赤鬼の涙
雲一つ無い青空の下、一本の杉の木に止まっている蝉達が、残り少ない生命を謳歌するかのごとく、誰に聞かせているのか精一杯の大合唱を繰り広げていた。
その木の陰に隠れるように、一人の男が、長さが一間ほどのござの上に座っていた。男の右手には竿が握られ、目の前の池に糸を垂らしている。左手には酒の入った椀を持ち、ちびりちびりと口に運んでいた。
すると、一人の男が池に向かって歩いて来ている。手には、丸めたござと釣り竿を持っていた。近くまで来ると酒を飲んでいる男に気がついて側に近寄ってきた。
「どうだ、釣れているか?」
酒を飲んでいる男は、首を少し曲げ、椀を持ったまま笠を上げて 声の方を見た。
「鉄三郎か。駄目だな、竿がピクリとも動かねえ。どうなっているんだ、全く」
「隣に座るぞ、朽葉」
井伊直弼は士光の隣にござをひいて、その上に胡座をかいて座った。持って来た竿に餌を付けると慣れた手つきで手を振った。士光は、椀に入っていた少量の酒を池に放ると再び徳利から酒を注ぎ、前を向いたまま左にいる直弼に腕を伸ばした。直弼は無言で右手を伸ばして椀を受け取ると、手首を返して酒を飲んだ。
「よく、ここが分かったな」
「うん、源之助殿に聞いてきたのだ。何でも、今夜の酒の肴を取りに行ったと聞いてな。・・・・・・ところで、こんな池で食える魚なんぞ釣れるのか、朽葉?」
直弼は訝しげに士光を見た。
「うん? ああ、源之助が教えてくれたんだ。あいつ、結構釣りをやっていてな、そう言うんだから間違いないだろう」
「・・・・・・何が釣れると言っていたんだ?」
「何でも、鯛や鰹なんかが釣れると言っていたなあ。刺身にしたら旨いからな、釣れるのが楽しみだな」
直弼は、椀の酒を飲もうとして口に運んだが、途中で手を止めた。目を丸くし、口を半開きにして、しばらく無邪気にはしゃいでいる士光を見ていた。士光も黙っている直弼に気が付いてそちらに首を曲げた。お互いが黙り込んで見合っていたが、直弼が噴き出して大声で笑った。
「何だよ、鉄三郎。何が可笑しいんだ?」
士光は少し声を高くして直弼を見た。
「からかわれたな、士光。こんな池に鯛や鰹なんかがいるわけないだろう。それらは海に行かんと釣れないのだぞ」
直弼は腹を抱えて笑っている。
「何? そうなのか?? じゃあ、何が釣れるんだよ」
「ここじゃ、せいぜい釣れて鮒ぐらいだろう。今夜の肴にするには寂しいなあ。釣りをするのだったら、ほれ、後ろの川に行かんと酒の肴はとれんだろう」
直弼が、右手の親指で背中の方角を差した。
「あの野郎、だましやがったな! 鉄三郎が来てくれなかったら一日中、此所に座っていたじゃねえか」
「全く、剣技は凄まじいのに、こういうことに関してはからっきしだなあ。その辺にいる子供だってそれぐらい知っているぞ」
直弼は、尚も笑いながら持っていた椀を士光に渡した。苦い顔をした士光は、舌打ちをするとその椀をひったくった。
「どうするのだ、まだここで釣りをするのか?」
「冗談じゃねえ。場所を変えるに決まっているだろ!」
士光はふてくされながら、敷いていたござを丸め始めた。それを見て、直弼も同じようにしてござを丸めると、士光の背中を叩きながら宥め川へと歩き出した。
川に到着すると、直弼が座りながら釣りが出来る場所を探してやり、少しふくれっ面をして突っ立っている士光に手招きをした。持って来た自分の餌を士光の竿につけてやり、自分の竿にも同じく餌を付けて二人は糸を垂らした。川面は太陽の光で照らされてキラキラと光っている。周りを見ると、同じく釣りをしている人々がちらほら見えた。
一刻ほどそうしていたときに、士光の竿が反応を示した。慌てて士光が竿を上げようとするのを直弼が抑えて釣り上げる指示を出す。ゆっくりと上げるように直弼は言うと自分の手で士光の糸を掴んでやり一匹のセイゴを釣り上げた。
四十を過ぎたいい大人が二人嬉しそうに笑うと、持って来た酒を飲み合い健闘をたたえた。 そして気分を良くした士光が、やる気を出して再び釣りを再開する。
そして、緩やかな川の流れる音を聞きながら、しばらくお互いに会話をせずに黙って眺めていた。
「なあ、鉄三郎。最近、何かあったのか?」
士光は前を向いたまま、椀を口に運んだ。
「何でそう思う、士光」
直弼はゆっくりと士光の方を見た。
「なんかな。ガキの頃、言いたくても言えない時、お前いつもそんな雰囲気を出していたのを急に思い出してな」
士光にそう言われて、直弼は黙って前を向いた。
「幕閣の中心にいると、やっぱり大変なのか?」
「そりゃ、そうさ。あそこは魑魅魍魎の住むところだ。己の欲にまみれた者も多くいてな、話をまとめるのが大変だ」
「そうか」
再び二人に沈黙が流れた。直弼が下を向いて、何かを話そうとしているのを士光は黙って待ってやっていた。
