別れ
……此所はどこだったか?
意識を取り戻した以蔵は目を瞑ったまましばらく考えていた。
……そうだ、あの子供を救うために、やらなくてもいいことをしたのだったな。
糞尿が混ざり合い悪臭のする牢獄で、開くことのできる右目を以蔵はわずかに開けた。
いつも寝泊まりをしている橋の下のねぐらで、酒毒が起こす症状で狂いそうになっているときに、誰かが無言で近づいてきた。
心配そうに肩に手を置いてきたが、構っている暇はなく、手加減せずに突き飛ばした。その後、近づいてきた者はいなくなり、以蔵はそのまま、のたうち回っていた。
これはもう駄目だ、以蔵がそう思った時、女が一人側に来て瓢箪の栓を開け中身の物を飲ませてきた。
それは死ぬほど欲していた酒だった。それから、しばらくの間苦しみはしたが以蔵の症状は一旦無くなり落ち着いた。
目を開けて女を見た。見た目、三十位の線の細い女だった。その横には心配そうな顔で、女の袖を掴んでいる少女がいた。
話を聞くと、どうやらこの子供が女を呼び、状態を見た女が酒を飲ませてくれたらしい。以前にそのような症状の男を見たことがあり、酒を持って来たと女は言った。以蔵は少女に礼を言った。だが、彼女は何の表情も返さずこちらを見ている。以蔵が怪訝な表情を見せると、少女は耳が聞こえず、言葉を話せないのだと女は言った。
以蔵がそれを理解すると、少女に向かって優しく微笑み頭の上に手を置いた。すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
二人は親子だった。母親の名は「菊野」、娘は「藤」と言った。以蔵がいる場所からすぐ側にある、雑草だらけの河原で、わずか二畳ほどの小さな小屋に住んでいた。
菊野は体を売る生業をしていた。元々は、反物屋の若女将で、子供の頃、奉公に出て来ていたところ、店の主人に気に入られ、その息子と祝言をあげたのだった。
やがて、腹が膨らみ出産をし、藤が生まれた。だが、一歳を過ぎたあたりで、藤の耳が不自由なのが分かった。この嫁では、ろくな子孫が残せないと言われ二人はあっさりと捨てられた。既に三十を過ぎた菊野では、新たな仕事を得ることは難しく背に腹はかえられず、今の生活をしていたのだった。
それから以蔵は、この親子のやっかいになる。飯はわずかだが、菊野に恵んでもらっていた。その代わり、以蔵も彼女の手伝いをしてやる。彼女が商売をしている間、藤は外へ出されてしまうので、藤はそのまま以蔵のもとへやって来る、以蔵がその場で遊んでやるのだ。
藤はとても嬉しそうな笑顔でやって来る。以蔵は子供の頃に覚えた遊びを教えてやり、それを見て藤は声にならない声を出し笑っていた。たまに、面倒な客がいた場合、以蔵が用心棒になってやったりもしている。川原には、浮浪者数名が住んでいて。その者達とも顔馴染みになり、生活を助け合ったりもしていた。
そんな状態が一年もした頃、酒毒の状態が好転してくる。浮浪者の中に元医師の老人がいて治療をしてくれいていたからだった。完全では無いが、これなら大阪へ行ける、そう思っていた。
元治元年二月のある日、菊野の体に異変が起こる。左頬と右肩、そして右乳房のところに膿疱(膿のかたまり)ができていた。梅毒だった。ほうっておけば内臓などもやられ、苦しみ抜いて死ぬと元医師の老人が言った。
外では、藤が川で石を投げて遊んでいる。そんな様子を見て、菊野は言った。
「あの子を一人で残せません、逝くときは一緒です」そう言ってさみしそうに笑った。
以蔵は何とか助かる方法はないか老人に尋ねた。
