表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十四章 成化帝
89/105

 倭人は、汪直を怒りの視線で睨んでいた。

 太郎左衛門の怒りの顔つきは、汪直が初めて見る表情だった。歯をきつく食い縛り、全身には、今すぐにも汪直に向かって飛び掛りたいとばかりに、力を一杯に溜め、全身は小刻みに震えていた。

 が、太郎左衛門は軽々に飛び掛りはしないだろう、と汪直は観じきっていた。

 太郎左衛門の位置からでは、汪直との距離は離れすぎている。太和殿で、あれほど見事な武技を見せた太郎左衛門だ。汪直が軽率に距離を詰めるまでは、自制するに違いなかった。

 まだ早い!

 汪直自身、太郎左衛門との手合わせは逡巡するものではないが、まだその時ではない。

「汪直、お主がやったのか?」

 ようやく、太郎左衛門が口火を切った。声は怒りに震えているが、一言一言、切るように鋭い舌鋒だった。

「儂が、何をした、と申すのかな?」

 汪直は、わざとゆっくり、問い返した。

 太郎左衛門が、じりっと汪直に向け、距離を詰めてきたので、汪直はそっと一歩下がり、距離を保つ。

「小七郎だ! 拙者の息子に、何をした?」

「はて?」

 汪直は首を傾げて見せた。小七郎に顔を向け、太郎左衛門に答えた。

「そちらにおわすのは、皇帝陛下の御皇太子君、朱祐堂様で御座るぞ。お主の息子とは、聞こえぬな」

「馬鹿を申せ! 本物の朱祐堂君は……」

 太郎左衛門は絶句した。

 汪直は、にやっと笑って見せた。

「本物の? これは、面妖な。ここにおわすのが、偽物であると申すのか? では、本物の朱祐堂君は、どこにおわすのかな?」

 太郎左衛門の顔に「しまった!」と口にしたそうな、悔恨の表情が浮かんだ。

 ぶるっと顔を左右に振ると、太郎左衛門は一呼吸を置いて、興奮を鎮めたようだ。それまで真っ赤に紅潮した顔が、見る見る蒼白になり、じりじりと汪直との距離を詰めて来る。

 距離を詰めながら、太郎左衛門は汪直への追及をやめなかった。

「ここにいるおるのは、拙者の一人息子、小七郎に間違いない! 汪直、貴様は何か、小七郎に薬を盛ったのであろう。そうでなくては、この小七郎の様子、合点がゆかぬわ! さあ、今すぐ小七郎を元に戻すのだ! 元に戻さねば……」

 汪直は嘲笑った。

「元に戻さねば、どうするというのだ?」

「切る! 貴様を一寸刻みに、切り刻んでくれるわ!」

 とうとう、太郎左衛門の堪忍袋が、ぱっちんと破裂したようだ。倭人はぐっと前傾姿勢になると、汪直に向かって突進してきた。

 全速力で走ると、とーん! と爪先にぐっと力を込め、太郎左衛門の身体が宙に浮かんだ。一気に三間の距離を飛び、汪直の、背丈ほどの高さに飛び上がった。

 汪直は、はっと顔を上げ、身構えた。

 空中に浮かび上がった太郎左衛門が、腰の刀を抜き放った。刀身が明り取りの光を反射し、ぎらっと眩しく光った。

 汪直は刀身の反射に幻惑されぬよう、さっと視線を逸らした。自分も身体を横に倒し、素早くその場を逃れた。

 ひゅっと風を切り、倭人の刀が殺到する。

 しかし倭人の刃の下に、汪直の身体はなかった。

 床に剣先が食い込む寸前、倭人は驚くべき反射神経で、刀身を真横に薙ぎ払った。

 汪直は身を完全に床に仰向け、倭人の刀を直前で避けた。まさにギリギリで、刀の巻き起こした風圧が、汪直の睫をそよがせた。

 ごろごろと床を転がり、汪直は第二撃、第三撃を躱す。

 太郎左衛門の攻撃は容赦なく、汪直の鍛え抜かれた武技がなければ、まず間違いなく、ばっさりと寸断されていた。

 くるくると汪直は目まぐるしく床を回転し、身を捻って起き上がった。起き上がる動作の途中、上着を脱ぐと、袖を掴んで振り回す。

 突進した太郎左衛門は、本能的だろうが、汪直の振り回した上着から、身を反らした。

 反らした後、太郎左衛門はさっと、自分の頬に手を当てた。

 たらり──と、血が一筋、切り傷が太郎左衛門の頬に走っていた。

 汪直は上着を片手に、太郎左衛門に対峙した。

 さすが、武人。汪直の仕掛けた罠には、掛からなかった。汪直の振り回した上着の裾には、薄い剃刀のような、刃物が縫い込まれている。振り回して遠心力を使うと、裾に仕込まれた薄刃は、恐るべき武器となる。

