世界の限界
560000 私の言葉の限界が、私の世界の限界である。
561000 論理が世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
そう語ることは、明らかにある種の可能性の排除を前提としているが、
しかし、それは現実ではありえない。
なぜなら、現実であるとすれば、論理は世界の限界を超えなければならない。
すなわち、世界の限界を超えることによってのみ、
論理は世界の限界を外側からも見ることができるのだから。
思考できないことを思考することはできない。
思考できないことを語ることもできない。
562000 以上の見解が、独我論はどの程度まで正しいかという問いの鍵となる。
つまり、独我論の言おうとすることは正しい。
ただ、それは語ることができず、自らを示すだけである。
世界が私の世界であることは、
この言語の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
562100 世界と生は一つである。
563000 私は私の世界である。
563100 自ら考え表現できる主体は存在しない。
「私が見つけた世界」という本を書く。
その本の中で私の身体についても報告され、また、どの部分が私の意思に従い、
どの部分が従わないかも語られなければならない。
これは主体が存在しないことを示している。
この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。
563200 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
563300 世界のどこに主体を認める方法があるのだろうか。
例えば、眼と視野の関係がある。現実では自分の眼を見ることは出来ない。
視野の中にあるものに、自分が「眼に見られている」と推測することはない。
563310 眼の先に風船のように視野が広がっている訳ではない。
563400 このことは、
人間の経験のどんな部分も自然発生したことではないことと結びついている。
人間が見るすべては、また別のようでもありえた。
人間が記述できるすべては、また別のようでもありえた。
シングの作ったものには絶対的な姿は存在しないのである。
564000 独我論を突き詰めると実在論と一致する。
独我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。
564100 哲学で自我を考えることには意義がある。
自我が哲学に現れるのは「世界は私の世界である」という事実があるからである。
哲学的自我とは人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱う人間の心でもない。
論理的な主体であり、世界の部分ではなく、世界の限界である。




