友への、最後の言葉
若者を背負い、しばらく歩いて四半刻が過ぎた頃、貞吉が息を切らし始め、歩く速度がだんだんと遅くなってきた。
「く、くちばさん、ちょっと休憩しねえかい? これだけ歩きゃ、さすがに疲れてきたぜ」
「何だよ、情けねえな。まだそんなに歩いてねえだろ。これだから最近の若い奴は駄目なんだよ」
顔中、汗にまみれた貞吉は、とうとう歩みを止めてしまった。
「そうは言っても、この兄さん結構重くてよお、朽葉さん代わってくれよ」
「別に構わねえよ。ただ、吉原で遊ぶ金は減ることになるけどな」
「え、減るって、どれ位だい?」
「まあ、夜鷹と遊ぶ程度だな」
士光は、貞吉の背中でぐったりしている若者に手をかけると自分の方へ引っ張る素振りをした。ところが、貞吉がそれをさせまいと数歩前に歩く。
「ちょっと朽葉さん、夜鷹はねえだろう! 吉原で遊ぶって言ったら、長屋で並んで座っている局見世だろうが」
「局見世? 馬鹿言ってんじゃねえよ貞吉。たった四半刻背負っただけで、そんな賃金払う奴なんて、いるわけないだろう。いいじゃないか、夜鷹だって。真っ暗な河原でゴザ引いてよ、川の流れを聞きながらやるのだって、なかなか乙なものだぞ。例え相手が好みじゃなくても、顔は見えねえし最高じゃねえか」
「冗談じゃねえよ! 前に病気を移されて、この間治ったばかりなんだぜ」
「じゃあ、その銭をそこら辺にいるねえちゃんに見せて、『どうだい、ねえちゃん。これで俺と遊ばねえか』って声をかけてみろよ。意外にホイホイついてくるかもしれねえぞ」
「馬鹿言わねえでくれよ、朽葉さん! そんなんでついてくる奴なんているわけねえだろう。変態と思われて走って逃げちまうよ」
「やってもみないで、諦めるんじゃねえよ。それじゃあ、こう言うのはどうだ。前に言っていた、お気に入りの、お琴ちゃん。あの子に、洒落たかんざしでもあげたらどうだ。喜んでお前の事を気に入るかもしれねえぞ」
士光に、なかなか良い提案をされ、貞吉の表情がピタリと止まると、しばらくの間地面をにらみ考え込んだ。
「だ、駄目だ朽葉さん。愛と欲は別物だ。お琴ちゃんには悪いが、今日の俺は欲を選ぶぜ!」
「おうおう、若いね貞吉さん。それじゃあ、どうするんだよ」
士光が意地悪そうな笑みを浮かべ、腕を組んで貞吉を見た。
「こうなったら、気合い入れて運んでやるよ。赤坂の氷川神社の側だったよな、もし、死んだら骨は拾ってくれよな!」
貞吉は真剣な表情に変ると、再び前に進み出した。だが、何処か頼りなく少しフラついている。
「しょうがねえなあ。おい、貞吉、分かったから止まれ」
士光は苦笑しながら追いかけると、貞吉の肩に手を置いて歩みを止めた。そして、寝ている若者の頭を平手でひっぱたいた。
「あ! いくら酔っ払い相手でも、寝ている奴にそれはひでえよ、朽葉さん」
貞吉は首だけ横を向いて士光を見た。
「良いんだよ、どうせ起きているんだから。おい、起きているんだろう土佐の兄ちゃん。このままじゃ貞吉が可哀想だから目を開けろよ」
すると、若者はパチリと目を開け、声を上げて笑い出した。
「何だ、ばれてたのか。それにしても、この人面白いねえ! 笑いをこらえるのに大変だったよ。すまなかったね貞吉さん、そういう事だから、もう背負わなくてもいいですよ」
貞吉は、唖然とした顔をして両手を下げると、若者はすっと脚を地面につけて普通に立った。
「何だよ兄さん、起きてたのかよ!」
「呼吸が正常だったからな。普通、酔いが回って倒れたら息は荒くなるだろう? どうやらこの兄ちゃん、師匠のもとに俺を連れて行きたくて、ひと芝居打ったみてえだな」
「何のことか分からねえけど、じゃあ、吉原はどうなるんだよ朽葉さん」
貞吉は哀しそうな顔して朽葉を見た。
「分かったよ。ほら、これ持って遊んでこい、この助平」
士光が懐から、銭の入った袋を取り出して、貞吉に渡してやった。
「やっぱり、朽葉さんは太っ腹だぜ~。これなら局見世のねえちゃんと遊べるよ、ありがとうよ!」
