小説家になろう
(あぁ、こんなものも書いたなあ)
田中英作は、遺品整理の最中、小学生の頃に書いた作文を見つけた。
自由作文「人が死ぬとき」
つい先週に「脳死」というものを習った。何でも、体は心臓がドクドクと動いて生きているのに、脳が死んじゃって、もう歩くことも、話すことも、考えることもできないそうだ。
今の法律だと、いちおう「脳死」は「死」ではないそうだ。
先生が議長になって、クラスのみんなで議論をした。
もちろん「脳死は死なのか、そうでないのか」についての議論だ。
僕はいちおう「脳死は死」の方に手を挙げていた。
でもまぁ結局、先生が「一つの物事にも色々な見方があることが分かりましたね」といってうやむやにして終わった。
世界中の大人たちが考えても分からなかったんだから仕方がないとは理解しているつもりだ。
でも、中途半端にしておくのは僕の性に合わない。
だから僕は「僕が死ぬときは何時なのか」を考えようと思う……。
身体に若さが無くなった時、これは死だろうか? ……きっと違う。
歩けなくなった時?
ハシを自分で持てなくなった時?
寝たきりになった時?―――違う。
人に忘れられたとき?
人に愛してもらえなくなった時?
愛する人を失った時?
否、否、否!!!!!
きっとそんな時ではない。
僕が死ぬ時、それは……
そう、画家が筆を持て無くなった時、
落語家の舌が回らなくなった時、
格闘家が手足を失った時のように、
僕が死ぬ時は、きっと―――、
小説を読むことも書くこともできなくなった時だ。
(……。)
英作は小学生の頃に書いたその作文を、枯れ木のような指を震わせて読んだ。
英作には妻がいた。半世紀以上も前に結婚し、つい先月に亡くなった妻だ。終ぞ子供はできなかったものの、それでも互いに互いを想い、愛して合っていた。
英作は作文から顔を上げ、天を見上げると、ふと妻の声が聞こえた気がした。
「もう小説は書かないの?」
英作は仕事が忙しくなる30代になるまで、折を見ては小説を書いていた。
最後に小説を書いてから久しい35歳のある日、妻にこう言われたのだ。
「もう小説は書かないの? あなたの作品好きなのに……」
英作は妻のこの言葉に、「また今度な」と約束したのを思い出した。
つい先ほどまでは、妻のいなくなった人生に絶望して自分の遺品の整理を始めただけだった。
しかし、昏く淀んでいた彼の目には、悲しみの色も、死への恐怖さえ浮かんでいなかった。
(書くのだ。小説を書くのだ)
今の英作の目に映るのは、小説を書きたいという情熱と、書かねばならないという使命感だけだった……。
英作は夢中になって小説を書いた。
そして、数年の月日が流れ、英作は89歳にして異例のライトノベル作家デビューを果たした。
某レーベルの大賞の報告を聞いたのは、白い病室のベッドの上だった。
心筋梗塞、脳卒中、etc……。
死の淵をさまよった経験からくる緊迫した死の描写。
長い人生経験によって培われた人物描写。
まるで、すぐそこに別の世界が広がっているかのような作りこまれた世界観は、読んだ人々を虜にした。
第20巻にて完結したその作品は、社会現象にまで発展した。
第20巻、最後の後書きにはこう書かれている。
私の小説を読んでくれたことを本当にうれしく思う。ありがとう。
小学生の私によると、私が死ぬ時は小説を読めも書くこともできなくなった時だそうだ。その考えは今も変わらない。
実をいうと、もうだいぶ前から私の目は見えなくなってしまった。
書けることはもう、この20巻で出し尽くしたつもりだよ。
いい人生だった。
最後に一つ、老い先短い老骨に聞かせてほしい。
君が死ぬ時はどんな時だい?
英作は最後の後書きを書き終えると、机に向かい、ペンを持った体勢のまま、笑みを浮かべて亡くなった。
95歳の春だった。
耳を澄ませば、天の方からこんな声が聞こえるかもしれない。
「あらあなた、やっと来たのね。そんなことよりあなたにオススメの本があるんだけど……」
「それ、私が書いた本……」
「えっ!?」
コレを書いている私はいつ死ぬのだろう?
コレを読んでいるあなたはいつ死ぬのだろう?
書き始めるのに遅いなんてことは無い
さぁ―――、小説家になろう!