昔であれば、血液浄化の煎じ薬を飲むしかなかったが、現在ではもう一つあるらしい。それは、昇汞液を飲ませると言う方法だった。飲む量を間違えれば水銀中毒になる劇薬ではあったが、治せる期待は大きいと言った。だが、それには銭がかかる。今の状態ではそれは叶わない願いだと言って老人は黙ってしまった。
それを聞いて以蔵は立ち上がり、町に出た。前に聞いていた菊野の元主人がいる店に行き、事情を話し銭を借りに行ったのである。
だが、元主人の男は笑って取り合わない。それでも、以蔵は頭を下げて懇願するが、店の主人は苛立ちをあらわにすると、用心棒を呼んだ。一人の浪人風の男が一人出てくると、以蔵を罵り、右手で以蔵の胸を押した。
以蔵は無表情のまま刀を抜き、素早く用心棒の右手を切り落とした。
悲鳴が店の中で起こる。恐怖で床にへたり込んでいる、主人の鼻っ柱に刀の切っ先を近づけて、死ぬか、銭を出すか選べと脅し、銭を出させた。
銭を持って河原へ戻る途中、先程の事件を聞きつけ京都町奉行の男達が追ってきた。以蔵は必死に抵抗するも、多勢に無勢ですぐに追い込まれてしまう。
以蔵は、一人を斬りわずかに捕り方達に隙ができると走り出した。そして、川原に向かうと遊んでいた藤を抱き寄せ、着物の中に銭の入った袋を入れると、刀を藤の首元に近づけて人質をとる格好を見せた。
捕り方達が周りを囲い、緊迫とした空気になる。河原にいた浮浪達は驚いて以蔵を見ている。
一人の捕り方が以蔵の説得をするために近づいてくる。藤は不思議そうな顔をしてじっとしていた。以蔵はしばらくの間、人質をとった強盗犯の芝居を演じる。
やがて、捕り方の説得に納得した様子を見せ、刀を鞘に収めた。藤から手を離すと、そのまま取り方達の方へ歩く。
藤が、「あ~、う~」と声を出し以蔵に向かって両手を出した。
以蔵は振り向くと、右手で人差し指を出し、自分の口に押し当てた。後ろから捕り方達が以蔵の肩を掴み身柄を抑える。そして、囲まれたまま連れて行かれた。
ふと浮浪達を見ると元医師の老人がいた。以蔵と目が合うとわずかに頷いていた。
「……後はあの女しだいだな」
以蔵はぼそりと呟いた。
喉が渇いた。だが、水はどこにもない。人を呼んで頼もうとも思わない。もう、どうでもよくなってしまった。以蔵は再び目を閉じた。
捕り方に捕まった以蔵は、厳しい取り締まりの後に、焼き印と入れ墨を刻まれ京を追放された。外に出た時、土佐の人間が待っていて、そのまま連れて行かれた。そして、酷い拷問を受けることになる。
山内容堂の命により、武市半平太が作った土佐勤王党は弾圧を受けていた。
自分が信頼していた部下である、吉田東洋を暗殺したのは土佐勤王党と判断したからである。
武市半平太が指示しただろうという判断の下、土佐勤王党の人間は捕らわれて獄に入れられ、事件の主犯が武市であることを吐かせるために拷問にかけた。以蔵も勤王党の人間であるため、ここに連れてこられたのだ。
獄舎の入り口付近で、わずかに人の声が聞えた。その後に戸が開かれ誰かが中に入ってきた。
おかしい。話すことは全て吐いた、もう自分に聞くことは無いはずなのだが。そう思って目を瞑ったまま考えていた。逃げようにも体が動かない、されるがままにしておこう、そう考えていると。足音は真っ直ぐこちらには来ない。途中で何度も止まっている音がする。やがて以蔵の前に誰かが来てそこで止まった。
「……ここにいたか」
聞いたことがある声がする。以蔵は右目をわずかに開けてそちらを見た。ぼやけて見えているが知った人間だった。
「朽葉さん」
「すまねえ、お前を探すのに随分と時がかかってしまった」
