1.第一王子ハロルド
「―――マリエル。外に出たいのか?」
王城の独房には決して手が届かない高い位置に小窓がある。かつての婚約者はそこから差し込む光をただじっと見つめていた。
そっと声を掛ければその視線が私に向けてゆっくりと移される。
「ごきげんよう殿下。今日の天気はいかがですか?」
そっと微笑む彼女の頬は少しばかり痩せただろうか。しかしそれでも以前の輝きは少しも失われてはいない。
柔らかく私を見つめる琥珀色の瞳。紅を塗っていなくとも赤く色づく妖艶な唇。艶のあるブロンドの髪。そして凛としたたたずまい。
社交界の花と謳われた令嬢――マリエル・ウィズマロンはこんな薄暗く湿った独房にいてもその美しさを消すことはなかった。
さすが、というべきか。
マリエルから視線をそらした私は、独房の前に置かれている監視兵用のイスに腰を降ろした。
「今日の天気か。そうだな―――今日はよく晴れている」
「雲は出ていますか?」
「雲?いや、雲一つない快晴だ」
「そうですか」
私たちがまだ婚約者であった頃も、そういえばマリエルの第一声はいつもその日の天気のことだった。
―――おはようございます殿下。今日はとても気持ちの良い空ですね。
―――ごきげんよう殿下。今日は風に乗って白い雲が流れております。
―――殿下、今日は雲が多いので陽が当たりませんね。
―――今日の雲はじきに雨を降らすかもしれません。
王城の庭でマリエルとお茶をしているときも彼女は空を見上げていることが多かった。
いったい何を考えていたのだろう。その横顔がとても哀しそうで私は声を掛けることができずにただ見つめることしかできなかった。やがて私のその視線に気が付いたマリエルがそっと視線を降ろし私に向かって微笑むのだ。
私はマリエルの笑顔が苦手だった。
私とマリエルの婚約は国王である父と、公爵家である彼女の父によって決められたもの。受け入れるしかなかった。例え他に愛する人がいたとしてもその相手を選ぶことができないのは、王族そして貴族の子に生まれた宿命だ。だから私はこの婚約には逆らえなかった。
私はマリエルのことを少しも好きではなかった。けれど愛する努力はしようとした。でも、ダメだった。
私には幼い頃からの想い人がいて、その女性を忘れることがどうしてもできなかったからだ。
私にマリエルに対する愛情がなかったように、マリエルもまた私に対する愛情はきっとなかったと思う。マリエルから私を愛そうとする気持ちが少しも伝わってこなかった。
もしかしたら彼女もまた私と同じように他に想い人がありながら、親に決められた相手と不本意な婚約をさせられたのかもしれない。そうも思ったが、実際に本人に確かめたわけではないので真実は分からない。
マリエルは自身の気持ちをあまり表情には出さなかった。感情のこもっていないようなまるで画にかいたように整った笑顔をいつも顔に貼りつけていた。どこにいても、誰と話していても、彼女は常に同じような顔で微笑んでいた。
そんなマリエルだったが唯一別の表情を見せる瞬間があった。
それが、空を見上げているとき。
そのときだけは取って付けたような仮面の笑顔がほんの少しだけ崩れるのだ――――――――――。
「―――――殿下。わたくしに何かご用がおありなのでは?」
張りつめた空気が漂う独房に、鈴のように凛とした声が響く。ハッとして顔を上げればマリエルと視線がぶつかった。
「このような場所に殿下がお一人でいらっしゃるなんて、わたくしに何か用がおありなのでしょう?」
私の苦手なあの笑顔でマリエルは微笑む。
「あ、ああ。そうだった」
私は座っていたイスから一度腰を上げ、再び深く座り直した。
マリエルとの婚約が破棄になってからというものどういうわけか彼女と過ごした日々のことを思い出すことが多くなった。それも時々見せる切なそうな横顔を。
しかしそんなことを回顧している場合ではない。
慌ただしい業務の間を抜けてここへ来た理由を思い出し、彼女に問いかける。
「マリエル。どうしてアンジュにあのようなことをしたのだ」
一瞬、マリエルが周りを伺うような気配を見せた。
「大丈夫だ。ここには私たち二人しかいない。監視の兵なら今は外に出てもらっている。だから―――――」
だから真実を話してくれないか、マリエル。
「どうしてアンジュを階段から突き落としたのか、その本当の理由が知りたいんだ」
「殿下。それでしたらすでに皆様にお話しした通りです。わたくしがアンジュ様のことをよく思っていなかったから。それだけです」
「本当にか?」
「ええ、それだけです。わたくしはアンジュ様が嫌いです。大嫌い。あの方は殿下―――あなた様の幼馴染で元婚約者であったと聞いております。そうですよね?」
「ああ、たしかに」
マリエルと婚約をする前、本来の私の婚約者は幼馴染のアンジュだった。彼女は私の長年の想い人であり、私たちは両想いであった。私はアンジュを愛していたし、アンジュもまた私のことを愛してくれていた。
「わたくしは、殿下とアンジュ様の関係にひどく嫉妬しておりました。きっとこの先、アンジュ様が殿下のお傍にいらしたら私たちの結婚はうまくいかないと思いましたので、あのお方には消えていただこうと思いました」
「殺意があったというわけか?」
「ええ、その通りです」
マリエルの何の感情もこもっていないその声に少し腹がたった。
アンジュの命を何だと思っているんだ。アンジュをあのような目にあわせておきながら、マリエルは反省したそぶりを一切見せない。
