一
尋問部屋に、遠くから銅鑼の音が、壁を沁みて聞こえてくる。壁に遮られて、はっきりとは聞き取れないが、明らかに儀式が始まる時を、報せている。
身動きが取れない久忠は、じっと全身の筋肉に力を溜めながら、立っている汪直を見上げていた。
これで判った!
なぜ汪直が、がらりと態度を変え、久忠に対して憎悪の感情をぶつけてきたのか、がである。
朧がやったのだ!
紫禁城の宝物殿から〝火槍〟と呼ばれる何か──今のところ、それが武器なのか、何かの器物なのかも判らない──を、盗み取られたらしい。
犯人は朧だと、汪直は断定している。朧が犯人なら、指嗾したのは、久忠だという結論だろう。
では、朧は生きているのだ。しかも、宝物殿から〝火槍〟なる宝物を盗み出すという、快挙を成し遂げている。
あの時──朧が毒にやられ、半死半生の状態で宿に辿り着き、久忠に毒の治療を頼み、その後、失踪した顛末は何だったのだろう。
結論。つまりは、久忠も朧に騙されていたのだ。
そこまで考えが至り、久忠は唇を噛み締めた。
悔しくはある。しかし、孫子の兵法にも、あるではないか。敵を欺くには、味方から、と。
汪直の顔には、焦燥があった。
久忠の初めて見る、汪直の表情だ。これまで汪直とは、数えるほどしか顔を合わせていないが、常に北海の氷山のような、固く、冷厳な眼差しと、真っ直ぐ引き結んだ口許が印象的で、このような焦りの表情は、初めてだった。
久忠には想像もつかないが、汪直の立場は、今、極めて緊迫した局面を迎えているのは、間違いない。
ぎりぎりぎりと、汪直は両拳を握り締め、額には薄っすらと、汗が浮かんでいた。
久忠は、素早く汪直を取り巻く、部下らしき男たちを見やった。
全員が汪直と同じ、藍色の官服を身に着けている。だけではなく、姿形とも、首領の汪直と、六人いる部下たちは、そっくりだった。
無論、僅かの異同はある。とはいえ、じっくりと観察しないと、誰が汪直で、誰が部下かは、俄かには判別できないだろう。
影武者だろうか?
久忠が考え込んでいると、汪直がぎろっと睨んできた。
「こ奴の尋問は、後だ! 儂は、封禅の儀式に出席せねばならぬ! お前と、お前──」
と、汪直は手早く、二人の部下たちを指名した。
「倭人を見張っておれ! 総て終えたら、改めてこ奴に尋問を続ける!」
汪直の部下──一人は最も体格が大きい、もう一人は対照的に小柄だ──は、汪直の命令に、無言で頭を下げた。
状況の変化に、久忠は密かに、脱出の機会が廻ってきたと胸躍らせた。
手足は依然がっちりと捕縛されているが、何しろ、首領の汪直が姿を消すのだ。丸っきり希望がないわけでも、なかろう……。
久忠の胸の動きを見透かしたように、汪直は冷笑を浮かべた。
「逃げようなどと、考えるでないぞ。この二人、艮と──」
汪直は、体格の大きいほうを指差した。小柄なほうを指差し、言葉を続ける。
「巽は、どちらも武芸の達人だ。それも、暗殺術に長けた、儂の秘蔵なのだ。お主が逃げようと、ほんの少しでもジタバタしたら、躊躇いなく、殺す!」
久忠は答える必要もない、と黙っていた。汪直は「ふん!」と頷いた。
「ま、お主にそのような注意を喚起するのは、釈迦に念仏じゃがな! お主なら、二人を一目でも見れば、抵抗が無駄であると、即座に悟るであろうよ……」
背を聳やかし、汪直は四人の部下を引連れ、部屋を出て行った。
慌しく汪直が姿を消すと、部屋には静寂が満ちた。聞こえるのは、間断なく遠くで響く、銅鑼の音のみ。
汪直が指名した艮と巽は、部屋の出入口近くに陣取り、じっと久忠を監視した。
ただ、じっとしているだけではない。時折は身体を揺すったり、足踏みを繰り返したりしている。
動きを止めていると、身体が硬直するからだろう。つまり、一瞬も油断していない。
これは手強い──。久忠は感嘆した。
久忠もまた、武士である。武士は最後の最後まで、諦めを知らない。久忠は床に仰向けになりながらも、必死に脱出の機会を狙っていた。
後ろ手に縛られた両手を、ゆっくりと動かしている。縄目を解こうと、苦闘しているのだ。しかも二人の監視の眼を盗んで。
縄目はきつく縛着されていて、久忠の額にふつふつと大粒の汗が浮かんだ。縄が手首に擦れて、苦痛に蟀谷の血管がどくどくと脈動した。
不意に小柄なほう──巽が久忠に近寄ってきた。
顔を捻じ向け、しげしげと久忠を見下ろした。目に皮肉な色が浮かんでいる。
「ほほお……、汪直様がくれぐれも油断するでないと、儂らにくどいほどに念を押したのは、間違いでないな。この場で、逃げ出そうと、儂らの目を盗むとはな!」
爪先で、巽は無情に久忠の脇腹を蹴った。
蹴りは素早く、打撃は正確だった。久忠は苦痛に、一瞬、頬を膨らませ、必死に声が出るのを堪えた。
もう一度、爪先が襲ってくるので、久忠は身体を半回転させ、巽の痛撃を避けた。ごろりと久忠の姿勢が、俯せになり、解けかけた両手が顕わになる。
「はっ!」と巽が小さく、笑い声を上げた。
「やはり、な! 縄抜けの技を、この倭人、心得ておるわい……艮!」
のしのしと、大柄な部下が近づいた。むっつりと黙り込んで、一切の言葉を発しない。
巽は、艮に命令を下した。
「儂が倭人の縄を縛り直す。良いか、倭人が抵抗の気配を少しでも見せたら……判っておるな?」
艮はむっつりと、頷いた。久忠を見る目には、一切の感情がなく、まるで死んだ魚の目を見るように無表情だ。
俯せのまま、久忠は唇を噛んだ。背中で、巽の指先が動き、縄目をがっちりと、縛り直す気配がする。折角、ここまで努力したのに、総て無駄になった──。
「ぐっ!」
何だろう、今の押し殺した声は。巽の声のように聞こえたが。
続いて大柄な艮の立てる、足音。艮は素早く、身動きをしているように察せられた。
もぞもぞと身体を捻り、久忠は周囲の状況を見届けようと努力した。
狭い部屋の中で、大柄な艮が、天井を見上げ、身構えている。手には、いつの間にか、数本の短刀が握られていた。
艮の見上げている方向を、久忠も見た。だが、何も見つけられない。
横目を使うと、床に、巽が長々と仰向けに横たわっていた。
久忠は見た。
巽の仰向けになった喉仏に、きらりと光る、銀色の針が突き刺さっているのを!