「助けに来てくれたのかい?」
「……そのつもりだったよ」
「ひでえ有様だろ、俺」
以蔵は笑ってみせた。顔は殴られて腫れ上がり、逃げられないように両手、両足を折られ、左足のつま先は腐り、蛆が湧いている。爪も全て剥がされていた。
「ちょっと待ってろ」
士光が右手で刀を掴んだのが分かった。刀を抜いた士光は右へ左へと走らせる。そして、ぱちんと鞘に収めた音がすると、木枠で作ってある牢が、ばらばらになり音を立てて崩れた。
「相変わらず、人間離れしてらあ」
以蔵が力なく笑った。士光が側に来て座った、そして、何かに気がついた。
「朽葉さん。あんた、その左腕……」
あるはずの左腕が無い。袖だけがひらひらとしている。
「ああこれか。京で一本忘れて来ちまってよ」
士光が笑って返事をした。
「あんたの腕一本持って行く奴なんて、この世の中にいるんだな。驚いたよ。そうだ、頼みがあるんだけど、水を一杯もらっていいかな?」
士光は頷くと、右の腰に掛けてある瓢箪を取り出し、歯で栓を抜いて以蔵の口へ持って行ってやった。以蔵は、ごくごくと音を立てて一気に水を飲んだ。
「……ああ、うまい」
以蔵は口を横に広げ笑ってみせた。
「俺さあ、結構頑張ったんだよ。どんな痛い目にあわされても、口を割らずにいたんだ」
以蔵の声が獄舎の中でか細く響いている。牢屋の明りの灯に、虫が音を立てて飛び回っている。
「どこからか、俺が酒毒にやられていたのを聞いてきたんだろうな。無理矢理酒を飲まされてさ、しばらく放置されていたら、また元に戻っちまった。そうしたら、今度は酒を飲ませてくれねえんだ。いくら頼んでもくれなくてよ、俺、泣きだしちゃってさ」
士光は、無言のまま以蔵の顔を見ている。その目はどこか悲しげだ。
「白状したら腹一杯飲ませてやるって言って、目の前に、枡の中に入った酒を置かれてさ。もう、飲みたくて飲みたくて仕方が無かった」
以蔵の右目から、一滴の涙が溢れた。
「結局白状してしまったよ。でも、情けねえなんて思っている暇も無く一気にその酒を口に放り込んだよ。……そうしたら、その中身は海水でさ。苦しさのあまりのたうち回っていたら、奴ら笑って俺を見ていたよ」
「今でも酒が飲みたいか? 何だったら持って来てやるぞ」
以蔵の話を聞いた士光は、わずかに震えた乾いた声で言った。
「いや、体中痛くて。そんなもん、どこか飛んでいったよ」
以蔵が声を上げて笑った。
「なあ、朽葉さん」
「ん?」
「頼みがあるんだけど」
「嫌だよ」
「そんなこと言うなよ、俺の師匠じゃねえか。頼むよ」
「勝手に俺の弟子になってんじゃねえよ。……まったく」
士光は一つ息を吐くと、しばらく考え込むように以蔵の顔を見ていた。以蔵も士光の顔を見ている。やがて、士光は目を伏せると、優しく以蔵を起こしてやり、壁に寄りかかせた。
「すまねえ、助かるよ。どうせ逝くのならこっちの方がいい。後のことはそのままにしておいてくれよ」
「分かった。武市半平太はどうする? お前、随分嫌な思いをしてきたんだろ」
「あの人のことは、放っておいてあげてくれ。なあ、朽葉さん。俺さ、先に行って宴会の準備をして待ってるぜ」
「馬鹿野郎。……ゆっくりでいいぞ、俺はしばらく死ぬつもりはねえ」
「分かったよ」
以蔵は笑って士光を見た、士光は無表情のままだ。だが、目の奥で何かを語っていた。以蔵は無言で頷く。
士光が、立ち上がり右手で刀を掴んだ。その拍子に左袖が少し揺れた。
以蔵は、その様子をじっと見つめていた。
素早い動きで士光の右手が動く。
首にわずかな感触が走った。




