虫の眼
一匹の蝿が羽を休めるために、一人の男に向かって羽を鳴らして飛んでいた。その男は、畳を八枚も重ねた所に寝そべり、大きなあくびをしている。畳の縁の部分に止まると、前足同士を擦りつけて周りの様子を見た。
畳三十畳ほどの空間に、百名ほどの男達がひしめきあっている。そのうちの半数以上が何処かしら怪我をしていた。痛みに耐えながらうつむき正座をして、寝そべっている男の様子をうつむき加減で注視している。
その男達の中でも、とりわけ体の大きな男が顔を腫らして、一人寝そべっている男の前で正座をし、小さく縮こまっていた。
「それにしても臭い所だな。牢獄ってのは、みんなこんな感じなのかカエルの大将?」
寝そべっている男が、なるべく鼻で呼吸をせず、口呼吸だけで話しかけた。
「へ、へえ。そりゃ、こういうとこなんで厠もこの中にございますし、それにこの狭いところに人間が集まりゃ臭くもなりますぜ」
正座をしている男は『びくっ』と体全体で反応すると恐々答えた。
「そうかい、それじゃ仕方ねえのかな。ところでよ、なんでこいつらだけ畳の上にすわっているのに、あっちの連中は固まって座っているんだ?」
寝そべっている男の側にいる二十名ほどは畳の上で座り、一人一人の空間があるのに対して、固まって座っている男達は、体を寄せ合い窮屈そうに座っている。
「それはですね。『ツル』をここの牢家主に渡せる奴は優遇されまして、持ってこねえ奴は、・・・・・・まあ、あっちなんですわ」
「ツル? ああ、土産のことか。なんだよ、牢屋の中にも身分制度があるのか。じゃあ、もしかして、ここの位置が一番偉いってことになんのか? 何だよ、カエルの大将がここの主なのか? そりゃ、悪いことしたな、今代わってやるよ」
「いえ、いえ! そんな、そこは朽葉の旦那のとこでいいですよ! あっしはここで充分です」
士光が畳の上から降りようとしたが、カエルの大将と呼ばれた男は慌ててそれを止めた。
「そうかい? 悪いな、そのカラスかツルか分かんねえけど持ってこなくてよ。ああ、そうか。だから俺がここに来た時に怒っていたのか! まあ、だけどよ、暴力は良くねえよな。最初から、払う物を払えって言えばよいものを、いきなりみんなして殴りかかってくるから対応しちまったじゃねえか」
士光が大きく笑うと、釣られたように他の囚人達も引きつった声で笑った。
よろず屋の主人と士光が、野村一家に対してひと揉めしている時に、騒ぎを聞きつけた奉行所の男達が、野次馬の中をかきわけると騒動を止めに入った。
怪我をして倒れている野村一家の男達と、既に事切れている親分とその用心棒の死体を見て直ちに全員を縄に掛けた。そして、ここ伝馬町の牢屋敷に連れて来られたのだった。
士光は取り調べに対して、嘘偽り無く、事細かに説明をしたのだが、誰も信用してくれなかった。一人で二十人以上を相手に戦い、怪我一つしていないのだから当然であろう。
ともかく、奉行所としては、浪人と言えど武士同士で争い死者が出ている以上、事件を詳しく調べなければならない。更に、士光の処遇を、上の役職に判断を仰がなければならず、一旦牢獄に入れたのである。
おとなしく従った士光は、素直に牢屋に入った。そこで、よくある新人いびりが始まったのだが、さすがにそこはおとなしくできず、牢屋内は大騒ぎになった。そして、いつものごとく士光には怪我一つ無く今に至るというわけだった。
「おい、そこに固まっている奴ら。良いからばらけろよ。見ていて暑苦しくてしょうがねえ」
士光が平囚人の男達に手を振って促した。まさか、ツルを渡せない自分達がそんな優遇をされるとは思ってもみなかったので、お互いに顔を合わせてどうするか迷っている。
「いや! さすがにこいつらはいけませんよ。牢屋内の規律ってもんがあり――、あー、そうだね、君たち楽にしなさい! うん、楽にね!」
士光の意見に逆らって話し始めたのだが、ギロっと睨まれ、無言の圧力を感じたカエルの大将は直ぐさま意見に従った。平囚人達は口々に『ありがてえ』と呟きながら体を伸ばし始めた
「なあ、カエルの大将よ」
「・・・・・・朽葉の旦那。そのカエルの大将ってのはやめませんか?」
「だって、カエルみたいにずんぐりしているから仕様がないねえだろう」
「あっしにはちゃんと『貞吉』って名があるんでそっちでお願いしますよ。一応、他の奴らに対しての面子ってのがあるんで」
