二
何が起きているのか?
久忠の監視に残された、汪直の部下の巽と艮。二人のうち巽は、謎の相手により、倒されている。喉仏に突き刺さった細い針が、久忠の眼には、ぎらぎらと光っているように見えた。
巽は死んだのだろうか?
どうも、そう見える。床に仰向けに横たわっている巽は、ぴくりとも動かない。喉仏に刺さっている針の周囲の皮膚は、紫色に変色していた。
致死性の毒かもしれない。
扉近くで身構えている艮は、今は久忠など丸っきり、眼中になさそうだ。見えない敵を捜し求め、ぎょろりと両目を一杯に見開いて、あちこちに鋭く視線を動かしていた。
久忠も、姿勢の許す限り、謎の相手を見定めようと息を詰めていた。
部屋は暗い。天井は高く、壁のかなり高い位置に、明り取りのための小窓が開かれていた。
艮は、天井に相手が潜んでいるものと決め込んでいる様子だ。
しかし巽は、久忠に向かって屈み込んだ姿勢の時に、喉仏を針で突かれている。ならば、敵は床から、攻撃した可能性があった。
じりじりと、艮は位置を変えていた。
艮の表情が、俄かに変化した。何かを決意した表情だ。ぐっと横たわっている久忠に目をやると、さっと近寄り、片膝を床につけた。
手にした短剣を一本、逆手に持ち替え、切っ先を久忠の首筋に当てた。近々と顔を寄せてきた艮の鼻息が荒く、きつい体臭が久忠の鼻を襲った。
艮は切迫した口調で、久忠に向かって早口に話し掛けた。
「巽をやったのは、お前の仲間だろう? 多分、朧とか呼ばれている、あのひょろ長い男に違いない! ならば……」
久忠の首筋に切っ先を押し当てたまま、艮は顔を上げ、怒鳴った。
「出てきやがれ! 朧! 今すぐ姿を現さないと、この倭人を殺す!」
叫んでいる最中、艮は無意識だろうが、久忠の首筋に当てた短刀の、切っ先に力を込めていた。冷やりとした鉄の感触が、厭でも久忠の首筋を刺激した。
かたり──と、微かな音が部屋に響いた。
久忠と艮は、同時に音の方向に目をやっていた。
と、壁の一部が横に滑り、隙間からぬっと、奇妙な顔貌が覗いた。
ひょろ長い禿頭に、ぶらりと下がった巨大な鼻が目立つ。まん丸な目玉に、浅黒い皮膚をしていた。
「呼んだかね?」
珍妙な顔つきの男は、艮と久忠に向かって、ニタリと笑って見せた。巨大な鼻の両側から、唇が笑いの形に、はみ出して見えた。
朧だった!
さっと艮は立ち上がり、朧に向かって手にした短剣を、素早く投げつけた。
朧は短剣を躱し、空中に飛び上がっていた。艮の投げつけた短剣は、かつかつと音を立て、柱に突き刺さっていた。
艮もまた、同時に空中に身を躍らせ、身を捻って新たな武器を手にしていた。
床に降り立った艮は、両手に奇妙な武器を持っていた。両手をすっぽりと覆う、袋のようだが、手の甲の部分から、鋭い鉄棘が伸びていた。
多分、あの鉄棘部分で攻撃するのだ。
朧は、部屋の角部分に身を蹲っている。壁に背を押し付け、完全防御の構えだ。
両腕を折り曲げ、顔の前に拝むような形に突き出している。さらに、膝を折って座り込んでいた。
まるで、嬰児のような姿勢だった。朧の構えは見慣れないものだが、完璧に防御に徹するなら、理に適っていた。
艮は雄叫びを上げ、朧に突撃した。ただ単純に、直線的に突進するのではなく、爪先をぴんと床に伸ばし、手足を伸ばして独楽のように旋回している。両手には、鉄棘が突き出され、全身が凶器となっていた。
朧はぐっと身体を縮め、そのまま真上に飛び上がる。手足を突っ張り、まるで蜘蛛のように、するすると部屋の角を登って行った。
どすん! と艮が壁に激突すると、震動で朧は空中に身を躍らせた。床に飛び降りる直前に身を捻って、右手を口に近付けた。
久忠の位置からは、朧の反撃はよく見えなかった。艮が鋭く身を捻ったので、そうだと察せられるだけだ。
ちーん! と鋭い、金属音が響いた。恰ッ、と軽く音がして、床に銀色の針が突き刺さっていた。
「無駄だ! 俺に、同じ手は効かぬ!」
艮がくるっと振り向き、床に這い蹲った朧に喚いた。
朧は口許に、筒を構えていた。
吹き矢筒に似ているが、長さは短い。あれで毒を塗った針を飛ばしていたのだろう。
這い蹲ったまま、朧は懐から匕首を掴みだした。片手で器用に鞘から抜くと、久忠に向かってポイッと、放り投げた。
逃げ出すなら、自分で面倒を見ろ! というつもりだろう。
久忠は必死になって、放り投げられた匕首を掴もうと、身を捩った。後ろ手に縛られた手の平に、匕首を探る。
掴んだ!
