見合い相手が連れ去られひとり残された彼女の場合
なんだか似たような場面があった気がするのだけど、と頭の片隅で思い返せば、そういえば一昔前の映画のワンシーンだと辿り着く。
今し方、目の前に座っていた男性が、どこからか現れた女性に腕を引かれ店内から去っていった。迎えにきたというよりも、掻っ攫っていったというような雰囲気で。
ああそういえば、映画では男女の配置が逆だった。
颯爽と現れた男が、別の男と向かい合っていた女を連れ去るのだ。あまりの剣幕に店内の客の視線が集まり、そんな状況に残された男は好奇と同情の視線に晒される。
(今の自分はまさしくその男と同じ、か)
先程から無遠慮な視線がざくざく突き刺さっているが、繭子(まゆこ)は気にも留めず注文したホットカフェラテを嚥下する。美味しい。
そのままふうとひとつ息をついた。
さて、どうしてこうなったのか。順を追って思い返そう。
三十を過ぎて数年、周りの友人知人は結婚し子どもを生んでいる年齢だ。繭子自身はそんな周囲の状況になんら焦ってはいなかったが、お節介な人間とはどこの世にも存在するもので、繭子にとっては伯母がそれに当たる。
三十歳を過ぎても浮いた噂を聞かない姪を心配し、見合いの席を設けたのだ。
相手は伯母が趣味で通っている教室で知り合った人の息子で、年齢もほぼ変わらず。とんとん拍子に話は進み、今日にいたった。
見合いといっても堅苦しいものではなく、少し洒落た喫茶店で話でも、ということだった。付添人もなく、お互い初対面同士だが馬が合えば大丈夫だろうと思われたらしい。
伯母の顔を立てるつもりで繭子は了承した。先方も同じで日取りも決まりこの喫茶店で初顔合わせとなったのはまだ三十分ほど前のことだ。
穏やかそうな青年だった。待ち合わせ時間に遅れることなく現れた男性はスーツをきっちり着こなした清潔そうな身なりをした人物で、話していると実直な印象を受けた。お互い年齢も合う。
恐らくとてもよい縁談なのだろう。大きな障害もなく、波風も立たず、このまままとまればいずれ夫婦というかたちに落ち着いたはずだ。
……すでに過去形だが。
(というか、犯罪なんじゃないの、あれ)
思い浮かべるのは先程見合い相手を攫っていった女の年齢だ。どう見積もっても十代半ば過ぎがいいところに見えた。さすがに制服姿ではなかったが、確実に十八歳には届いていないはずだ。
自分と同年代の男と十代半ばの少女。しかも連れ去った様子から察するに、ただの知り合いというより深い仲を思わせた。男女の仲といったら生々しいが、きっと間違っていないはずである。
(あっちのご両親は知ってるのかしらね)
息子の付き合っているだろう相手がまだ未成年、それも十八歳に満たないだろう年齢で。
いや、知っていたら今回の話はなかったはずだ。それともなにか勘づくことがあったから無理にでもねじ込んだのか。
(まあ、わたしには関係ない話だけど)
もう一口、カップに口をつけていると不意に影が落ちた。と同時につい先程まで見合い相手が座っていた向かいの席へどかりと無遠慮に腰を下ろした人物が居る。
ちらりと視線を上げた。視界に映ったのは癖のあるぼさぼさの伸び放題の髪をひとつに結わえ無精髭をたくわえた、野性味ある男だ。昼下がりの洒落た喫茶店に似つかわしくないといったら失礼だろうか、グレーの作業着姿はとても目立つ。
視線を上げた繭子に気づいたのか男の目線がこちらを向いた。射抜くような眼差しが繭子を捉える。そして口元に癖のある笑みを刻んだ。
「よう。浮気かこの雌犬があ」
「うっさいわ色狂い」
ぴしり、と空気が固まった。もちろん繭子と向かいの男ではなく、こちらに注目していた他の客が、である。
通路を挟んだ隣に座る二人連れの女性客などもっとも顕著だった。繭子が視線を流せばばっちり目が合った相手は慌てて逸らしたものの、持っていたフォークを落としそうになっていた。焦りすぎである。思わず笑ってしまうほどに。
するとその笑みになにを思ったのか、向かいの男がおかしくて仕方ないと喉を震わせた。
「くっくっく、そんな洒落た格好、俺は見たことがないはずだが? 腹いせかぁ?」
「どうとでも」
「かわいいねぇ」
三十歳をいくつか過ぎた女に『かわいい』、それもこの男の口からこぼれたと思えば鳥肌が立つ。似合わなすぎて。
(気色悪い……)
隠す気もなくしかめ面になればさらに男の笑みを誘ったらしい。分かっていたが気分のいいものじゃなかった。