きつく握りしめた右の拳を左手で何とか抑え込むのに必死だった。
「――――ところで殿下、アンジュ様のご容態はいかがですか?」
まるで他人事のように告げるマリエルの冷ややかな声に、握りしめた拳に更なる力がこもる。しかし私はぐっとこらえた。
「アンジュなら、頭をひどく打ち、全身に骨折や打撲を負ってはいるが幸い命に別状はない。回復には時間がかかるかもしれないが、また以前のような生活に戻れるそうだ」
「そう。それはよかったですね」
フフフ、とマリエルは小さく笑った。それからふっと息を吐く。
「ということは、わたくしの計画は大失敗ですね。アンジュ様は生きておられるし、わたくしはこうして無様に捕まってしまった」
マリエルは自身の両腕につけられた重たい鎖を、まるで私に見せつけるかのように持ち上げた。
マリエルと私の婚約が破棄になったのは、彼女がアンジュのことを階段から突き落とし命を奪おうとしたからだ。人の命を脅かすような恐ろしい女を国王の正妃になどできるわけがない。そういう意見が城内から多くあがった。当たり前といえば当たり前だろう。
そしてマリエルとの婚約が破棄になった私の新たな婚約者は、かつての婚約者であり幼馴染であるアンジュへと戻ったのである。
マリエルのしでかしたことは気に入らないアンジュを消そうとして行った悪事だったが、結果的に私とアンジュは再び結ばれることができた。そう気付いたのは、アンジュと話をしていた昨晩のことだった。
被害者であるアンジュが、加害者であるマリエルのこと庇うような発言をしたのだ。
『マリエルさんは悪くない』
なぜそんなことを言い出したのか私はさっぱり分からなかった。
アンジュは優しい性格だ。それにしても優し過ぎるだろう?運が悪ければ命に関わることだったというのに、それでもマリエルのことを庇うのか?
しかしそれにはアンジュなりのきちんとした理由があった。彼女からその全てを聞いた私は真相を確かめるべくマリエルが収監されている独房へと赴くことにした。
実を言うと私も今回の件に関しては少し違和感を覚えていたのだ。
貴族の子息令嬢が通う学園をトップで卒業するほどの聡明な女性がアンジュを階段から突き落とすなど、犯行がバレれば己の立場すら危ないようなことをなぜしでかしたのか。マリエルは嫉妬心だけでそんな悪事を働くような、そんな浅はかな女性ではないはずなのに。
私とアンジュの思い過ごしでなければもしかしたら…………。
「最後にもう一度だけ問いたい。答えてくれマリエル。そなた、もしや本当は私とアンジュの仲を―――」
続きの言葉を告げようとした私の声は、しかしマリエルによって遮られてしまう。
「殿下。わたくしも女です。婚約者が別の女性のことを想っていることに耐えられなかった。わたくしにあったのはそんな女の醜い嫉妬心。ただそれだけです」
これ以上はもう何も語らない、とでもいうようにマリエルは鋭い瞳で私のことを見返した。だから私ももうこれ以上は何も問えなくなってしまう。
「そうか。残念だ、マリエル。――――そなたは、自身の罪をきちんと償え」
「ええ、分かっておりますよ殿下」
これからきっと彼女には重たい刑が待っているであろう。
マリエルは悪くない。そう言ったアンジュの言葉と真相が気がかりだが、本人であるマリエルがアンジュへの殺意を認めているのだからもうどうしようもない。
彼女には罪を償ってもらう。
「では、私はこれで失礼する」
イスから立ち上がりマリエルに背を向けて歩き出す。
きっとこれでもう彼女と言葉を交わすのは最後になるだろう。顔を合わすことももう二度とない。
あのような事件さえ起こさなければ、私の妻となり王妃になるはずだった女性。公爵令嬢マリエル・ウィズマロン。私の婚約者にさえならなければこんなことにはならなかったのか…?私がアンジュへの想いをきちんと断ち切り、親から決められた相手である婚約者マリエルに愛情を注げていたら―――――。
「――――ハロルド」
名前を呼ばれピタリと足が止まった。マリエルと婚約者という関係になってから、こうして彼女に名前で呼ばれるのはこれが初めてのことだった。
「最後に一つだけ聞かせてください」
それはいつも堂々としていたマリエルらしくない弱弱しく今にも消えそうな声だった。
「何だ」
私は振り向かずにマリエルの言葉を待つ。
「愛は……わたくしへの愛はありましたか?」
「…………」
愛。
私は小さく息を吐き、はっきりと答えた。
「そなたに愛はなかった」
「少しも、ですか?」
「ああ」
「…………そうですか」
マリエルは小さく笑っていた。それから普段の彼女らしい自信に満ちた声で囁く。
「ハロルド殿下。アンジュ様とお幸せになってください。お似合いのお二人です。愛のある生き方を、どうか」
「!」
彼女のその言葉に私はハッと気が付いた。
「マリエル―――そなた、やはり」
思い違いなどではなかったのだな。そう確信した私は慌ててマリエルへと振り返る。
しかし、彼女は私のことを見てはいなかった。小窓から差し込む光をただじっと見つめている。その横顔に向かって私はやはり声をかけることができない。
今さらもう遅いのだ。マリエルには自身の罪を償う未来しか残されていない。彼女を救うことはもうできないのだ。
全てを取り払うように私は頭を大きく何度も横に振った。
それから顔を上げて前を見据える。
止めていた足を再び進ませ、静かに独房を後にした。
10/28誤字訂正。