悪因悪果
五摂家筆頭とされる近衛家の邸宅に、島津久光はいた。
広間から庭を見ると、真っ白な石庭が見事な流れをつくり、その奥には、緑鮮やかな木々が顔を覗かせている。春のあたたかな風が久光にあたり、顔を上げると、雲一つ無い青天が京の上空に広がっていた。
二年前に桜田門外で井伊直弼が暗殺されると、押さえつけられていた攘夷派が息を吹き返し、力をつけていている。この京でも、公家達の大半が攘夷派であった。ただ、公家達はアメリカやイギリスなどの諸外国の事をよく分かっていない。ただ単に、目の青い、言葉の理解出来ない異人共が気に入らないだけなのだ。恐らく、地図上で何処がアメリカでイギリスなのか、指で示せる者などほとんどいないだろう。
今回の上洛は、亡き兄である島津斉彬の意志を継ぐものであり、公武合体構想を実現するための行動である。藩兵千人を率いて到着すると、九箇条の幕政改革趣意書を近衛忠房らに提出し意見を求めたのである。
主な内容は、田安慶頼の将軍後見職を解き、老中安藤信正を退職させる。一橋慶喜を将軍後見職につけ、松平春嶽を大老にする。更に近衛忠煕を関白につける。など、近衛家に対する配慮も盛り込まれていた。
「お待たせ致しました、久光殿」
近衛忠房が笑みを浮かべて部屋に入ると、久光に座るように促した。
「幕政改革の件、如何でございましたでしょうか、忠房様」
久光は腰を下ろすと頭を下げて、忠房に問うた。
「正親町三条 実愛様、中山忠能差様の両議奏が帝に執奏いたしましてな、大変喜ばれたご様子と伺っておりますぞ」
「それは、ありがたきこと。では、これら幕政改革の勅諚を賜り、江戸へこのまま出向くことは可能ですかな、忠房様」
「その事なのですが。実はその前にやって頂きたい事柄がありまして。最近この京で尊皇攘夷派の連中共が騒ぎを起こしておりましてな。『天誅』と称して界隈を暴れ回って困っておるのですよ。その連中を何とかして頂けるのなら、勅諚もやぶさかではないとおっしゃっております」
探るような目をした忠房を見て、思わず、にやりと口を綻ばせるのを隠すように、久光は頭を下げて誤魔化した。
元々、久光は倒幕派では無く、公武合体派である。自ら幕政に参加し、久光の存在を幕府内で高めるのが野心の一つなのだ。何の権力も無い、下っ端の武士共が立ち上がり、幕府を打倒されたあかつきには、大名の立場など、どうなるとも分からない。下手をすると平民に格下げされる恐れさえあるのだ。ならば、この面倒な連中を始末するのが久光の急務である。
前もって薩摩藩の尊攘派の面子は調べてあり、その行動も逐一報告させてある。久光は、彼らを取り締まることをせず、そのまま泳がせて、日本の主だった尊皇攘夷派の志士共と交流させ、過激な行動にでるように、裏で糸を引いていたのであった。
『久光の上洛は、幕府打倒の足掛かりである』と言う偽の情報を流して、連中を京に集結させて一網打尽にする。まさに、久光の考えた通りに事が運ぶ状況になっている。
「分かりました、謹んでお受けいたします。京の治安は、この久光が先頭になって行ないますゆえ、ご安心下さいませ」
「おお。やって頂けますか、久光殿。薩摩藩が動いてくだされば鬼に金棒というもの、頼りにしておりますぞ」
忠房は大喜びで久光を労った。その後、幕政改革の詳しい内容と京の治安について、しばらく話し合い、忠房の機嫌を取ってやると、久光は屋敷を後にした。
京にある薩摩藩に到着した久光は、早速、浪士討伐の旨を伝えた。それを聞いた薩摩藩尊攘派の有馬新七、橋口壮介らは、激怒し、真木和泉・田中河内介ら他藩の尊攘派を集めて一つの騒動を計画する。