「何が面子だよ! 大体、面って言う顔をしているか? フグが膨れたようなツラしやがって。・・・・・・そうだ、フグって字は、河の豚って書くからカワブタって呼ぼう!」
何がおかしいのか、自分で言った言葉がツボにはまり、寝転がって笑っている。周りの囚人達も再び引きつった笑いをして士光を見ている。
しばらく士光は、貞吉をからかって楽しんでいたが、それも飽きると貞吉に背中を揉ませてくつろぎだした。
「なあ、おめえは何やって牢屋にぶち込まれたんだ?」
士光は気持ち良さそうに目を瞑り貞吉に尋ねた。
「へえ、あっしは元は相撲取りでしてね。客の野次に腹を立てて、そいつをぶん投げたらあっちに行っちまいやがって。それでここにいるんでさ」
貞吉がちょっと天井を見上げて、あの世に行ってしまったことを説明した。
「旦那は何したんで?」
「俺は決闘で何人か切り捨ててな。まあ、事情がきちんとしてるから、その内ここから出られるだろうよ」
「え! 旦那、近いうちここを出るですか?」
「多分な。何だよやけに嬉しそうじゃねえか?」
「い、いえ! ほら、旦那としても早くここを出て行きたいじゃねえですか、それでよろこんでるんですよ!」
貞吉は顔に汗をかきつつ誤魔化した。
「それにしても、暇だな。 何かないのかここ?」
士光が起き上がって、貞吉に背中を揉ませるのを止めさせた。回りを見たが、当然のごとく時間を潰せる物など無い。
「じゃあ、花札でもやりますか? おう、持ってこい!」
貞吉が他の囚人に命令して持ってこさせた。
「なんで牢屋に花札があるんだよ? まあ、いいか。よし、じゃあ銭よこせよ、かわぶた」
士光が指で輪っかを作り貞吉を見た。
「え? あっしの銭でやるんで? 勘弁してくださいよ、それじゃ、博打の意味がないじゃないですか」
貞吉が露骨に嫌そうな顔をすると、手を振って拒否した。
「あ? おめえ誰に言ってるんだ?」
士光は左目のあたりを痙攣させると貞吉を睨んだ。すると一気に回りの空気が張り詰めた。思わず身構えている者もいる。
「す、すいません旦那! そうですよね、普通は銭なんて持ってこれませんよね! おい、お前らも持っている銭全部よこせ!」
貞吉が、牢屋内での格上の囚人達に声を掛けて銭や趣向品を出させた。すると、士光はそれを平囚人にも配り花札大会を始めた。
やたらと牢屋内が騒がしいので牢役人が覗いてきたが、貞吉が何かを役人に握らせるとおとなしく帰っていった。結局博打大会は就寝の時間まで続き、それぞれの商品と銭は、牢屋内の身分分け隔て無く渡された。
翌日の朝。士光は貞吉に肩を揉ませていると、牢役人がやって来て、士光の釈放を告げた。
「ええ! 旦那ここを出て行かれるんで? そりゃ良かった! おい、おめえらも旦那をお見送りしろ!」
牢屋内の平和が訪れることに喜び、貞吉と上役の男達は万歳や手を叩いて士光を見送る。その様子を見て平囚人達は再び自分達に地獄が訪れるのを予期して複雑そうな顔をしつつ苦笑いで士光を見送った。
牢役人の後ろを付いて行くと、六畳ほどの部屋に通された。中に入ると、一人の武士が姿勢を正し座っていた。
「お前が朽葉士光か」
男が士光を一瞥すると、自分の前に座るように顎で促した。
男は三十代前半で精悍な顔つきであるが、目は細く冷酷そうな雰囲気を醸し出している。着ている着物も上等な生地を使っていて、いかにも上級武士といった感じである。
「何だあんた?」
士光は訝しげな顔をすると、目線を男と合わせたまま、片膝を立てて座った。
「私は、さるお方にお仕えしている戸口政朝と言う者だ。お前を連れてくるように主から言われて来た。朽葉士光、今から私と一緒に我が主の元に来い」
士光は視線を戸口に向けたまま、じっと話を聞いていた。
「何で俺がお前の主の所に行かなきゃならねえんだ」
「お前の釈放は、主の口利きで決まったのだぞ。でなければ、暫くはあの牢獄で過ごすことになっていたのだ。・・・・・・全く、何で私がこんな奴を連れて行かなければならんのだ」
戸口は露骨に嫌そうな顔をして立ち上がり、出口のふすまを開けた。しかし、士光は動こうとはせずに座ったままだった。
「何をしている。私の言った事が聞こえたろう、一緒に来るのだ。それとも、もう一度牢屋に入れてやろうか?」
