生きることと世界を見ること
640000 全ての命題は等価である。
641000 世界の意義は世界の外にある。
世界の中では、全てはあるようにあり、全ては起きるように起きる。
その中に価値は存在しない。
仮にあったとしても、それは価値ある価値では無い。
価値ある価値があるとすれば、それは、起きること、
あるようにあるもの全ての外になければならない。
起きること、あるようにあるもの全ては偶然であるから。
それを偶然でないものとするものは、世界の中にはありえない。
なぜなら、世界の中にあるとすれば、これもまた偶然となるであるから。
それは世界の外にあるのでなければならない。
642000 それゆえ倫理学の命題も存在しない。
命題はより高きことを何ひとつ表現することができない。
642100 明らかに、倫理を言葉で言い表すことはできない。
倫理は超越的である。
倫理と美は一つである。
642200 「あなたはこうした方が良い」という形の倫理法則が立てられるとき、
まず思い浮かぶのは
「ではそうしなければどうなるのか」という問いである。
しかし、倫理は明らかに通常の意味での賞罰とは関係しない。
それゆえ、行為の結果を問うことは見当違いである。
行為の結果を求めるとすれば、少なくとも、それは出来事であってはならない。
というのも、先の問いは何がしか正しいはずだからである。
確かに、ある種の倫理的賞罰は存在するに違いないが、
しかしそれは当の行為それ自身のうちにあるのでなければならない。
そしてまた、賞が好ましいものであり、
罰が好ましくないものでなければならないことも、明らかである。
642300 倫理の主体としての意思については語ることができない。
そして、現象としての意志は心理学の興味を引くに過ぎない。
643000 善き、あるいは悪しき意志が世界を変えるのであれば、
変えることができるのはただ世界の限界であり、現実ではない。
すなわち、言語で表現できるものを変化させることはできない。
一言で言えば、結果としての世界は全体として別の世界へと
変化するのでなければならない。
いわば、世界全体が増大したり縮小したりするのでなければならない。
幸福な人の世界は不幸な人の世界とはまったく別の世界である。
643100 死によっても世界は変わらない。
死によって世界は終わる。
643110 死は人生の出来事ではない。死は体験されない。
永遠を終わりの無い時間的持続としてではなく、無時間と考えるならば、
現在に生きる者は永遠に生きている。
人間の視野に限りがないように、人間の生にも終わりがない。
643120 人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、
それはいかなる仕方でも保証されていない。
それだけでなく、例えそれが保証されたとしても、
その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。
一体、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるのだろうか。
その永遠の生もまた、現在の生と変わらず不可解なものではないのか。
時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。
解かれるべき謎は自然科学の問題ではない。
644000 神秘とは、世界がどうあるかではなく、世界が確かに存在するということである。
645000 永遠をもとに世界を観るとは、世界を全体として観ることである。
限界のある全体として世界を感じること、これが神秘的感情である。
650000 言い表せない答えに対しては、問いもまた言い表すことが出来ない。
謎は存在しない。
問いが立てられるのならば、答えを与えることもまた可能である。
651000 懐疑論は反論不可能なのではなく、無価値である。
なぜなら懐疑論は問うことの出来ないところで疑おうとしているからである。
問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立ち、
答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。
そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかを語ることが出来るところでしかない。
652000 科学で可能なすべての問いが答えられたとしても、
生の問題はまったく手つかずのまま残されるだろうと、人間は感じるのである。
勿論、その時もはや問うべきことは何ごとも残されていない。
そしてまさにそれが答えなのである。
652100 生の問題の解決は、問題の消滅によって気付くことが出来る。
長い懐疑の後、生の意義が明らかになった人々が、それでもなお
その意義がどこにあるか語ることができない、その理由はここにある。
653000 語れること、すなわち自然科学の命題以外は何も語らぬこと。
そして誰かがなにか論理的なことを語ろうとした時、
その度に、あなたはあなたの命題のこの記号にいかなる意義も与えていないと指摘する。
これが、本来の正しい哲学の方法である。
この方法はその人を満足させないだろう。
彼は哲学を教えられている気がしないだろう。
しかし、これこそが、唯一厳密に正しい方法である。
654000 私を理解するひとは、私の命題をよじ登り、その上に立ち、それを乗り越え、
最後にこの命題が無価値であると気づく。
このことに関して私の命題は明確である。
いわば、梯子を登りきった者は梯子を投げ捨てねばならない。
私の命題を超えねばならない。
その時世界を正しく見るだろう。