 他にも、汪直の身に着けるものには、様々な武器が隠されていた。

 汪直は持っていた上着の襟に、指先を潜り込ませた。指先が、金属製の輪を探り当て、引っ張ると、するりと目に見えないほど細い鋼線が、引き出された。

 先は小さな錘になっている。錘をぶらりと垂らし、汪直は太郎左衛門に向かって、腰を落とした。

 ぶらーり、ぶらーりと、汪直は鋼線を前後に揺らす。先端につけられた錘が、汪直の手の動きにつれ、前後に揺れた。

 やがて振り回す速度が速くなり、ひゅんひゅんと鋭い風きり音とともに、汪直の手に持った鋼線が、頭の上で円を描いた。

 太郎左衛門は口を真一文字に引き結び、鞘に納めた刀の柄に、再び右手を添えた。

 一目見て、汪直の手に持つ武器の性質を、見抜いたようだった。

 汪直が振り回す細い鋼線は、投げつけるときりきりと身体に巻きつき、巻き付いた場所がもし、首筋だったりすると、振りほどけず、一瞬に、絶息する。

 恐らく、汪直が投げつけた場合、抜き打ちに切断するつもりなのだ。

 しかし汪直は、まだまだ奥の手を隠していた。僅かに太郎左衛門との距離を詰めて、間合いを計った。

 先ほど抜き放った倭人の刀を、目にしている。長さは見て取った。だから汪直は、安全に攻撃できる間合いを、把握していた。

 ここだ!

 汪直の身体が、ぐーっと一直線に伸びた。

 手に持った鋼線が、ぶーんと頭上で半円を描いた。

 太郎左衛門は、襲ってくる汪直の鉄線を切断すべく、鞘から刀身を滑らせ、抜き放った。

 倭人の刀が下から上へ、跳ね上がった。刀身は、見事に汪直の武器を切断するはずだった。

 が、汪直の腕が、さらに伸びていた。

 倭人の目に、僅かに狼狽の色が浮かんだ。

 汪直の上着の袖は、倭人のものに比べ、大きく膨らんでいる。目的は、袖に様々な武器を隠すためだが、もう一つ理由があった。それは、汪直の腕の長さを隠すためだった。

 汪直は袖の中で、ゆるく腕を曲げていた。そのために、本当の汪直の腕の長さは、太郎左衛門の目からは、隠しおおせていた。その分、倭人は間合いの距離を、見誤ったのである。

 鉄線の先の錘が、太郎左衛門が握った刀の柄に、きりきりきりと巻きついていた。反射的に倭人は刀を引いたが、すでに遅かった。

 ぐるんと回転した鉄錘が、倭人の蟀谷を襲っていた。

 びしっと、鋭く音がして、太郎左衛門は鉄錘に蟀谷を痛撃され、がくりっと膝を折った。両目が白目になって、完全に気絶している。

「太郎左衛門っ!」

 叫んだのはアニスだった。

 がばっと身を躍らせ、床に崩れ落ちた太郎左衛門を、庇う姿勢を取った。さっと顔を挙げ、汪直を睨みつけた。

「殺さないでっ!」

 汪直は、はーっと溜めていた息を吐き出し、呼吸を整えた。

 脱いだ上着を拾い上げ、袖を通すと、いつもの姿に戻った。両手を背中に廻し、背を反らしてアニスに答えた。

「殺しはせぬ。少し、その倭人に、問い質すべき事柄があるのじゃ」

 汪直を見上げるアニスの顔に、訝しげな表情が浮かんだ。

「何を?」

 汪直は呟くように答えた。

「火槍について、じゃ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