三
疾走する汪直の耳に、次々と絶叫が聞こえてきた。
絶叫しているのは、その場に居合わせた百官たちである。ど真ん中に巫士が毒猿とともに乱入し、誰彼の見境なく、毒の煙を振り撒いている。
巫士が両手を振り回すと、ばっと黄色い粉が舞い上がり、煙となって散った。煙を一息吸い込むだけで、人々は一瞬に絶命してしまう。
毒猿は、全身が毒の塊で、指先の爪、吐く息、唾液すらも、毒にまみれていた。猿が引っ掻き、あるいは息を吹きかけただけで、毒が相手の身体を侵す。
うっかり猿を捕えようと毛皮に手を掛けただけでも、毛先から毒が、触れた手から沁み込んでしまう。
百官、王族を守備する兵士たちも同様で、手にする武器を振り回す余裕すらなく、巫士と毒猿によって倒されていった。
汪直は成化帝と、朱祐堂を目指している。こうなったら、皇帝親子を、汪直自身の手で殺してやりたいと思ったのだ。
「来いっ!」
汪直が叫ぶと、巫士と毒猿が殺戮の輪から飛び出し、汪直と併走し始める。巫士と猿を両側に従え、汪直は皇帝親子に向かって突進していた。
成化帝と朱祐堂親子は、茫然と汪直の姿を目にしていた。
「汪直っ! 何故の反乱じゃっ!」
成化帝がぐっと立ちはだかり、手を挙げ、汪直を指差し、叫んだ。
「陛下、お覚悟を……!」
汪直は成化帝に向かって、ニヤリと笑い掛けた。
皇帝といえども、今の汪直にとっては、単なる獲物にすぎない。汪直は必殺の武器を手に構え、じりじりと詰め寄った。
「待てえ──っ!」
駆け寄る足音が聞こえ、新たな敵が汪直の眼前に出現した。
「弑逆者め! 許さんっ!」
汪直に向けて、刀を向けたのは、倭人の愛洲太郎左衛門であった。太郎左衛門の姿を目にした汪直は、即座に事情を悟っていた。
太郎左衛門を監視するため、残した艮と、巽の二人は、殺されたのだ! あの時、太郎左衛門の手足は、厳重に縛りつけ、自由を奪ったはずだ。それなのに脱出できたわけは、手助けがあったのだろう。
太郎左衛門には、同じ倭人の仲間がいた。ひょろ長い身体つきの、朧と名乗る男。多分、あいつが、この紫禁城内に潜んでいる……。
皇帝親子は、倭人の背中に、慌てて隠れた。
太郎左衛門は、刀を真正面に構え、じりっ、じりっと汪直に近づいた。しかし、無闇に切り掛かってはこない。
汪直は両手に、細身の短刀を構えている。以前、手合わせしているから、汪直の間合いは、太郎左衛門に把握されているはずだ。同じ間違いを倭人が犯すとは、考えられない。今こうして構えている短刀では、勝負にならない……。
すばやく決断を下し、汪直は手にした短刀を太郎左衛門に向かって、さっと投げつけた。
太郎左衛門は、刀を旋回させ、難なく汪直の投げつけた短刀を、打ち払った。
相手の動きを確認して、汪直は巫士に向けて命令した。
「あいつは手強いぞ! お前たち、両側から、あいつに近づくのだ」
巫士は頷くと、太郎左衛門に近づいた。
毒猿は、太郎左衛門に向かって「ぎーっ!」と歯を剥き出した。ずらりと並んだ黄色い歯先から、毒の唾液がたらたらと迸っている。
猿を一目ちらっと見て、容易ならぬ相手と、太郎左衛門は理解したようだった。
「陛下、ここは拙者が防ぎます。お早く、お逃げ下さいっ!」
太郎左衛門は早口で、成化帝に話し掛けた。
「恩に着るぞ!」
成化帝は早くも皇太子を促し、逃走の姿勢になる。
「逃がすかっ!」
汪直は成化帝の行く手を阻むため、移動した。巫士も、汪直と連携して、成化帝の背後に回り込む。
成化帝は汪直と巫士に挟まれ、立ち竦んだ。
二人を逃がすため、太郎左衛門が刀を振り上げ、切り掛かってきた。ひゅっ、と風を切り、太郎左衛門の刀は、弧を描いて振り下ろされた。
この時を狙い、汪直はさらなる武器を、服の中から取り出していた。
胸元に仕掛けられた武器を、一気に引っ張り出した。
取り出したのは、鞭だった。太さは、普通の鞭より数倍も太い。汪直は手にした鞭を、ぶるんと音を立て、振るった。
振るわれた鞭は、汪直の手元で、三本に別れた。三叉鞭である。その三叉鞭を、汪直は身体を一杯に伸ばし、太郎左衛門に向けて振り下ろした。
太郎左衛門は、汪直の鞭を、手にした刀で防ぐ。が、太郎左衛門の顔に、驚愕の表情が浮かんだ。
ただの鞭なら、刀で振り払った瞬間に、ぶっつりと真っ二つに切断できていたはずだ。しかし、汪直の鞭は、切断されず、太郎左衛門の刀に、きりきりと絡み付いていた。
汪直の鞭は、革ではなく、鋼鞭であった。細い鋼線を結い合わせた、特性の鞭だった。ぎりぎりと絡みついた鉄鞭に、太郎左衛門の顔に焦りが浮かぶ。
「見たかっ!」
汪直は、勝利の笑みを浮かべていた。見事に太郎左衛門の動きを止めた今、巫士と毒猿は、皇帝親子に向かって、楽々と攻撃できる。
「太郎左衛門様っ!」
謁見の間に新たな声が響いた。
聞き覚えのある声音に、汪直は首だけ廻して、声の主を探した。
同じように、太郎左衛門も汪直と同じ方向を見ていた。
「アニス……!」
太郎左衛門が叫んだ。
入口近くで金髪の少女が、少年の手を取り、姿を現していた。
アニスと、小七郎だ。
「糞、なぜ今頃になって顔を出す?」
汪直は惑乱しそうになっていた。あらゆる出来事が汪直に対し、牙を剥いてくるようだった。
太郎左衛門を相手するだけで、手一杯なのに、これ以上の問題を抱え込むのは、願い下げだ。
「ぎえ──っ!」
なぜか、毒猿がアニスを見て、大きな口を広げ、牙を剥き出して唸り声を上げた。毒猿の反応に、巫士は慌てていた。
「よせ! やめろっ!」
「どうしたっ? 猿は、どうなっている?」
汪直が問い掛けると、巫士は大きく首を左右に振った。
「判りません。あの娘の姿に、猿めが混乱しているようです!」
「何だと?」
汪直はアニスを見た。
逆立つ金髪に、真っ青な瞳。彫りの深い顔立ちは、怒りに燃えていた。娘の背後に汪直は、もう一つの姿を見て取っていた。
それは、アフラ・マズダの姿であった。




