激突
京の町はこの日も雨だった。少し肌寒い風が流れていて、人々は少し厚手の着物を着て、そこかしこにできた水たまりを避けながら通りを歩いている。
一昨日起こった政変の影響は無く、いつもの風景がそこにあった。
薩摩藩の屋敷の縁側で、朽葉雪彩は腰を下ろし庭を眺めていた。
一匹のあまがえるが、池の周りに組んである大きな丸石の上に座り、喉の前にある鳴嚢を膨らませ鳴いていた。
一粒の雨粒が、そのかえるの右目に当たると鳴き声を止め、右手で目をこする仕草した。やがてその仕草を止めると、池に飛込み泳ぎ始めた。
体の変調を感じたのは、恐らくあの頃であろうか。
それは、慶長二十年、徳川家康が、大阪で豊臣と戦をしていた。
親友であった井伊直政が死に、その息子、直孝の軍に雪彩は参加していたのだった。
敵方、真田信繁の隊が奮戦して、味方大将の徳川家康の陣へもうすぐと言うところまで肉薄していた。松平隊と戦っていた真田軍に、直孝の軍が横やりを始める。
雪彩はそこで鬼神とも呼べる戦いをする。次々と敵を葬る雪彩に、真田軍は崩れ始めた。逃げる敵兵を追いかけているときに、その男が目の前に現れる、真田信繁である。
味方を助けるために大将自らがしんがりに来ていた。
そこで雪彩と信繁との一騎打ちが始まった。
信繁は、かつて戦ったどの武将よりも強かった。雪彩の神速とも呼べる動きにもついていき、『気』の刃を振るっても、自らの刀ではじき飛ばす。未だかつてこのような人間は誰ひとりいなかった。雪彩は、体がヒリつくようなこの戦いを心から喜んだ。相手の真田信繁も同じ気持ちなのか、にやりと笑っていた。
しばらくの間、一進一退の攻防が続いていたが、遂に決着の時が来る。
一旦距離をおいていた二人が同時に動き出した。雪彩が刀を振り上げ、対する信繁は下段から刀をすくい上げる。二人はそのまま、はせ違うと、二人の胴から血が噴き出し、地面に倒れた。
目が覚めたのは、それから数刻後だった。雪彩が瀕死の重傷を負った話を聞いた徳川家康が、何としても雪彩を死なせるなと厳命する。
家康も若い頃、雪彩と共に、いくつもの戦場を駆け回った仲である。天下人となっていた家康だが、二人きりで話すときは、雪彩とは俺、お前の仲であった。
集められた医師数名が、雪彩の状態を見て匙を投げる中、一人の女医が手を上げる。
「この薬を飲めば確実に助かる。だが、その後、本人にどのような副作用が起こるか分からない。目や耳が使えなくなったり、歩けなくなることもある。最悪、気が狂う場合もあるが、いかがするか?」
家康は、命が助かるのならその後はどうにでもできると考えてうなずいた。結果、雪彩は目を覚ました。
先代の井伊直政のはからいによって、雪彩は男鬼山に居を構えていた。そして、家に戻った雪彩の身に起こったものは『不眠』だった。どれだけ眠ろうとしても睡眠できず、それが何ヶ月も続いた。だが、それによって体が不調になることは無く、いたって健康であった。話しに聞いていた「副作用」がこれであるならば何の問題も無いと思っていたのだが、数十年後もう一つの「副作用」が分かることになる。
徳川統治の世、二代目秀忠の時代に、三代目候補になった者が二人いた。一人は、嫡子である竹千代、そして次男の国松である。
秀忠とその妻お江与は、次男国松を溺愛していて、世継ぎを国松と考えていた。ところが、竹千代の乳母である稲葉福(後の春日局)が、竹千代を世継ぎにするために奔走を始める。
福はまず、裏で井伊直孝に相談。直孝はこれに同意して竹千代を陰で支えることを了承する。
一方、国松側には、徳川の紀州家と尾張家が味方をし、ここに両者で世継ぎ闘争が始まった。
直孝は影の軍である暗部を結成し、暗部の頭を雪彩に依頼する。雪彩はこれに了承すると、早速行動を開始する。そこから、両陣営は血みどろの戦いになる。
やがて、血生臭い闘争は雪彩の活躍により、紀州、尾張を瓦解寸前まで追い込んだ。だが、その闘争が家康の耳に入ると、これに待ったを掛けて戦いを止めた。
結局、世継ぎは家康のはたらきかけによって、竹千代に決まったのである。
だが、紀州と尾張の恨みは深く、裏で朽葉との闘争は後々の世まで続いていくことになる。
