七
汪直が太郎左衛門を連れ込んだのは、太和殿に幾つか用意されている、空き部屋だった。
本来は、儀式に使用される器物を納めるための部屋なのだろうが、今はがらんと空白になっている。床のあちこちに、物が置かれた跡が、埃の濃淡となって残っているだけだ。
太郎左衛門の両手は、後ろ手に縛り上げられている。足首も縛られ、万が一にも、逃げ出すという失策は、起きようもなかった。
「目を覚まさせろ」
汪直は静かに命令を下す。
部下の一人が、仰向けになった太郎左衛門の顔に、ばしゃっと桶に溜めていた水をぶっ掛けた。
一度だけでは、太郎左衛門の目は閉じられたままで、部下たちは二度、三度と繰り返した。
水が口から気管に入ったのか、倭人は仰向けになったまま、けほけほと咳き込んだ。
何事か呟いたが、倭人の言葉で、汪直には理解できなかった。
太郎左衛門の両目が、ぱちぱちと瞬かれ、やがて、ぱっちりと大きく見開かれた。
上から覗き込んでいる汪直に気付き、歯を剥き出して、唸った。飛び掛ろうと、身を捩る。が、手足が縛られている己の状態に気付き、すぐに足掻きを止めた。
汪直は感心した。
自分の現状を、一瞬にして悟り、無駄な動きを止めるとは、実に的確な判断だ。
「何のつもりだ?」
倭人は汪直に、ひた、と視線を据えたまま、食い縛った歯の間から、軋るような声を上げた。
汪直は胸を張ったまま、静かな声で、太郎左衛門に話し掛けた。
「一つ、質問がある。正直に答えてもらいたい。ま、正直に答えなくとも、良いがな。ただ、だんまりは困るな」
太郎左衛門の、汪直を睨みつける両目が、ますます光を強めた。
汪直は、まるで世間話をするような、平静な口調で質問を口にした。
「火槍は、どこだ? どこに隠した?」
太郎左衛門の眉が、狭められた。表情には、戸惑いが浮かんでいる。
「火槍? それは何だ?」
「ほほう……!」
汪直は、つい感嘆の声を上げてしまった。
「太郎左衛門殿、お主は武技もできるが、腹芸も得意だとは、初耳だな。お主の〝知らぬ〟という口調は、儂がつい、本気にしてしまうほど、堂に入ったものだぞ」
太郎左衛門は、ぶるんと何度も頭を左右に振った。
「だから、拙者は火槍なる言葉を、初めて聞いたのだ。だから、それがどこにあるかと聞かれても、判らぬとしか、答えようもない」
汪直は肩を竦めた。
やれやれ、倭人がこうも惚けるとは、意外だった。演技も実に、真に迫っている。
汪直は腰を落とし、膝を床に突いて、太郎左衛門と目線を合わせた。
「こちらには、すべて判っているのだ。お主らが、紫禁城に、宝物を盗み出す目的を持って姿を現した、とな。多分、宝物殿に忍び込んだのは、お主といつも連んでおった、あのひょろ長い体格の男であろう」
太郎左衛門は、茫然とした表情を浮かべた。
「朧が……? じゃが、朧はお主らの手に掛かって姿を消したぞ。拙者こそ、聞きたい。朧は、どこにおるのじゃ? 無事か?」
汪直の胸に、俄かに疑念が生じた。今まで感じた経験のない、正体不明の不安だった。
部下の一人、巽が、一歩さっと前へ出て、口を開いた。
「私は、この倭人と行動していた〝朧〟なる者の監視を続けておりました。が、数日前から、その者の姿は、監視の眼を逃れております。今も、捜索中で御座います」
「何っ!」
汪直には初耳だった。驚きのあまり、さっと立ち上がり、両手を握り締めた。
報告した巽の顔には、何の表情も浮かんでいない。口調も、時候の挨拶をするように、淡々としたものだった。
汪直の胸に、初めてと言える、後悔の念が湧き上がった。
部下たちには、汪直が納得できる結果が出るまでは、報告を控えさせていた。それだけ部下たちを信頼していたのだが、この場面で裏目に出た!
うおぉぉ──ん……。
壁を通して、前庭からの銅鑼の音が響いてきた。封禅の儀式が、本格的に始まるのだ。
汪直は自己の判断に、確信が持てなくなった。実に、ぎりぎりになった、この瞬間、汪直は初めてといっていい、奇妙な感覚を覚えていた。
その奇妙な感覚を、的確に表す言葉を、汪直は知らなかった。
普通の人間なら、こう言葉に表すだろう。
それは「自信喪失」である、と。




