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意地

これから読まれる内容はフィクションであり、実際に起きた出来事と類似はしていますが、あくまでも作者が作った物語です。あらかじめご了承下さい。

 七月某日。空からは、糸のような細い雨粒が大地へと降り注いでいた。

 広大な井伊家の上屋敷の敷地内では、露草色つゆくさいろの紫陽花が、雨粒によってより一層鮮やかに咲き誇っている。その中には、一匹のかたつむりが景色に溶け込むようにじっと葉の上に鎮座していた。


「大老のお気持ちも分かりますが、時は一刻を争う所まで来ておりますぞ」


 下田奉行の井上清直(いのうえ きよなお)が客間で井伊直弼と相対していた。


「それは分かっております井上殿。しかし、勅許を得るまで時を稼いでいただきたい」


 一八五四年に日米和親条約が締結された。日本初の総領事として、下田に赴任したタウンゼント・ハリスは 通商条約の締結を熱望していた。


和親条約でも難色を示していた幕府としては、当然のごとく、その提案にも曖昧な態度を通していた。そんな時に近隣国である清がアロー号事件をきっかけにイギリスとフランス相手に戦争を始めたのだ。

圧倒的な強さで中国国内を席巻した連合軍は、清と天津条約を締結する。主な内容は、キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金など一方的なものだった。更にこの条約による関税率改定により、アヘンの輸入が公認化された。つまり、他のアジア諸国と同じく、列強諸国の食い物にされたのである。


 ハリスはこの件を大きく取り上げて、日本もいずれイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国の植民地となり、幕府はおろか国自体も消えて亡くなる事を訴えた。

 当時、その事を重く受け止めていた老中首座の堀田正睦は、井上と目付の

岩瀬忠震を全権として一月から条約の交渉を開始させていた。やがて交渉内容にお互いの合意が得られると、堀田は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図したのだった。


 堀田は三月に京都に入り条約勅許に尽力したのだが、それに反対した中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行など、攘夷派の公家が激しく抵抗した。更に孝明天皇自身が攘夷の考えを持っていたために勅許は拒否されたのだった。そして、江戸に戻った堀田は直弼を大老に就任させるとその件を直弼に任せたのだ。

 

「しかしですね、老中の松平忠固殿のお考え通り、即刻条約の締結を行なわなければ、いつ諸外国が我が国を襲ってくるか分かりませんぞ」

 

 本日行なわれた閣議での大半の意見は、松平忠固を中心に即刻条約の意見が多く占めており、大老とはいえ、直弼の意見に賛同する者はごく少数であった。


「それは、ハリスの意見を鵜呑みにしすぎていると思います」


 直弼は右手を突き出すと、井上の意見を止めた。


「どういう事でございますか?」


「アジア諸国と呼ばれている国々、そして中国はこの日本と決定的な違いがあるのですが、お気づきですかな?」


 直弼の問いに、井上はしばらく黙り込み思案を巡らせていた。直弼はそれを黙って目を瞑り答えを待った。


「他国と違い、我が国は四囲を海に囲まれています。陸続きでは簡単に攻め込めますが、船からだとそんな簡単にはいかない、ということですか」


「その考えも一理ありますが、他にも重要な違いがありますぞ」


 直弼は膝をぽんと叩くと両目を開き井上を見た。


「他のアジア諸国は香辛料などの資源が豊富であります。それに目をつけられ、ヨーロッパ諸国がこぞって植民地化したのです。航路はヨーロッパからインド洋を通って物を運んでいます。では我が日本はどうか。日本の国土のほとんどは山地が占めており資源の生産を考えると多くを望めません。なので、現時点でヨーロッパ諸国が欲する物は無いと考えるべきでしょう。アジア諸国で極東の位置にある日本では、必要な物が何もないのに、わざわざここまで来る理由がないのです」

 

 一旦、話を止めた直弼は軽く咳払いをすると側に置いてあった白湯を口に運んだ。


「ところが、米国は違います。米国本土からアフリカ大陸を回って、印度などのアジア諸国を船で渡るにはあまりにも時間が掛かります。ならば、太平洋を渡って、日本を、燃料などの補給のための中継地点にして、そこから西へ進む方が都合が大変良い。米国が港の開港場を複数要求してきたのはそのためでしょう」