そして、時は流れ。井伊家では、藩主であった直孝が死に、直澄が後を継いだ。
その時に、雪彩はもう一つの体の変化に気がつく。周りで次々と自分より若い者が死んでいく中、自分はあれから一切歳をとらなくなったのだ。これは、『不死』なのではないか、と雪彩は考えた。このままでは周りから奇異の目で見られ、朽葉がどうなるか分からない。そう考えた雪彩は、自分が不死であることを隠すために、雪彩が死んだという偽の情報を、息子に依頼し、井伊家に伝えた。そして、息子には、朽葉の剣技を全て教え、後々の世まで伝えるように言い残し彦根を出た。
名を次々と変えながら、全国を回り、百年以上過ぎると、雪彩は自分の体に変化があることに気がつく。
あれだけ黒かった髪は、白いものが混じりだし、肌にもしわが増えてきたのだ。
そのことを考えると、どうやら、『不死』では無く、老いの速度が通常の人より極端に遅いのだとの考えに達する。
で、あれば、自ら命を絶てばよいと考えるが、雪彩にその考えは無かった。それは、雪彩の闇の部分に関係する。
数々の敵を倒してきた雪彩は、命ぎりぎりのところで戦う戦闘が好きだった。どうせ死ぬのなら戦って死ぬことを考え、全国にいる剣豪と呼ばれる者達に戦いを挑み始める。
剣豪達の戦いは、永く生きることに膿んできた雪彩にとって、生きる喜びとなった。次第に相手から流れる『血』と、叫ぶ断末魔の声に密かな喜びを感じるようになっていた。
しかし、朽葉の剣に勝てる者はいなかった。
そして、ある時、雪彩にある考えが浮かんだ。朽葉を倒す者は朽葉しかいないのかもしれない。そう考えた雪彩は、実に二百十九年ぶりに彦根に戻ってきたのだった。
「村錆さん、外で朽葉士光と名乗る男が訪ねてきました」
一人の薩摩藩士がやってきて、そう告げた。
雪彩は頷くと立ち上がり、玄関まで歩いて行った。
「こんな雨の日に、お出かけですか、村錆さん」
薩摩藩士の中村半次郎という若者が声をかけてきた。
「ああ、ちょっと野暮用ができましてね」
「このところずっと雨ですね。天気が良くなったら、是非稽古をつけてくださいよ」
中村は、手だけで剣を振るうふりをしてニコリと笑った。雪彩は笑いながら頷くと、傘を持ち、片手を上げて玄関を出た。前方を見ると、笠もかぶらず、びしょ濡れの状態で立っている士光がいた。見張り役の門兵が奇妙な目で士光を見ている。
「笠ぐらいすればよかろうに、びしょ濡れではないか。一つ持ってくるか?」
「どうせ濡れるんだ、いらねえよ」
士光はくるりと向きを変え歩き出す。雪彩も横に並んで歩き出した。
「どこまで行くんだ?」
「この先に寂れた寺を見つけた。あそこなら、人もいないし迷惑をかけることもないだろう。通りなんかで、俺とあんたが暴れたら、巻き添えをくう人間が出て大変だ」
「ああ、あそこなら問題あるまい。なあ、士光。いくつか聞きたいことがあるんだが」
「……なんだよ」
「あの傷でどうやって助かった? 確実に死ぬように斬ったのだがな」
「俺の友人で鉄三郎というのがいたのは覚えているか?」
「もちろんだ。井伊のせがれで、私がしばらく屋敷にいるときに、毎日のように来てお前と遊んでいたな」
「あいつは、あんたとおやじが戦っているところを影で見てたのさ。おやじが倒れ、その後におまえが俺を斬って出て行った後に助けてくれてな。まあ、しばらく死にかかった状態が続いたが、何とか助かった」
「私が朽葉雪彩と言うことを、お前は側で聞いていたからな。口封じだ、まあ許せ」
二人は寺の門をくぐり、顔を見上げた。そこには、境内に行くための長い階段があり、士光が先にゆっくりと階段を上っていく。
「徳川御三家とはどうなった? 私がいた頃から随分とちょっかいを出してきていたが」
「歴代の朽葉が戦っていたよ。おやじが死んだことで、朽葉が滅んだと思ったのだろう、彦根には来なくなった。だが、俺が紀州、尾張の暗部を潰してまわった。十年前、最後に水戸を潰して終わったよ」
「私の頃は紀州と尾張しかなかったからな、その後水戸も加わっていたのか」
「おかげで、剣の腕前もそれで上がったようなもんだ」
