた次の瞬間。
「パァァァン!」
一発の乾いた音が響いた途端に、直弼の腰の辺りから鋭い痛みが走った。銃で撃たれた事を直弼は知った。それと同時にこれは直訴では無く、襲撃だと理解する。直弼は駕籠の外に出ようとしたが、痛みのせいで動くことができない。
見物人達の中から武装した十八名の男達が一斉に飛び出し出す。周りの見物人達の悲鳴が更に大きくなった。襲撃者達は行列の中へ入ると護衛の者達を切りつけ始めた。突然の襲撃に驚いた彦根藩の護衛達数名が、思わず逃げ出している。
護衛している者達は襲撃に気がついて、鞘から刀を抜こうとした。だが、袋が掛けられてすぐに刀を抜けない。慌てて袋を取ろうとするが既に遅く、襲撃者達の刃が次々と届いて何人もの男達が血を噴き出している。
『・・・・・・今頃、直弼も登城している頃かな。そう言えば、今日はひな祭りだな。俺達には関係ないが、酒を飲むには良い理由だよな、源之助』
『全くだ。大老様からの要請も無くなり、ようやく俺達も落ち着いてきた。今日はゆっくりと飲むとするか』
彦根藩の行列と襲撃者達の戦いは今だ続いていて、混戦模様になっていた。彦根藩の河西忠左衛門と永田太郎兵衛の二人は冷静に刀を抜くと襲撃者達を襲い始める。剣豪として知られるこの二名の動きで反撃が始まり、襲撃者達にも怪我人が出始め、この二名の周りでは襲撃側が押され始めている。
その時、見物人達の中から、三人の男がすーっと出てくると、ゆっくりと戦闘中の中へ入っていった。
「私はあの二人をやるとしよう。眞明は行列の後方、蓮角は前方の者達をかたずけろ」
村錆忠明は、戦っている襲撃者達に下がるように声を掛け、川西と永田の前に出た。二人は若干であるが息が弾んでいる。村錆は左足を後ろに下げ、刀を手にかけ抜刀の構えをすると嬉しそうに笑った。
川西と永田が同時に動き、村錆に向かって行った。その瞬間、村錆が動いた。
あまりの速さゆえ、村錆の姿が消え、二人の間に風が通り過ぎる。その後、その先には抜刀していた村錆が姿を現し、止まっていた。
村錆は右手に刀を持ったまま、無造作に振り向くと、川西と永田の胸から血が噴き出して、前のめりで雪に埋もれた。
「今日は祭だ、楽しくいこうじゃないか!!」
村錆が声を上げて笑い出すと次々と彦根藩の者達を切りつけ始めた。
こうなっては、彦根側はなす術もない。行列の前方では蓮角が両手に短剣を握り、飛び回って相手を切れば、後方では眞明が両手に剣を持ち素早い動きでなぶり殺しにしている。辺りは、無残に切られた彦根藩の護衛達の死体がころがり、地面に積もっている雪は飛び散った血で真っ赤に染まっていた。
遂に護る者がいなくなった駕籠に、次々と刀が突き刺さされた。襲撃者の中から一人の男が駕籠の中にいる井伊直弼の髷をつかみ外に放り出した。
直弼は血だらけになっていて、あまりにの傷みに声も出せずにうずくまっていた。
「これは、悲惨な状況だ。痛そうですね鉄三郎」
村錆が、にこやかに直弼の側に来てしゃがむと顔を覗き込んだ。直弼は自分の幼名を語った男の声に反応してそちらを見ると、しばらくして目が大きく見開かれる。
「・・・・・・お、おまえは、まさか、・・・・・・くちば――――っ」
「きぇぇぇぇぇぇぇ!」
直弼が何か言いかけたのを被せるように、先程直弼を引っ張り出した男が独特の掛け声を出して、剣を振った。
何の抵抗もなく、あっさりと直弼の首が地面に転がった。
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夕刻、彦根藩上屋敷に各諸藩の見舞いの者達が次々とやって来た。将軍家からも、多くの見舞いの品が届き屋敷に運ばれている。
既に死亡している井伊直弼の死は表向き重傷となっていた。これは、幕府の重職である大老が、大名行列の間に襲われて死亡したとなると、幕府の権威が失墜する。それを恐れて隠そうと発表したのだった。