後は何とか、縄目を切るだけだ。久忠は、この作業に没頭した。
艮は全く久忠の動きに一切の目をくれず、ひたっと朧を睨みつけている。ゆっくりと、舞を踊るような動作で、手足を漂うように、動かしていた。
朧もまた、相手を注目したまま、床すれすれの低い姿勢を保って動いている。手足が長い分、まるで蜘蛛だ。
手には、何の武器も持っていない。持たずにいるほうが、勝算があるのか、ないのか、久忠には判断がつかなかった。
両者の距離が、徐々に縮まってゆく。お互い無言で、必殺の気合が、ピリピリと部屋中に充満していた。
一方、久忠の、縄目を切る作業が、遂に報われた!
ぷつっ、と小さく音がして、久忠の手首を縛り上げている縄が、解けた。急いで身を起こすと、足首を縛っている縄を解く。
急速に血行が戻る手足が、じんじんと痺れるような痛みを伝えてきた。酷くきつく縛られたので、手足の先は、鬱血していた。
不意に湧き上がった殺気に、久忠は慌てて朧と艮の対決に目をやった。
艮はくるくると側転のような動きで、身体を旋回させつつ、朧に殺到する。手足に装着された武器がきらきらと鋭く光って、艮の身体は、回転する刃物のようだった。
朧は、這い蹲った姿勢のまま、危うく艮の突撃を避けた。が、艮は側転から身体を捩って、今度は斜めに身体を捻りながら、攻撃を続けていた。
あのように、続けざまに武器を繰り出してくるのでは、匕首ほどの短刀では受けきれない。だから朧は、武器を持たずにいたのだろう。なまじ手に持っていると、動きが制約されるからだ。
ようやく、久忠の手足に、感覚が戻ってきた。久忠は縄目を解いた匕首を、さっと艮に向けて投げつけた。
ぎいーんっ、と鋭い音がして、久忠の投げつけた匕首が弾かれた。
さっと艮は久忠に向かい合い、叫んだ。
「邪魔するでない! 糞、貴様から殺してやる!」
だっと飛び上がり、今度は久忠に向かって得意の旋回動作に移った。
その時、朧が足をくるりっ、と回転させ、艮の足首を蹴った。
艮は足を取られ、だあーんっ、と音を立て、床に身を打ちつけた。
「ぎゃあっ!」
艮の悲鳴が上がった。
苦痛に、艮は身を弓のように反らし、目を見開いていた。後ろに手を回し、何かを必死に抜き取ろうとしている。
艮の表情が俄かに変化し、絶望感が表れていた。顔色が見る見る、紫色に変わり、口からは、ぶくぶくと白い泡を吹いた。
どさっと、艮の身体から力が抜け、俯せに久忠の目の前に倒れ込んだ。
背中に、銀色の針が突き刺さっていた。
艮が倒れ込んだ時、最初に朧が吹きつけ、艮に弾かれた針だった。艮が倒れた時、背中に突き刺さったのだ。
朧は立ち上がり、首を何度も振った。首を振るたび、こきこきと関節が鳴った。
「やれやれ、大騒ぎだな!」
久忠は朧に向かって、叫んだ。
「朧! 生きていたのかっ?」
朧はニヤッと笑い、大袈裟な仕草で、久忠に向かって頭を下げた。
「この通り、生きておる!」




