超短編ホラー16「ひまわり」
彼と会ったのは、仕事で上手くいかないそんな事があった日だった。
直属の上司である木元とは、今の課に配属されてから今まで反りが合った試しがない。それはほんの小さな、些細な事ですらもである。
「……ったく」
カラカラと音を立てる中身の減ったコップを傾けたが、そこから口の中に入って来る物の味は薄い。
「やってらんねぇ……マスター、おかわり」
偶然見かけただけの店でブツブツと不満を垂れるサラリーマン、他人から見たらいいものではないだろうが、その時の私にはそんな事でしか気分を晴らす事が出来なかった。
「あまりいいお酒のようには思えないのですが……」
長身の細面な店の店員がそう嗜めるが、その姿が木元とダブって見えた。
「なんだと!?」
酒が入って気が大きくなっていた私は、つい声を荒げてしまった。
その時、私の肩に誰かが手を乗せた。
「どうしてのですか?」
これが、私と彼……『ひまわり』との出会いだった
「なんだ、アンタ?」
「いえ、なんだか貴方が疲れているように見えたので」
「だったら、なんだってんだよ?」
彼は薄暗い店内でも異様に映えるほどの真っ黒なスーツを着ていた。
「私で良ければ、その話お聞きしますよ」
そう言って彼は、被っていた帽子を外した。
「どうですか?」
その表情は柔らかく、優しかった。
※
「上司ですか?」
「ええ」
私は何故だか分からないが、彼に洗いざらい全ての不満をぶちまけた。
「貴方以外の同僚の方は、その人をどう思っておられるか分かりますか?」
同僚の? どうだったろうか?
「もしかしたら、彼はあなた以外の方には別段に厳しくのないではありませんか?」
確かにそうかもしれない、木元が私以外の誰かと口論をしている所を見た事がないな。
「なにか思い当たる所があるのですね?」
「ええ」
彼はその言葉を聞いて、口角を上げた。
「その上司さんは、あなたに嫉妬しているのではないでしょうか?」
「嫉妬ですか?」
「あくまでも私の想像でしかない話なので、話半分で聞いていただければと思うのですが」
彼はそう前置きをして、
「その上司の方にとってあなたは『出る杭』 であり、あまり出過ぎると自分の立場が危うくなる。そんな事をそのお方は考えておられるのかも知れませんよ?」
そんな事は……とも思ったが、確かに今の部署であれば上司の次の地位にいるのは自分だ。
「それに実際はどうか分かりませんが、そのように捉えていた方が働きやすいかもしれませんよ。『この人は、自分を嫉妬しないといけないほどに悔しいのか』 と。そう思った方が気が楽だとは思いませんか?」
「悪くは……ないですね」
口元が緩んでいるのが分かる、いつも五月蠅い上司が駄々をこねる子供のように思えたからだ。
「そうですか。なら、良かった」
そういうと彼は席を立ち、会計を済ませてそそくさと出ていってしまう。
「待って下さい」
そう引き留めようとした、私の声すら聞かずに。
※
あれから、何度かこの店を訪れているが一向に彼は現れなかった。
「また、あの方をお待ちなのですか?」
カウンターを拭くマスターが聞いてくる。
「ええ」
二度目にここへやってきた時、彼にお礼が言いたいとマスターに言うと、彼がここの常連客である事を聞けた。だが、実際に彼がやってきた事は今のところはない。