腹いせ……確かにそうなのかもしれない。
男と繭子の関係は、世間一般でいうところの『恋人関係』ではない。ではどんな間柄なのかと問われれば身体の関係があるだけの、利害関係で成り立っているとしか答えられない。
手っ取り早く欲求を解消する相手、といえば分かりやすいだろう。
誰かを想って胸をときめかせるような、惚れた腫れたといったことは繭子にとって疲れるものだった。だが性欲は溜まる。しかし恋人を作るまでの過程が面倒くさい。
そんなとき出会ったのが男だ。初めて訪れたバーでひとつ空いたカウンター席の向こうに腰掛ける初対面の男は、後腐れなく関係が持てそうな予感があった。こういった勘はよく当たる。案の定、男は嫌悪感もなく面白そうな色を乗せて了承した。それが二人の関係の始まりだ。
きっかけは繭子、乗ったのは男。
関係は良好だった。決めごとは互いに必要以上に干渉しない、相手の行動を制限しない、この二点のみ。たとえ相手が自分以外と行為をしたとしても、病気が移らないよう対処してくれれば構わない。
繭子は男以外に関係を持つ相手を探すのが億劫だったのでひとりだったが、男は出会った当初から他の女の気配がした。一切隠そうともしないのだ、気づかないはずがない。だからといって繭子が嫉妬するということもなく、男の態度も変わることがないまま時間が過ぎていた。
ところが違和感を覚えたのは出会って二年ほど経った頃だろうか。
少しずつだが男から他の女の気配が消えた。あれほど分かりやすかったのに今更隠すとは考えにくいし男の性格から考えてもありえないため、一時はもう枯れたのかと失礼な推察までしていたが、それにしては繭子と会う時間が減ることはなく、むしろ増えたような気がするのは気のせいではない。最初は相手が減ったからかと思い込むようにしたが、頻度が高くなるにつれ繭子は僅かな危機感を覚えた。まさかと思い距離をとっても男は退かず、思い違いだとかわしてもその隙をかいくぐるように男の手が伸びる。
……決定打は最後に会ったとき、別れ際、無骨な手が繭子の左手首をなぞったことだろう。
今まで肌を合わせているとき以外、触れ合いは驚くほどなかった。たとえば女をエスコートするような紳士な対応を男がするはずもなく、また繭子もべたべた相手に触るのが好きではなかったため、一歩引いたところから観察すれば繭子と男が共に居る光景はまさか身体の関係があるとは思われない、あっさりとしたものに映ったはずだ。
それがよもや、男からの、二人の関係に変化をもたらすだろう行為。
気づけば男が繭子を見る目に色が灯るようになった。
気づけば男と二人きりのときの雰囲気が微かに変わった。
気づけば男の軽口にじわりとほのかな熱が帯びるようになった。
繭子は腹が立った。
(話が違う)
自分は恋愛がしたいわけじゃない。むしろ忌避している。面倒くさい。はっきり言おう、煩わしくて仕方ないのだ。
それなのに男はずかずかと繭子の領域に踏み込んでこようとする。気軽な関係を望んでいる繭子にとっては迷惑でしかない。
だから腹立ち紛れに偶然飛び込んできた伯母からの見合い話に乗ったのだ。相手方には悪いが八つ当たりにも等しい行動だった。だがまあ、あっさりと相手の男性が退場した事実は繭子にとってありがたかったが。
しかし、男が現れた。
ちなみにわざわざ見合いをすると話したわけではない。そんな、まるで止めて欲しいと媚びるような頭の悪い女がしそうな駆け引きからではなく、今夜の予定を訊かれたから正直に説明したまでだ。見合いをする、と。
設けられた見合いの時間はもちろん夜ではなく日中だが、男は仕事中にも関わらず抜け出してきたようだ。どんな仕事をしているかはっきりと尋ねたことはないものの、付き合いは二年に渡る。自ずと察することはできる。
見合い場所も教えなかったが、繭子が家を出たあとをついてきたのだろう。もっぱら会うのはビジネスホテルが多かったが、いつだったか勢いで繭子の部屋へなだれ込んだことがある。だから家を覚えていた男が繭子の部屋を訪ねてきたものの、出かけるのを見かけ声をかけなかったのかできなかったのか定かではないが、目的地は見合い場所だと判断しついてきた。
そうして場面は洒落た喫茶店に移るわけだが、繭子が見合い相手と向き合っているのをどこからか見ていたのだろう。男性が席を立ってそう時間が経たずに男が現れた。それもひとの神経を逆撫でするような言葉と共に。
(ああむかつく)
