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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十六章 剣の影
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 坤の死体が、床に長々と仰向けに伸びている。首筋から迸った大量の血液が、床に大きな血溜まりを作っていた。

「坤を殺した……誰よりも忠実な坤を、汪直様が殺した……!」

 部下の一人、離が、汪直にひたっ、と視線を当てながら、呟いていた。

 離は、部下の中でも最も汪直の姿形に似ていて、性格も生き写しといって良かった。離は、常に汪直の計画の先を読み、誰よりも理解しているはずだった。

 しかし、今の離の顔には、汪直の真意が、理解できないという表情があった。

「我らが自求したのは、帝室において権力を握り、一族に栄耀栄華を与える目的であったはずなのに……その明帝室を滅ぼすのが、汪直様の目的だったとは……!」

 いつもは、ほとんど口を開かない震が、今は滔々と自説を述べている。顔は真っ赤で、怒りに両目が燃え上がっていた。

「あの巫士を止めるのだ! 巫士が王族を殺戮するのを止められれば、我らに褒章が期待できるかもしれぬ!」

 坎がさっと、謁見の間を指差し、絶叫した。坎が指差した先に、毒猿を伴った仮面の巫士が、王族や百官を殺害するために走り去って行く後姿が見えた。

「そうだ! 今なら、まだ間に合う!」

 坎の言葉に、乾が賛意を示した。兌も、表情に希望を表した。

「そうは行かんぞ! この日が、明帝室の滅びの日となるのだ!」

 汪直は前へ一歩、ずいっと進み出た。両手には、隠し持った暗器を握り締めている。薄い刃の、曲刀である。刃先には、猛烈な毒が塗られ、ほんの少しの傷でも、即座に絶命する恐るべき武器だ。

 汪直の言葉に、部下たちは全員、さっと散開して、汪直を取り囲むように円を描いた。五人の部下たちの顔には、汪直に対する殺意が、はっきりと見て取れた。

「ほほう……儂に逆らうか?」

「もう、部下でも何でもない! 貴様は、反逆者だ! その反逆者を殺せば、我らは忠臣と讃えられるだろう!」

 兌が、両目に欲望の光を煌かせ、汪直に叫んだ。兌の両目に浮かんだ欲望は、他の四人にも同じように浮かんでいた。

 僅かな身動きで、五人の部下たちは、各々用意した暗器を、手に持っていた。

 毒針、短剣、刃鎖、棒、投げ剣など、どれも必殺の武器であった。

 部下たちの動きを、汪直は倒錯した満足感を持って、眺めていた。まさか、己に反逆するために切磋琢磨したわけではない。とはいえ、結果として汪直は、自分自身と戦う羽目となった。

 ここを、果たして切り抜けられるか……?

 一抹の不安は、あった。だが、すでに巫士は汪直の指示に従い、動き出している。後は結果を見届けられるかどうかが、汪直の唯一の気懸かりだった。

「殺せっ! 殺すのじゃっ! 汪直を殺した者は、妾が褒美をとらす! そうじゃ、西廠の責任者として、新たに任ずるぞ!」

 万貴妃が、新たな希望を顔に表し、口角泡を飛ばして喚いた。

 じりじりと汪直は、有利な位置を探して移動し始めた。汪直を中心に、五人の宦官たちは、同じ距離をとって動き始める。全員、汪直の実力は、完全に把握している。それだけに、軽々に動けないはずだ。