もらった金額を見た貞吉は、喜びで拳を握り込むと、士光に手を振って別れを告げ、大喜びで吉原の方角へ走り出して行った。
「元気な人だな、さっきの疲れは、何処へやらってやつですね。それじゃあ、ここからは私、坂本龍馬が勝先生の所へご案内しますかね」
「お前さんが元気なら、もういいだろう? 俺は帰るぜ」
士光は龍馬に片手を上げると、元の方向へ振り向いて歩いて行った。
「ちょっと、朽葉さん、それはないでしょうよ! ここまで来たんだから一緒に来て下さいよ」
「面倒くさいから、いいよ。大体、何でお前さんの先生は俺に会いたがっているんだよ。どっかの家老や、幕政に関わる人間ならいざ知らず、俺みたいな浪人に用があるなんて、どうせろくな事じゃないだろうから帰るよ」
「ただの浪人なんかじゃ、ないでしょう朽葉さんは。大老だった、あの井伊直弼様と友人だったと聞いてるし、当時の反対派の押さえ込みでも、陰で随分活躍したと聞いてますよ」
龍馬が去って行く士光の背中に言葉をぶつけると、士光はピタリと歩みを止めて半身で龍馬を睨んだ。
「おい、その話、何処から聞いた?」
「うちの先生からですよ。そんな怖い顔しなくても他には漏らしていませんからだいじょうぶですよ」
「勝って奴は、直弼と面識があったのか?」
「らしいですね。その頃は、まだ先生に弟子入りしてませんから、詳しくは分かりません」
龍馬の言葉を聞き、士光は顎に手を当てて考えこんだ。まさか、ここで井伊直弼の名がでるとは思っても見なかった。しかも、直弼が自分の名を勝海舟に話したらしいことも意外である。あの弾圧事件は直弼にとっても忘れたい事件のはず、それを勝海舟に話していることに士光は興味を持った。
「だから、さっきから言いゆーとるでしょう。先生に会うて話を聞いてみてくださいよ」
龍馬が、士光の手を取って真面目な顔で説得している。その純粋そうな瞳を見た士光は、自分には無い眩しさを感じ、思わず目をそらした。
「・・・・・・分かったよ。お前の熱意に免じて行くことにするよ。それにしても、お前興奮すると少し訛りがあるな、出身は何処だ?」
士光は先程の行為を誤魔化すように龍馬に話しかけた。
「あ、そうでした? どうも興奮すると土佐訛りが出てしまうのですよ。こっちに来て長いんですけどね」
「何か不思議な奴だな。お前さんに説得されると、素直に耳を貸してしまうぜ」
「そう言って貰えて有難いです。では、行きましょうか」
龍馬は赤坂の方へ向きを変え、意気揚々と歩き出した。しかし、どこかフラついている。どうやら完全には酒は抜けていないようだった。その様子を士光は苦笑しながら龍馬の後を歩いた。
昼八つ半の鐘が鳴らされる頃、二人は赤坂氷川神社裏にある、勝海舟の屋敷に到着した。龍馬は、この屋敷の者であるような様子で周りの使用人達に「ただいま」と挨拶をしている。皆、気さくに返事を返している様子で、龍馬が家の者達から好かれているのが分かる。屋敷の中へ通されると客間へ案内され、勝海舟を呼んでくると言って龍馬が部屋を出ていった。
士光は部屋を出ると、庭に面してある廊下に腰を下ろした。昼間の陽の光が当たって、キラキラと輝いた池には、鯉が悠々と泳いでいるのが見える。そして、後ろには大小様々な木々が配置されている。十二月のこの季節では、葉がすっかりなくなっているが、四月からは美しい緑が目に飛び込むだろうと想像できた。
しばらく庭を眺めていると、後ろから人の気配がした。それが、足音とともに士光の左隣まで近づくとドカリと座った。
士光は首だけ動かしてそちらを見た。眉は太く、目はギョロッとした印象ではあるが、垂れ気味なので優しい感じがする。少し日に焼け、健康そうな男がそこにいた。
そして、男は酒瓶を床に置いて、三つある椀を士光に差し出した。
「さっき飲んできたばかりなんだがな」
士光は、少しからかうように言いながら椀を受け取った。
「まあ、そう言うなよ。あんたとは三人で飲みたかったんだ」