「あの方は、少し変わっておられまして。あまり店の者が、お客様をこう言うのはあまり良くありませんが……あの方は、まるで蜃気楼のような方でして。いつの間にか来られてはアプサンを注文し、いつ飲み終えたかも分からないうちに会計をし、そのまま去って行ってしまいます。私は彼の職業も年齢も、名前すら聞いた事がありませんただ……」
カラン、と店のドアが開かれたのを知らせる音が聞こえた。
「おや、噂をすれば」
マスターは私にだけ聞こえる声でそう話す。
振り返ると、そこには出会った時と同じように黒く映えるスーツを着た男性が立っていた。
「おや? あなたは……」
私はイスから立ち上がると、彼に会釈をした。
※
「そうですか」
私が上司の事を気にしなくなったと話すと、彼は自分の事かのように嬉しそうに聞いてくれた。
「本当に助かりました」
「いいんですよ、大した事はしていませんから」
「そんな事はないです!」
私の言葉に彼は笑った、なんだか彼と話していると不思議とウキウキとしてくる。こんな気持ちになったのはいつ振りだろうか。
「本当に助かったんです」
そして、本題を話す決心をした。
「ですので、なにかお礼が出来ればいいのですが」
彼は笑みのままで首を横に振る。
「いいですよ、そんなものは。私にとっては、この出会いこそ嬉しいものですから」
なんと欲がない人だろうか。それにあんなひどい出会いだったというのに、嬉しいと言ってくれるだなんて。
けど、それでは私の気が収まりそうにない。
「そう言わずに、なんでもいいですので」
「そうですね……」
彼の手の中にあるグラスに、照明が反射してキラキラと光っている。
「『ひまわり』 って、ご存知ですか?」
ひまわりを知っているか? その質問に、一瞬戸惑った。
「ああ、すみません。植物ではなく、画家であるゴッホの『ひまわり』 の事です」
ああ、と相槌を打った。
「私はね、彼の書く『ひまわり』 が好きでして。ほら」
と、彼が指差す方向には大きな絵が飾ってあった。
「あれは単なる複製画ですが、私はアレが好きでここによく来ているのですよ」
青い背景に黄色い花びらが綺麗な絵だった、ただ私には絵心というものがなく、彼が言うほどにはその作品が良いものなのか分からないというのが本心だった。
「ゴッホは『ひまわり』を何作も書いているのですが、私はあの『ひまわり』が特に好きでしてね」
その眼差しは恍惚としながらも、子供のように燦々と輝いていた。
「同じ創作者としては憧れてしまいますよ」
彼は一瞬、グラスの中に視線を落とした。
「画家さんだったんですか?」
私の問いに彼は首を振る。
「いえ、私はオブジェのほうでしてね」
あまり有名ではないですが、と。
「実は、私が今作っている作品を最後に辞めようかと思っていましてね」
お恥ずかしい話ですが、と目を伏せる。
「それで良ければなのですが、その作品の完成を手伝っていただけないかと思うのですが……お礼はそれでいかがでしょうか?」
「それは願ったりかなったりなのですが……私はそういうのにとんと疎くて、ご迷惑になるのでは……」
彼は笑いながら、
「大丈夫ですよ、貴方ならば」
数日後、彼の家を訪ねて手伝う約束をした。
※
彼の……『ひまわり』の家は、想像していたよりも大きくて驚いた。
「やあ、いらっしゃい」
ドアホンを押すと、すぐに彼はドアを開けて招き入れてくれる。
「おじゃまします」
「こんな狭い家で申し訳ないね」
「そんな……」
白を基調にした壁紙に『ひまわり』の絵が飾られてる、他にも色々なオブジェがあるが、これが彼の作った物なのだろうか?