「では、井伊大老はイギリスやフランスが日本を攻めては来ないとのお考えですか」


「いえ、いずれ米国のように不平等条約を持ち込んで来るとは思います。それは米国の様子を見てから行動するでしょうな。ですから慌てて条約を結ぶ必要はないと言っているのです。帝からの許しを得ないまま条約を締結すれば、各藩から大きな非難を呼ぶことになる。そうなれば国内は大きく荒れ、内戦状態に陥ることになるやもしれません。そうなれば、それこそイギリスやフランスが喜んで日本に介入し、やりたい放題するかもしれません」


 井上は直弼の熱弁を真剣な表情で聞いている。


「私も諸外国との貿易には賛成です。今は国力で劣っていても、これから貿易で最新式の武器や船を購入し国を強くし、富ませれば、いずれ肩を並べる時が来ます。その時に条約の改定を申し出れば、向こうも簡単に首を横には振れないでしょう」


「なるほど、その話には賛同いたします。条約の内容は大幅決定しておりますし、仰る通り急ぐ必要は無いのかもしれません。先程の閣議でもお聞きしましたが、もし何かの事情でやむを得ない際は調印してもよろしいですか?」

 

 その言葉にしばらく直弼は黙り込んで顔を僅かに下げた。閣議でも勅許が下りるまで待てと指示をしたものの、あまりにも時間を延ばすと気分を害して、こちらからの条件を反故にする恐れがあるからだ。思案に僅かばかり時間を掛けたが、やがて顔を上げた。


「私の意見は変わりません。それでも帝からの許しが出るまでは時間を稼いで頂きたい」


「分かりました。それではその様に致します。それでは、これから目付の岩瀬忠震殿と出立致しますゆえ、失礼いたします」


「頼みましたぞ、井上殿。これは、日本の命運を左右する条約です。どうか、よろしくお願いします」


 井上と直弼はお互いに一礼すると、井上が立ち上がり、部屋の襖を開けると再び直弼に一礼し部屋を後にした。直弼はふと、外の様子に目をやると、今だ雨は降り注いでいた。





次の日の早朝に、直弼の元に早馬が訪れた。そこで、彼は思っても見ない報告を受けた。

 それは、昨日江戸を出た、米国との交渉役である井上清直、その目付の岩瀬忠震両名が、そのまま 神奈川沖の米国軍艦 ポーハタン号に赴き、直弼の意向を無視して、艦上で条約調印に踏み切ったと言う衝撃的なものであった。


 直弼はその報告をしばらく信じることが出来なかった。あれだけ念を押して送り出したのにもかかわらず、まさかその日に条約を締結するとは思えなかったのだ。だが、次に来た報告も同じく、条約の調印はなされたというものであった。


 直弼は直ちに閣議を開き、井上を呼び出して説明を求めた。

 そこでも、直弼の耳を疑う言葉が井上から発せられた。


 井上は、閣議の後、井伊の上屋敷に呼び出されたことを話はじめた。最初は、頑なに帝からの勅許があるまでは、締結を行なうのを引き延ばすように言われたが、井上が「事情により、やむを得ない場合は調印しても良いかと」問うたら、「その際はいたしかたもないが、なるたけ尽力せよ」と大老は言われた。なので、事情により、その日に 調印したのだと、答えたのだった。


 それを聞いた、閣議に参加している者達の声は大きく揺れた。直弼は、自分と井上しかいない場での話をされれば、それを見た者は誰一人としていないので、でっち上げだと非難しても信用する者はいないだろうと判断し言葉を飲み込んだ。


 そして、ようやくここで、直弼は気づかされることとなる。


 ・・・・・自分に反対する者達の罠にはめられた・・・・・と。


 だが、そこで直弼は崩れることは無く踏みとどまった。


 『反対派』から、違勅の非難を強く浴びせられ、部下である宇津木景副から調印の撤回を諫言をされたが、「例え、はめられたとは言え、上にいる者の責任として勅許を得ずに調印した罪は甘んじて受ける。そして、仮に今、戦になっても勝ち目は無いし、むやみに調印を撤回してしまえば、この日本は約束を守らない国として各国から非難を浴びるだろう。そんな恥さらしな国に私はしたくない」と直弼は答えた。そして、その後も幕閣内で気丈にふるまい続けた

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