それは、関白である、九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃し、その首を持って久光に無理矢理にでも倒幕の決起を促そうと言うものであった。
その情報を聞いた久光は、建前上説得するために、側近となっている大久保一蔵や海江田武次ら『精忠組』の幹部を派遣したが、有馬らは取り合わず説得に失敗する。
その状況にほくそ笑んだ久光は、遂に鎮撫使を結成。京に連れてきている藩士の中でも剣術の優れた九名を派遣する。
有馬ら、過激な尊攘派が集まっているのは、伏見にある『寺田屋』である。鎮撫隊の一人である、奈良原喜八郎ら四名が寺田屋に入った。奈良原は有馬達、薩摩藩士を二階から呼び出して説得を始めるが、以前から、藩主でも無い久光を快く思っていなかった過激尊攘派はそれを一蹴する。これでは埒があかないと、二階に上がって志士達を説得しようとするが、それを止める者が出て遂に小競り合いが始まる。
鎮撫隊の道島五郎兵衛が、同じ藩士の田中謙助を頭から切りつけて騒動が始まった。
仲間を切られた有馬は激高し、堂島に斬りかかるが、しばらくすると自分の剣が折れてしまう。剣を捨てて、堂島に飛びかかり壁に押さえつけた。そして、背後にいた薩摩尊攘派の一人、橋口吉之丞に「自分ごと、堂島を突き刺せ」と怒鳴り、それを聞いた橋口は二人を突き刺し絶命させた。そして、騒動を聞きつけた薩摩の尊攘派の数名が下りて来るも、鎮撫隊によって切られてしまう。
更に、二階に残っている尊攘派が一斉に下りて来て抜刀し、攻勢の構えを見せる。だが、これでは大惨事になりかねないと思った奈良原は、刀を放り出し両手を上げて大声を張り上げて剣を収めるように説得し始めた。これを聞いた数名の薩摩藩の志士達も同調し仲間を抑え、ようやくこの騒動は終わった。
結局、死亡者七名、重軽傷者七名の被害が出る。久光は騒動の後始末として、まず、尊攘派の薩摩藩士で説得に素直に応じた者は帰藩させ、謹慎処分を言いつける。これは、格別の恩情といえるだろう。だが、斬り合って負傷した、田中謙助と森山新五左衛門は切腹を申しつける。他藩の尊皇派はそのまま、各藩に引き渡した。残った脱藩志士達数名は、薩摩藩が預かるという形を取り、薩摩に送る決定を下したが、道中で殺すように命じてあった。
これ以外にも、久光は他藩の志士や脱藩浪士などを厳しく取り締まり、かなりの数の死者を出している。当然のことながら村錆忠明、眞明雅智、蓮角の三人が陰で暗躍していたのは言うまでもない。返り血をふんだんに浴びた村錆は、狂喜し暴れ回り、尊皇攘夷派の志士から恐れられていった。
京内での、久光が行なった尊皇攘夷派に対する討伐とも言える行動は、朝廷で高く評価され、久光の名声が高まることとなった。以前に提出していた意見書も、それを元にした勅書が下賜されて、受け取った勅使の大原重徳は、久光ら薩摩藩の護衛のもと、江戸へ出発した。
今回の勅書は、三事策として幕府に渡された。内容としては、将軍、徳川家茂の上洛、薩摩藩・長州藩・土佐藩・仙台藩・加賀藩で構成される五大老の設置、一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽の大老職就任である。
結局幕府側は、その内の、将軍上洛と一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽は大老就任ではなく、新設の政事総裁職として認めることになった。勅書とは言え、一介の外様大名が幕府に対して行なった久光の行動は異例中の異例である。だが、それを飲まざる得なかった幕府の力は、やはり衰退していることに間違いはなかった。