戸口は、実に嫌みな言い方で士光を見た。
「別に構わないぜ」
「なに?」
「ここも言うほど居心地は悪くねえしな。それに、頼んでもいねえのに勝手に釈放にしたうえに、年下の奴に呼び捨てにされる、お前呼ばわりされるし気分が悪い」
「き、貴様。そんな大口叩いてただで済むと思うのか! 主がその気になればお前など、どうすることも出来るのだぞ」
その言葉を聞いて初めて士光は鋭い目つきで戸口をにらんだ。
「用があるならお前が来いと主に伝えろ。ただで済まさねえと言うならいつでも勝負してやる。分かったか若造」
士光は立ち上がり戸口が何か言おうとしているのを無視して部屋を出た。元の牢屋に戻せと牢役人に伝えたが、すでに釈放が決まっているために帰って良いという返事が返ってきた。
「この野郎、俺を自分の支配下に置こうと三味線弾いてやがったな? 何がもう一度牢屋に入れてやるだ。全く気分が悪いったらありゃしねえ」
士光は戸口を一瞥すると牢屋敷の出口に向かって歩き出した。その様子を見ながら両手の拳を堅く握り絞め、戸口は顔を赤くして士光を睨んでいた。
士光は小伝馬町を出ると、馬喰町を抜け、浅草に向かって歩き出した。そして、正午になって一軒の居酒屋の暖簾をくぐる。
「らっしゃい! 何だ朽葉か。・・・・・・あれ? 随分早く牢屋から出てこれたな。俺の予想じゃ、後三日、四日は伝馬で過ごすだろうと思っていたんだが。まさかお前、抜け出してきたんじゃあるまいな?」
居酒屋の主人である源之助が調理場から顔を出した。この男は、居酒屋を営む傍らで、浪人に仕事を斡旋する人物でもある。仕事と言っても様々で、傘張りや耳かき作りなどの内職から、士光のように剣の腕があれば用心棒などを斡旋する。
「バカな事言ってねえで酒くれよ。それと適当に食い物もたのむ」
「あいよ。冗談ぬきで、何でこんなに早く出てこれたんだ?」
源之助は徳利に入った酒と椀を持って士光が座る床几に置いて、再び調理場に入っていった。
「それがよ、上等な生地でこしらえた着物を着た三十代の侍に呼ばれてな。そいつの主が俺の釈放を決めたらしい。俺に用があるらしく、その主様の所へ今すぐ来いとかぬかしてやがった」
士光は酒を椀に注ぐと一気に口の中に放り込んだ。
「何? それにしたって出て来るのが早いだろう。決裁は町奉行が登城して老中に差配してもらうのが普通だが、それでも翌日釈放ってのはなあ。・・・・・・じゃあ、その主様ってのは老中並かそれ以上の身分ってことになるが、何でそんな大物がおめえなんか呼ぶんだよ?」
「俺が知るかよ。とにかくその若造が憎たらしく嫌みな奴でな。頭にきて文句を言ってやってそのまま出てきたぜ」
「大丈夫なのか、そんなことをして。そいつは、多分旗本だぞ、しかもかなりの大物だ」
源之助は料理を持って出てくると、士光が座る床几に置いた。そして、対面にある床几に座り士光の酒を手に取ると、持って来た猪口に酒を注いだ。
「う~ん。まずかったかな」
その言葉とは裏腹に、士光は気に止める様子は無く箸を動かす。
「まさか、お前の正体がばれたか?」
「それは無いだろう。『朽葉』を知っているのは徳川将軍二代目と、その側近までだ。今の時代に知っている奴で知り合いはいねえよ」
「そうだよな。知っていたら江戸にはいられねえよな。もしかしたら、よろず屋の事件でお前の腕を知って、使いたくなったのかもしれねえな」
源之助は、素手で士光が食べている料理をつまむと自分の口に放り込んだ。
「おい! 勝手につまむんじゃねえ」
「いいじゃねえかよ、どうせ銭はお前が払うんだから。ケチケチするんじゃねえよ」
「俺が払うんだからケチケチするんだろうが! あ、そうだ! よろず屋の件どうなったよ? 貰う物は貰ってきたんだろうな?」
士光は指で輪っかを作り、源之助に尋ねた。
「おう、きちんと貰ってきたぜ。いつもの通り、お前が七、俺が三でいいか?」
「ああ、問題無い。銭はお前に預けておくから頼むぜ」
「あいよ。必要になったらいつでも言ってくれ、すぐに出せるようにしておくからな。話は変わるが、また用心棒の依頼が入ったぞ」
今までの話を全く気にする様子が無い二人は、違う話題に話を変えると、酒を飲み、つまみを食べながら話に夢中になっていった。
外は人通りが多く賑わっていた。飛脚が大きな声を出してその間を縫うように走っていた。