男は、先に空の椀の一つに酒を注いだ。そして、士光に注いだ後、手酌で自分の椀に注ぐ。その後、一つの椀を手に取って自分達の前に静かに置いた。
「井伊大老様への手向け酒だ。付き合ってくれよ、朽葉さん」
男は前に置いた椀に向かって、手に持った椀を、額のところまで翳と目を瞑った。士光も、それを見て少し微笑むと椀を少し翳して口に付けた。
「旨いな、月桂冠か、勝」
「よく分かったな。京へは言った事があるのかい?」
「若い頃な。御三家に追い回されている時にしばらく居たよ」
「ああ、井伊家を守るためにやった、士光さんの親父殿の件だな」
「よく知っているじゃねえか。一介の幕臣が知り得る事柄ではないんだがな」
士光は酒瓶を手に取って勝に注いでやった。
「その事なんだがね、朽葉のことはこれで知ったのさ」
勝が、懐から一つの書状を取り出した。
「これは、あの事件があった、三月三日の早朝。丁度、おいらがアメリカに渡っている時に、大老様の家臣殿が届けてくれたやつでな」
士光はそれを手に取ると、封を外して開き読み始めた。
「そこには、これからの日本がするべき内政や外交問題の対策などが書かれてあるんだ。事細かく記してあり、必要な人名なども載っていて、かなり勉強させてもらったぜ」
「ふーん。あいつがお前さんにねえ」
士光は興味無さそうに読んでいた。だが、ある所でピタリと手が止まり、士光の目が変った。
「そこからは、攘夷派や大老様に反対する者への弾圧事件が書いてある。誰に命じて、誰を弾圧したか、これも細かくかいてあった。でな、問題はその後からさ」
その内容は、朽葉と井伊家の関係が書いてある。遙か前、徳川家康の時代から今の時代までだ。勿論、さっき勝が話した、御三家による井伊家取り潰し事件で関わった士光の父のことも書いてある。
「最初は何でこんな事をおいらに見せたいのか首をかしげたんだ」
今度は勝が酒瓶を手に取って士光の椀に注いでやる。陽の光でやや体が暑くなってきた時に、涼しい風の音が聞えて庭の中に入った来た。士光は無言で酒を飲みながら書状を読んでいる。
「でもな、最後まで読んで分かったんだ。これは大老としてでは無く、一個人である井伊直弼の遺言状だってな。公式なものだと、大老様という役柄、裏のことは書けねえ。じゃあ、どうするか?」
勝は半分程残っている酒を一気に飲み干した。
「それは、信用のおける人物で、それらを理解し、実行できる者に渡そう。大老様はそうお考えになったんだろうが、おいらじゃ役不足だと思うがねえ」
勝が頭をポリポリと掻き、遠慮がちに言った。士光は、勝の言葉を耳に入れながら書状を読んでいった。そして、最後の所で手が止まった。
『士光へ、すまなかった』
「俺が、しきりにあんたに会いたがった理由はこれなんだよ。友であった朽葉さんに、詫びと礼が言いたかったのだろうな」
しばらく間、二人は黙っていた。後ろには、いつの間にか、坂本龍馬がニコリと微笑んで座っている。再び涼しい風が吹いて士光の顔を撫でた。やがて、士光は書状を勝に返し、目線を池にやる。
「なあ、勝さんよ」
「ん? 何だい、朽葉さん」
「礼を言うぜ。感謝するよ」
「大したことはしてない、気にしなさんなって」
勝は恥ずかしそうな顔をすると、士光の椀に酒をそそいでやった。
「あんたは、これから何をするんだ?」
士光が一口飲んで勝を見た。
「そうだなあ、おいらは今、日本に必要な事柄を上の連中に話しているところなんだ。つまり、幕府だけでなく、日本の未来のために働きたいと言うことかねえ」
「・・・・・・そうか。じゃあよ、その仕事俺にも一枚かませろよ。今回の礼ってこともあるが、あいつが信用した男である、お前さんの力になりてえんだ」
「綺麗な仕事じゃないぜ。一応「軍艦奉行並」ってことになっているが、仕事はそれだけじゃないんだ。裏の仕事も多々ある」
「そっちこそ、俺向きの仕事さ。やらせろよ、勝」
士光は、ニヤリとと笑うと酒瓶を持って勝の椀に酒を注いだ。