これは、完全勝利である。今回の行動で、島津久光の名は全国に広まることになる、そう久光は考えた。後は、幕府の重鎮として幕政に参加し、国を動かしていくだけだった。これからは自分の時代が来る、そう久光は信じて疑わなかった。
「良くやってくれた、礼を言うぞ久光殿」
一橋家の上屋敷に通された久光は、一橋慶喜に今回の事に関して労伊の言葉をもらった。
「何とか、上手く事が運びました。将軍後見職の任、おめでとうございます」
「なあに、そんな物はただの飾りに過ぎん。だが、これでようやく謹慎が解かれた。後は松平春嶽殿と幕政を仕切るゆえ、お主は薩摩に帰ってよいぞ」
「・・・・・・おっしゃっている意味が分かりかねますが、慶喜様」
慶喜の意外な一言にぴくり反応すると、久光はぎろりと慶喜を睨んだ。
「それと、斉昭の件も助かったぞ。あの、うるさい父を始末してくれて、清々した」
その言葉を聞いて、久光は思わず言葉を失ってしまった。
「気づいておらぬと思ったか、久光。実はな、ある、薩摩藩士から、お前の事は逐一報告を受けておる」
「・・・・・・何ですと」
「誰とは言えんがな。あの、京で行なわれた、船の中の会見で、お前はどうも怪しいと思っていてな。それから私が動き、お前を監視させていたのだ。船の中にいた、家老の調所広丈と言う男、真っ赤な偽物だったのだろう? 父の顔を覚えさせるために、船の中に入れさせたのだと思っているが違うのかな? それに、あの男が水戸に入ったことは報告を受けてある」
「そのような戯れ言を言わないで頂きたい、第一私が命じたという──」
「そう、証拠など無い。だから行ったであろう、助かったぞ、と」
慶喜は久光の言葉に大きな声で被せた。その声に驚いて久光は黙ってしまった。
「大体、外様大名ごときが幕政に参加しようなどと、馬鹿も休み休み言え。お前が幕政に関わるのなら、まだ、井伊直弼と一緒に行動した方が良いわ」
「そのようなことを言っても良いのか、一橋慶喜。私には、薩摩藩兵千人がおるのだぞ!」
久光は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「勿論、よく分かっているぞ。やれるものならやってみれば良かろう。用は済んだ帰れ、久光」
慶喜はそう言うと立ち上がり、部屋を後にした。その後ろ姿を、物凄い形相で久光は睨みつけ、憤然と屋敷を後にした。
薩摩藩上屋敷に到着すると、久光は直ちに藩兵千人を率いるべく、大久保一蔵を呼び出した。
「お呼びでございますか、久光様」
「今から、藩兵千人を率いて一橋慶喜を討つぞ、戦の準備をしろ!」
「それは、急ですな。ですが、そのようなこと承服できかねますな」
「なに? 私の言う事が聞けないと申すのか」
「当然でございます。江戸の町を火の海にでもするおつもりか? あなたには、このままおとなしく薩摩に帰っていただきますよ、久光様」
「よくもそんな口を聞けた者だな! お前など──っ」
「まだ、お分かりにならないので? あなたの出番は終わりだと行っているのですよ」
その言葉を聞いて久光は言葉を止めた。そして、先程言っていた一橋慶喜の言葉を思い出して久光は目を見開いた。
「・・・・・・まさか、お前が!」
「言っておきますが、私の首を落として、藩兵千人を動かそうとしても、誰も動きませんよ。すでに、薩摩は私と西郷が動かしていましてね。そういうわけでして、久光様には御退場願いましょうか」
大久保一蔵は、冷ややかな目つきで久光を一瞥すると部屋を出ていった。だが、途中で止まり、振り向いて久光を見た。。
「ああ、そう、そう。あの村錆忠明を動かして私を襲おうと考えても無駄ですぞ、彼はすでに我々と手を組んでいますのでね」
島津久光は、畳の上にがくりと膝を曲げて呆然とし、そのまま動かなかった