だが、江戸城の門から出て帰途についている多くの者達は、血で真っ赤に染まった雪を目の当たりにしている。その凄惨な現場から、とても生きてはいないと思っていた。何よりも、その現場を生で見ていた多くの見物人達が黙っているわけがなく、直弼の死はあっという間に江戸中に広まった。
戸口政朝は、主君の亡骸の側で姿勢を正して座っていた。直弼には布団が被せられて本人の様子が分からないようにしてあった。万が一、見舞いの者が目にしても死亡していることが分からないようにするためだった。
一人の門番が部屋に入ってくると、戸口に耳打ちをした。少し困った事があり、戸口に伺いをたてにきたのだ。
「私が行こう」
戸口は短く返事をすると立ち上がり、部屋を出た。外に出ると表門と逆の方に歩き出し、小さな裏口の前に来た。扉を開けると朽葉士光が立っていた。
「何のようですか、朽葉さん」
「直弼に会わせろ」
朽葉の表情はいつもと変らず淡々としている。だが、彼の声色は何処か殺気立っていた。
「今、殿は重病であらせられます。現在は面会できる状態ではございませんので、どうぞお引き取りください」
「誤魔化すなよ戸口。話は江戸中に知れ渡っている。つべこべ言わず中に入れろ」
特に怒りもせずに、士光は戸口を見た。
「分かりましたよ。くれぐれも騒ぎは起こさないで下さいよ」
これ以上言っても腕ずくで入ることを予想して、戸口は一つ小さなため息をすると、中に士光を招き入れる。屋敷の中の者達は、戸口以外士光を知るものはいない。戸口は一旦直弼が眠る部屋に一人で入ると、藩の者達を全員外へ出した。
「どうぞ」
戸口が部屋から出て来て、士光に目配せをした。
「すまんな、時間はとらせない、すぐに出て行く」
士光は直弼が眠る側に胡座をかいて座ると、布団を勢いよく剥がした。そこには首の無い井伊直弼の亡骸が、綺麗に洗われ寝巻きを着せられていた。それを見ても士光は表情を崩していない。
「・・・・・・首は、直弼の首は何処にあるんだ、戸口?」
士光は直弼の方を向いたまま、後ろにいる戸口に声を掛けた。
「直接、殿の首を切った男が、そのまま首を持ち去り、幕府の若年寄である遠藤胤統様の屋敷の側で腹を切って死んでいるのが発見されております。現在遠藤家と話し合いが行なわれており、もうじき殿の首はお戻りになります。
「・・・・・・襲って来た連中の正体は分かっているのか?」
士光に言われて、戸口は口を開きかけたが、そのまま押し黙ってしまった。
「言えよ。聞いたところで何もしやしねえよ。直弼が守ってきた彦根藩だ、小さな頃に世話になったところだし、俺にも愛着がある。迷惑をかける行動はしねえ」
暫く直弼を見つめていたが、目線を士光に戻し口を開けた。
「とらえた者が数人おりまして、尋問しております。詳しい内容はまだ分かりませんが、どうやら水戸の訛りがあるようです」
「・・・・・・水戸か」
士光はそれっきり何も言わず。しばらくの間、じっと直弼の亡骸を眺めていた。そして、先程とは真逆に、ゆっくりと、労るように直弼に布団を掛けてやると立ち上がり部屋を出ていった。戸口は無言で出て行く士光の後を追って裏口まで付いてきた。
「直弼に別れが言えた。礼を言う、戸口」
裏口の扉に手をかけたまま、士光が静かに話した。
「こちらこそ、殿がお世話になりました。家老としてお礼を申し上げます、朽葉殿」
戸口は頭を下げた。返事を聞き。背を向けたまま片手を上げると、士光は出て行った。
見送った戸口が顔を上げて上空を見つめると、夕焼けに染まった茜色の空が江戸の町を覆っていた。
その中に丸い月が姿を現していた。
月も赤いと、戸口は思った。
これで、第一部となる『井伊直弼編』が終わりです。
安静の大獄と言われた事件の主役、「井伊の赤鬼」は実はこんな人なのではないか?
あくまでも私見で物語を作って参りました。
色々なご意見がございましょうが、ご容赦いただきますようお願いいたします。