二
峠を越えると、不意に視界が開け、眼下に盆地がある。山襞に寄り添うように、田畑が広がり、農家が点在していた。村の中央近くに、空堀に、掻き揚げ堤が盛り上がっている。
堤には、広壮な平屋建ての館が鎮座している。屋根は桧皮葺。周囲は木柵で囲まれていた。総白木造りの、涼しげな建物で、どこか寝殿造りを思わせる。
久忠が山道を下って行くと、田畑で農作業をしている村人が顔を挙げ、口々に歓声を上げた。
「若殿様の御帰着じゃ!」「ほんに、あれは小太郎君ではないか……」「あのお顔を見やれ! 黒々と日焼けして、実に武者振りが良いお顔になられた!」
道を歩く久忠に、次々と声が掛けられる。
久忠を「小太郎」と呼ぶのは、父親の忠行が同じ「太郎左衛門」という通称だからである。「若殿」「若君」「小太郎」などと、村の人々は呼びかける。
若い者は、作業している手を止め、道に躍り込むように駈け出すと、久忠と同道し始めた。皆、溢れるような好意と、等分の敬意を顔に表せている。
ただし、久忠と足を並べるのは男どもだけで、娘たちは久忠の顔を認めただけで、皆が顔を赤らめ、目を逸らした。
が、それでもちらちらと、道を歩く久忠の姿を追っている。
「若! いつ御帰参になられた?」
快活な笑顔の若者が、気軽に声を掛ける。久忠も、同じように笑顔になって応じた。
「おう! 今、帰ったわ! 皆、よう元気のようで、目出度い」
「今回は、どの辺りを修行なされた?」
「野州まで足を伸ばした。あの辺りは、古刹が多く、霊場もあちらこちらに点在しておったな……」
久忠の答に、若者たちは一斉に、羨ましげな表情を浮かべる。
「父上は、御変わりないか?」
「無事、息災で御座ります」
久忠が父親の忠行について尋ねると、この時ばかりは若者たちは態度を改めて答える。
実を言うと、今回の帰郷は、父親の忠行からの急な連絡があってだった。久忠は年に何度か、武者修行の旅に出るのが通例で、今回も、予定では遠く、陸奥まで足を伸ばすつもりであった。
が、関東に辿り着いた辺りで、父親からの報せが届き、やむなく予定を切り上げ、帰参したのであった。
この風景だけ目にすれば、父親の愛洲忠行は、地方豪族の長としか思えない。館の周囲に点在する農家が、忠行の領民と目に映るのも無理はない。
しかし愛洲家は、実質は神職の家柄で、忠行は神領奉行を拝命している。
神領奉行になって、すでに五年が経つ。
この神領奉行という役職は、伊勢神宮を管轄する最高責任者である。後の山田奉行と、役職は同じだ。
五年前、伊勢神宮を支配する、山田三方と呼ばれる一族の内紛があり、この内紛を中立的な立場で仲裁した手腕が認められ、神領奉行に就任したのだ。
この時代、武士と、市井の人々の間に、整然とした区別は存在しない。何しろ僧侶ですら、僧兵として、武器を持つ時代である。
百姓でも、己の作物を守るため武装するし、商人も自分の利益を保護するため、槍や弓矢を持って往来を往還する。いや、むしろ、百姓が武士の元々の姿、という時代でもある。
神主が武士の姿をしても、誰も怪しまない。
だから久忠のような神主の総領息子が、武者修行と称して両刀を腰に手挟み、全国を旅するのである。
館の建っている堤の入口前に久忠が到着すると、若者たちは一歩引き下がった。久忠はちょっと振り返り、若者たちに軽く会釈する。
「父上の御用が済んだ後ならば、一献、傾けようではないか?」
若者たちは、どよめくように歓声を上げた。久忠はこの里では、人気者なのである。
「参候! 里中の娘たちも、呼びまするぞ!」
「おうともよ! 小太郎様が臨席なさるとなれば、年頃の娘たちは皆、我も我もと参集するに決まっておるわい!」
「こら! それはお主が狙っておるのじゃろ? 小太郎君にかこつけ、目当ての娘がおるのに、違いないわ!」
「言うな!」
あはははは……と伸びやかに笑う声を背中に、久忠は館への坂道を登っていった。