階段を上がり終えると、広い境内があった。だが、管理する者はなく、建物は朽ちている。境内の回りには高い杉の木が並んでいて、その内の一本の木のてっぺんには、一羽のカラスが、警戒をするかのように鳴いている。敷地には大きな水たまりがいくつもあり、降ってきた雨によって無数の波紋がつくられていた。
士光は敷地の真ん中あたりで立ち止まる。雪彩は士光を追い抜くと、三間ほど距離を開けて立ち止まり士光と対峙した。
「……ああ、そうだ。一つお前に話すことがある。さっきの鉄三郎は、大老、井伊直弼だったのは知っていたか?」
「ああ、知ってる。あいつが死ぬ数年前に再会してな、よく酒を酌み交わしていたよ」
「そうか。あいつが殺されたあの日、私も水戸の連中と一緒にいたのだよ。籠から引き出された時に、私の顔を見て驚いていたな」
雪彩がにやりと笑う。
「ふーん」
「何だ、もっと怒ると思っていたが冷静だな」
「まあな、おやじの仇討ちだったのが、それに一つ加わっただけだ。あんたを斬る、そのことにかわりはない。……とは言え」
士光は体から大量の『気』を放出し始め、頭を下げて、左足を左斜め後ろに下げ、右手は抜刀の構えをした。
「さらに、やる気にはなったな」
その言葉と共に、士光が雪彩の方へ瞬間的に移動し、抜刀すると、雪彩の腹の辺りを狙い、左から右へ振り抜いた。
雪彩は、士光が目の前に来た瞬間に、開いたままの傘を放って後ろに下がる。
士光が刀を振り抜いた軌道上に、傘が入り込み、水しぶきを上げて二つに分かれた。
直ぐに刀を自分のもとに引き寄せて、更に雪彩のもとへ進み、高速の突きを十度放つ。ここで雪彩が初めて鞘から刀を抜いて、士光の攻撃を全てはじき返し、右へ移動する。士光も後に続いて移動するが、そこで、雪彩の刀が合わせたように右から左へ襲ってくる。だが、士光はその攻撃を峰で受ける。すると、二人の刀が合わさったところで火花が散った。
そして、呼吸にして二つばかり鍔迫り合いをするが、両者共、一瞬にして後方へ下がり、お互いの距離を作ると、すぐさま『気』の刃を放つ。
放った『気』が二人の間のところでぶつかり合い、「バン!」と火薬が爆発したような音が境内に鳴り響いた。
雪彩が、直ぐに士光のもとへ移動する。そして、常人では目で追えないほどの速さで右へ左へ刀を振る。士光はその場から動かず、その攻撃を受ける。その度に、おもちゃ花火のように火花が開いては消えている。
しばらくの間、雪彩の攻撃は止むことなく続いていたが、途中振り斬る動作から、突く動作へ変わる。そこに隙がわずかにうまれ、士光は突きを下からはじくと、すぐに後方へ飛び去り雪彩との距離を作った。
しかし、それを狙っていた雪彩は、その瞬間に『気』の刃を士光へ放った。士光は、後ろへ下がっている途中で、横に移動し躱すことができない。刃は無情にも士光の喉元へ近づく、「斬った」雪彩はそう思った。
だが、士光は刀を上から振り下ろすと、『気』の刃をはじき飛ばした。再び火薬が破裂したような音が鳴り響く。
雪彩は驚いた。放った『気』の刃をはじき飛ばす者など、未だかつていなかったからだ。
……いや、一人だけいた……
雪彩は目を見開き思い出した。数百年前のあの戦いで、自分と同等に戦ったあの男ことを。
「……ククク。そうか、なるほどな」
雪彩が、体全体から大量の『気』を放出し、上段に構えた。
士光も同じように『気』を放出している。
二人は何かを待つように構えたきり、動かない。そして、境内は静寂に包まれる。
先程のカラスが二人を見つめていた。
雪彩と士光の『気』がゆっくりと膨らみ始めた。
それは、お互いに引き合い、少しずつ、少しずつ、近づいていく。
そして、『気』がぶつかった瞬間に同時に動いた。
……周りの木々が揺れ、カラスが一鳴きすると、ばさばさと音を立てて飛び立った……
二人の動きは止まっていた。雪彩の刀は士光の左肩を切り裂き、士光の刀は雪彩の胸を貫いている。
士光が刀を抜くと、雪彩の口から、赤い鮮血が流れ、ゆっくりと後ろへ倒れた。
仰向け倒れた雪彩は空を見ていた。いくつもの雨粒が降りてくるのが見える。
震える左手を上げて、その一粒を掴んだ。そして、口を横に広げて微笑む。
やがて視界は暗くなり、上げていた左手が地面に落ちた。そして、体の感覚が無くなった。だが、雨音だけは聞えていた。