ちょっと先で子供が数人で川の中に入り嬌声を上げる声が聞え、士光は無表情でそちらを眺めている。
「これは、私の独り言なのだが」
直弼はそう言うと顔上げて川を見た。
「最近、アメリカとの条約を調印したのだ。それは、私の意の反するやり方だった。本来なら帝の許しを得なければならぬところを、勝手にやってしまったのだよ。周りの幕閣の者達は、それを私の独断で行なったことにさせて、朝廷や各藩の非難を私一人に被せたのだ」
士光は最後に残っていた徳利の酒を椀に注いで、黙って直弼に渡した。
「結局その後もオランダ、ロシア、イギリスと条約を結ぶことになってな。それは不平等と言える内容なのだ。だが、いずれやらねばならぬ事であって、それは仕方がないと思っている。そして、『大老』と言う地位にいる以上、非難は私が受けるのは構わんのだ」
少し風が出てきた。周りに生えている草木が西から東へ流れている。子供達の声はまだつづいている。
「一昨日、とんでもないことが起こった。帝から密勅が水戸藩へ送られていったのだ。これは許される事ではない。徳川幕府の頭を通り越し、御三家とはいえ、将軍の家臣である者に勅諚を下賜するなどあってはならぬのだ!」
直弼は椀に入った酒を一気に飲み干して、ぎゅっと割れてしまうほどの力で椀を握っている。
「独り言の最中にすまん。帝は何て言っていたんだ?」
「先程話した条約の叱責、幕府による攘夷の遂行などだ。私はな、条約の責任を果せと言うのなら、腹を切る用意はある。だが、今、諸外国と戦になれば、間違い無くこの国は滅びる。それだけは、それだけは何としてでも阻止せねばならん!」
風は更に強くなってきた、空には大きな雲が流れている。
「聞いた話だと、裏で動いていたのは『水戸』の斉昭公だという話が耳に入っている。あの方は強力な攘夷支持者でな。そして、薩摩の島津斉彬が水戸に呼応して上京し、我が彦根藩を襲うと言う話も聞いている。だから、私は何とか攘夷の動きを封じ込めねばならん、そして、それを出来るのは私だけなのだ」
直弼は体の向きを変え士光の瞳を見た。直弼の顔はこれまでに見たことがないほどに哀しみに溢れていた。
「・・・・・・なあ、朽葉。私は、これから鬼になる。鬼になって攘夷派を徹底して封じ込めることにするぞ。私は私のやり方でこの国を救うのだ」
直弼はその後も何か言おうとしていたが、ためらいがちに下を向いてしまった。
「なあ、井伊直弼。お前が信じるその鬼道、俺にも歩かせろ」
「・・・・・・朽葉」
直弼はハッとして顔を上げると士光を見た。その表情は、かつて子供の頃に見た、友を守ろうと戦ってくれた顔だった。
直弼は藩主の子供とは言え、十四番目の子であり世継ぎとしては見られることはなかった。 なので、他家の者からぞんざいに扱われ、子供達からも苛められていたことがあった。そんな時、同じ年齢の朽葉が出て来て一緒に喧嘩をしてくれていた。
朽葉の家は特別だった。藩主の井伊家とは、俺、お前で呼び合う程の仲であった。それは、朽葉の強力な剣技とその歴史があったからである。だが子供同士の喧嘩では、そんなことは関係ない。直弼が誰かに囲まれて苛められていると、士光はすっ飛んできていつも助けてくれた。しかし、必ずこう言った。
「下を向くな。お前も一緒に戦え!」
その顔にいつも直弼は勇気をもらい力を出すのだ。士光はいつも対等に接してくれた唯一の友だった。直弼は士光の強さに憧れ、士光は直弼の頭の良さに憧れていた。
「お前が鬼になるというのなら、俺はお前の金棒になってやる。だから、遠慮なんかしてないで俺を使え直弼!」
「・・・・・・いいのか朽葉。私は、お前を利用としているんだぞ、お前が死んでも良いと思っているんだぞ。それでも――――」
士光は右手を出し、直弼が話すのを遮った。
「馬鹿野郎。俺はお前の頼みなら、いつでも死んでやる。下らんことで悩むな」
直弼の頬から水滴が一滴だけ地に落ちた。士光は笑って直弼の左肩を拳で軽く殴ると笑った。 直弼もつられて笑みをこぼす。
「さあ、釣りの続きでもしようぜ。・・・・・・と言っても、もう終わりかな」
士光は辺りを見渡した。太陽が西の空に傾いて、空が薄赤く変わっている。士光は立ち上がり釣りの片付けを始めた。直弼もそれを見て片付けを始める。
すると、後方から士光を呼ぶ声が聞えた。直弼が振り返ると源之助がこちらに向かって歩いてくる。それを見た士光が思い出したように荷物を持って走り出し、源之助の側に来るとげんこつで頭を殴って文句を言っている。源之助は笑って士光の話を聞いていた。それを黙って直弼は見ていた。
「何やってるんだ、行こうぜ直弼」
士光は笑って直弼を呼んだ。直弼は「ああ」と返事をして立ち上がり二人の後を追った。
その表情は以前の温和な顔でなく、戦う男の顔に変っていた。