「すまないね。男のひとり暮らしだと、どうにも汚れてしまって」
そう彼は言ったが、自分の部屋の様子を考えると……月とすっぽんだった。
「麦茶でも飲むかい?」
「あ、すみません」
夏場の熱気で喉がカラカラになっていた、緊張のせいもあるのかも知れない。
「いいお宅ですね」
「そうかな? そうやって褒めてもらえると嬉しいよ」
彼は「座って」 と、カウンターイスを指す。
「それにして、今日は一段と暑いね」
「そうですね」
彼はいつものようにスーツだった、黒いスーツ。
「けど、こういう日には『ひまわり』がよく似合うよ」
彼は呟いた。
※
氷も解け始めた頃。
「さて、そろそろ始めようか?」
彼は空になったコップを置く、自分のコップもその近くに並べた。
「アトリエは地下にあるんです」
と、リビングを出て玄関の方に戻ると、更に奥へ進んだ。
「ちょっと待って下さい」
彼はそういうと、ある扉の前で足を止めて壁のスイッチを押した。
「こっちだ」
扉を開くとそこには地下に繋がる階段があった。
「足元に注意して進んで下さいね」
奥にも扉が見える。
「私はあまり騒がしいのを好まないので、このアトリエにいる時間が一番好きなんですよ」
彼が扉のドアを開けた。
「!」
その隙間から異様な冷気がしみ出してきた。
「ああ、作品を保存するには冷たい所の方が良いんだ。少し寒いだろうけど、長くはかからないので我慢して下さい」
彼はこちらを向く事もなく、そう話す。
「そ、そうですか」
なんとなく、彼らしくない言い回しのように思えたが気のせいだろう。
「さあ、どうぞ」
彼に促されるままに部屋の中に入る。上とは違い、白い壁ではなく灰色で殺風景な小さな小部屋だった。そこには絵画もなく、ただ中心に布が掛けられた大きななにかが置いてあるだけだった。
「もしかしてコレが?」
寒さに体を震わせつつも尋ねると、彼は頷いた。
「そうです。これが……」
彼は布の端を掴んで、引っぱった。
「私の作った『ひまわり』です!」
布が剥がされると、そこからは異常な臭いがあふれ出してくる。
「ウッ…」
私は咄嗟に顔をそむけたが、その元はなんなのかという好奇心でソレを見た。
「え……」
目が在った。
「どうです? 凄いでしょ?」
彼の声がはるか遠くに聞こえる気がした、そんな事よりも目の前のモノから目が離せない。見たくもないのに。
眼球がひまわりののように規則正しく、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。その一個一個は、白く濁り、死んだ魚のようになっている。その『ひまわり』の他の部分も、明らかに土や木などの無機物ではなく、なにかの皮のように見えた。
「ゴッホが描いた『ひまわり』は太陽のように咲く、黄色を基調にした物が多い。私も初めはそうだった。けどね、それでは単なる模写でしかなく、ゴッホには到底及ばない私の腕ではどうにも再現の使用ががない」
ズン。
背中になにかが当たった。
「それで気づいたんですよ、模写ではなくオリジナルを作らなくていけないと。咲き誇る物ではない『ひまわり』を。」
ゆっくりと振り向こうとしたが、寒さのせいか足に力が入らず膝立ちになる。
「種として、その命を終えつつある『ひまわり』 それは、生れくる物と死にゆく者の融合に見えたのです。その種のひとつひとつが人と同じ魂を持っていると」
「ア……アァ……」
おかしい! 声が出ない! 私の体に何が起こったのだ!?
「けどね、あとふたつ足りないのです」
カツ、カツ、と足音がゆっくり背後に迫る。
「だから、あなたを見た時は運命だと思えました」
この場から逃げた方が良いと、私の中の本能が警告を出しているのに、指一本すら動かせない。
「その目、濁った中にもなにか光る輝きを見た。それと加えたいと」
『ひまわり』が目の前に立つ、肩の高さに上げたその手には光るなにかを持っている。
「ご協力、感謝しますよ」
それはまっすぐ、そしてゆっくりと目寸前まで近づき、
「アァ……ア……アー……!」
それは目の皮をなぞり、ゆっくりと動く。
「いい目です」
たぶん、さっきの衝撃の時になにかの薬品をいれられたのであろう。致命傷な程の傷のはずだが、意識は余計鮮明で。
「では」
ヌチャ。視界の一部が暗くなる。
「こちらも」
グチャグチャ、ヌチャ。視界が失われる。
「ありがとうございました」
そんな彼の嬉しそうな声だけが聞こえた。