 汪直は素早く、位置関係を見て取った。

 万貴妃の寝椅子が、すぐ近くにあった。

 さっと汪直は床を蹴り、飛び上がった。汪直の出し抜けの行動に、五人の中に、一瞬、空虚な時間が生まれた。

 寝椅子の肘掛けに、汪直は片足を掛け、さらに空中高く飛び上がった。そのまま、くるくると回転し、五人の一角を崩す行動に移った。

 ひゅっ、と汪直の握る刃先が空気を切り裂き、床に再び着地した時は、兌の顔面を切り裂いていた。

 頬に軽く傷跡が走り、兌は、ぱしっと音を立て、頬を押さえた。押さえた頬から、見る見る顔全体に、どす黒く変色が始まった。

「があああっ!」

 喉が潰れるような絶叫を上げ、兌は天井を見上げて、全身を奮わせた。

「糞っ!」

 乾が唇を噛みしめ、決死の表情で汪直に突進してくる。乾の持つ武器は、刃鎖である。細い鉄製の鎖だが、鎖の一つ一つに刃が仕込まれていた。

 もちろん、毒が塗られている。鎖の先端には、錘が繋がれ、乾は手にした鎖を、ぶんぶんと振り回していた。

 どさっと、兌が床に倒れ臥すと、乾は兌の死体を乗り越え、汪直に突撃してくる。すでに五人の連携は、脳裏にないようで、動きはばらばらだった。汪直にとっては、一人一人を相手にすればよい状況になっていた。

 乾は、手にした刃鎖を、真っ向微塵に振り下ろした。刃鎖は、このように振り下ろすものではない。動きは大振りで、汪直にとって躱すのは容易い。普段の訓練は、すっかり乾の頭から抜け落ちているようだった。

 さっと刃鎖を躱した汪直の背後に、万貴妃の寝椅子があった。振り下ろされた刃鎖が、きりきりと万貴妃の首に絡みついていた。

「うぎゃあ──っ!」

 万貴妃が、上半身をぐっと伸び上がらせ、両目を飛び出さんばかりに見開いて、絶叫していた。

 万貴妃の露出した皮膚に、血管が見る見る浮き出て、ぶつっと破裂した。万貴妃は苦痛に全身を震わせ、床にどすんと大きな音を立て落下していた。全身に浮き上がった血管の一本、一本が破裂し、そこから血液が噴出している。

 絶叫し、苦痛に全身をのた打ち、万貴妃は床を転げ回っていた。全身から噴き出す血液で、万貴妃の豪華な衣装は、真っ赤に染まっていた。

「しまった!」

 乾は驚愕に、凍り付いていた。完全に隙だらけである。汪直は素早く近づき、すり抜けざまに、刃を乾の露出した皮膚に食い込ませていた。

 痛みが走ったのかどうか、乾は、ぼんやりと汪直に目を向けた。傷跡に手をやって、もう一度、汪直を見詰めた。

「なぜ……?」

 それだけが、乾の言葉の総てだった。皮膚が見る見る変色し、すとんと両膝を床につくと、乾は俯せになって絶命した。

「なぜだ! なぜ、そんなに、明帝室を滅ぼしたいのだ?」

 震が真っ青な顔色で、汪直に向かって叫んでいた。同じ疑問は、残された坎、離の顔にも浮かんでいる。

 汪直は叫び返した。

「明は、儂の父親の仇だからだ! 明帝国は、理由ともいえぬ理由で、儂の村を襲った。儂の父親は、明帝国の兵士によって殺されたのだ。儂は、父が殺された日に、復讐を誓ったのだ……!」

 汪直の脳裏に、過ぎし日の惨劇が蘇った。

 畑に累々と点在する死体、取りすがって泣き喚く女子供の姿……。記憶が蘇ってくるのと同時に、あの日に覚えた怒りの炎が、新たに汪直の胸を焦がした。

「なぜ儂らが暮らす村が襲われたか? それは避諱の制によるものだった。儂らの暮らす村では、皆、姓は〝シュ〟とのみ呼び合っておった。それが、偶然、皇帝の〝朱〟と音が同じという理由で、明の官兵どもは、姓を変えるよう、強要してきた。が、儂らの村では、漢音は通じぬ。言葉が通じぬ儂らに、官兵は、命令を拒否したと、誤解しおった! 何と言う独断! 言葉が判らぬのが、儂らの罪か?」

 汪直の吐く言葉は、一語一語が、怒りに燃え上がっていた。

 汪直は怯みを見せる三人のど真ん中に飛び込み、両手をぐるんと一周させた。一瞬で、三人は汪直の刃に、身体のあちこちを切り裂かれ、倒れていた。

 三人を倒し、汪直は謁見の間を振り向いた。

 振り向いた汪直は、全力で疾走を始めた。

 眼前に謁見の間で、茫然と為す術もなく立ち竦む成化帝と、朱祐堂の親子の姿が見えていた。

 汪直は親子に向かって、疾走を続けた!

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