気持ちを落ち着かせるためホットカフェラテを口に含むが少し冷めてしまっていた。
(……美味しくないわ)
もういいや、とカップを戻す。そして改めて目の前の男へ視線を向けた。
相変わらず愉快げに引き上げられた口元が目につく。繭子が思い返していた間、観察されていたようだ。見られて困ることはないが、その面構えが気に入らない。
しかし日に焼けたごつごつと骨ばった指が先程からテーブルを打っている。煙草が吸いたいのだろう、男はヘビースモーカーだから全席禁煙のこの喫茶店では我慢するしかない。太く凛々しい眉が眉間に寄っているのも証拠だ。その姿に僅かに溜飲を下げる。
男がどういうつもりでここへ現れたのか察せられないほど鈍くはないし、かまととぶるつもりもない。
そもそも繭子と男の関係は三大欲求のひとつを解消するためでしかなかったはずだ。そこに情や思いやりが生まれれば、それはもう繭子の望む関係から逸脱してしまう。
それにこの二年、甘い言葉はおろか、互いに好意を匂わせる言葉を口にしたことはなかった。これが答えだろう。これ以上のなにを望むというのか。
思考の海に漂う繭子を引き戻したのは、やはり男だった。
「まゆ」
ほとんど名前など呼ばない、それこそ情事の最中ですら珍しいほどなのに、何故わざわざここで呼ぶのか。それも男だけが呼ぶ呼び方で。
出会って暫く経った頃、ようやく名前はと訊かれ教えるとではどんな呼び方がいいかと問われたので、お好きなようにと繭子は返した。ちなみにそれまでお互い名前も尋ねなかったのは連絡先さえ交換すればそれで事足りていたため、特に不便だと感じなかったからである。
すると男は『繭子』、『まゆ』、ふざけて『繭子ちゃん』、『まゆちゃん』などと候補を唇に乗せていたが、繭子自身はどうでもよかった。ただしっくりきたのか『まゆ』、『まゆ』と何度も繰り返す様子にほんの少し子どものようで嫌だと感じていた。拒否すればこの男のことだ、嬉々として連呼するに違いないと顔には出さなかったが、悪辣な男はそんな繭子の心中を看破しわざと『まゆ』と呼ぶことを選択する。それからだ、時折、本当に忘れた頃に『まゆ』と呼ぶ。気に食わない。
眉間に皺を寄せ見返す瞳にも力が入る。
「なに」
「今夜は暇だろぉ」
一瞬、なにを言われるのかと身構えていただけに拍子抜けした。と同時に確かに男の言うとおり、今夜時間が空いた。そういえば誘われていたと思い出す。そして見合いを理由に断っていたとも。
「俺に付き合うよなぁ」
語尾を伸ばす、独特の喋り方。けれど軽薄な印象を持たせず、むしろ反対の、じわじわ真綿で首を締めるかの如くやわらかな拘束を与える声音は、繭子の反論を許さない。
(……本当に面白くないわ)
これ見よがしに溜息を吐き出し男を見据えた。
男からの誘いはしかし、繭子に断るという選択肢を排除させるだけの理由にいたらなかった。
男の目的がどこにあろうと繭子は変わらない。変わるつもりもない。
それに今から別の相手を探すとしても、面倒くささが先に立つ。繭子の性根はここにきても変わらなかった。
「仕事は」
「ああ、もう今日は終わりだぁ。おまえは休みだろぉ」
「ええ」
「じゃあ出るかぁ」
「今から?」
怪訝そうに見上げるも男の意思は変わらないらしい。嘆息ひとつ、繭子も席を立った。
「いい天気だなぁ」
「そうね」
会計を済ませ外へ出ると二月の終わりだというのにどことなく春を思わせる日差しが迎える。
「なるほど見合い日和だあ」
「相手は若い女の子とさっさと逃げたわ」
「はは、あれは傑作だあ」
知らない人間が聞いたら嫌みかと勘違いする台詞だろうが、男と二年も付き合いがあれば分かる、これは相手の男性を嘲笑しているのだ。堅苦しい見合いの席でなくとも相手を置き去りにして別の人間と一緒にその場を去る、しかもろくな説明もなくただ感情と状況に酔った突発的な行動は、本人たちは満足だろうがのちのち尾を引くことになるだろう。容易に想像できるからこその男の言葉で、尚且つ繭子を袖にした相手の男性への非難も含まれていると繭子自身も勘づいているが、敢えて触れず空を仰いだ。
「……本当に、いい天気」
吐息のようにこぼれた言葉に、隣を歩く男からふっと空気を揺らす気配がした。見なくても想像がつく、その口元はにやにやと繭子をからかうように円を描いているのだろう。
数時間後に欲に溺れる自分たちとは似つかわしくない対比を思わせる爽やかな晴れ模様が、変わらず二人の頭上にあった。
=終わり=