四
封禅の儀式が開催され、築山に向かって人々が動いてゆく中、汪直は人並みを掻き分けながら、太和殿の中へと進んで行った。
汪直の歩みは、恐ろしく速い。
万貴妃との会話を、頭の中から一刻も早く、追い出したい気分で、遮二無二、駈ける。
近々と万貴妃に額ずき、洞窟に暮らす獣のような、きつい体臭を嗅いだため、猛烈な吐き気が襲っている。が、この太和殿で吐くわけにいかない。胸一杯、新鮮な空気を吸い込み、必死に平常心を取り戻そうとしていた。
やがて万貴妃の映像を脳裏から叩き出し、汪直はいつもの自分に回復していた。
途中で次々と、八人の部下に声を掛けて行く。
汪直が合図すると、人込みの中から、部下たちが一人、また一人と跳び出して、早足に歩く汪直の周囲を取り囲んだ。
すらりとした体格の巽が汪直の右隣に並ぶと、早口で報告した。
「倭人は汪直殿の予想通り、剣技披露が終わると、太和殿奥へと向かいました!」
汪直は素早く頷くと、左隣に歩く艮に顔を向けた。艮は、八人の部下の仲でも最も巨体を誇る。が、身動きは巨体の持ち主にかかわらず、俊敏だ。
艮は汪直に報告した。
「アニス姫と、小七郎──」
言いかけた艮の報告に、汪直は顔を顰めた。
「小七郎ではない! 朱祐堂君と、申し上げぬか!」
「はっ!」
艮は顔を赤らめた。唇を舐め、報告を続けた。
「申し上げます。アニス姫と、祐堂君は、汪直殿を、太和殿奥でお待ちになられておられます。倭人とは、いずれ、出会うでしょう」
汪直は頷いた。これを待っていたのだ。
太郎左衛門は、二人を目にしたら、じっとはしていられないはずだ。御前披露が終われば、一刻も二人を──特に小七郎に会いたくなるに決まっている!
奥へ、奥へと、汪直は足を急がせた。飛ぶように走るが、ほとんど足音は立てない。滑るような足取りで、影のごとく、ひそひそと走った。
やがて人影は、ほとんど周囲に見えなくなった。皆、前庭で、成化帝の執り行う、封禅の儀式に参加するため出払っているのだ。
汪直は、ぴたりと立ち止まり、耳を澄ませた。汪直が立ち止まると同時に、部下たちも一斉に動きを止め、気配を断った。すべては無言で行われている。
ひたひたと足音が近づいてくる。汪直のごとく、特に足音を消してはいない。
汪直たちは、瞬時に位置を変え、物陰に潜んだ。一切の気配を消し、そこに人がいるとは、誰にも判らないだろう。
外光は、太和殿の奥まで届いて、近づく足音の主の影を映し出している。影が揺らめき、遂に足音の主が姿を現した。
愛洲太郎左衛門であった。口許はきつく引き締まり、眉には決意が漲っている。
普段なら、汪直らの気配に気付くはずだ。今は周囲に気を配る余裕もなさそうで、突進するように先に進んだ。
汪直は物陰に隠れながら、太郎左衛門の後を尾行した。
太郎左衛門は、太和殿の複雑な建物を、無我夢中で進み続けている。歩みは躊躇いがちで、明らかに地の利を得ていない。
その太郎左衛門の歩度が、ゆっくりとなった。
何かに聞き耳を立てていた。
汪直も同時に、太郎左衛門の注意を引いた音に、気付いていた。
人の声だ。
少女の声──アニスだ!
太郎左衛門の口が声もなく開いて「アニス!」と動いた。
倭人の目に、さらなる決意が溢れ、太郎左衛門は一散に走り出した。今度は、完全に目指す方角を得たようだ。
汪直は別の方角に、走り出した。
目の前に壁が迫っている。汪直は壁に激突する寸前、壁の飾りに手をやった。
壁はぱくりと回転して、あっという間に汪直の身体を呑み込んだ。八人の部下たちは、別経路で倭人の後を追っている。
汪直が飛び込んだのは、紫禁城内あちこちに仕掛けられている、隠し通路の一つだ。
城内には、このような隠し通路や部屋が、いたるところに存在する。汪直は、その一つ一つを記憶していた。
曲がりくねった隠し通路を急ぎ、汪直は太郎左衛門の先回りを狙っていた。
汪直の足が止まり、突き当たりに、それとは判らないが、覗き穴が穿たれている。穴が穿たれている向こう側には、上手く装飾が施され、そこに覗き穴があるとは、まず判らない構造になっていた。
覗き穴に、汪直は目を押し当てた。向こう側は、がらんとした部屋になっている。
天井の明り取りから、日差しが床に、白く鋭い光を作り出していた。光に、二人の姿が見えている。
アニスと小七郎だ。
小七郎は、相変わらず、ぼうっ、とした虚ろな表情で、立ち尽くしている。小七郎の姿は彫像のようで、何の感情も汲み取れない。
横に立つアニスは、小七郎の横顔を覗き込み、しきりと話し掛けていた。
「ねえ、小七郎。あたしが判らないの? ね、あんたの名前を言ってみなさいよ!」
小七郎の口が、微かに動いた。小さな声で、アニスに答える。
「わ、私は、朱祐堂……皇帝陛下にあらせられては、御健勝、お喜び申し上げ……」
汪直の教え込んだ台詞を、棒読みしている。
アニスは、じれったそうに、足踏みをした。
「違うったら! あんたは、愛洲小七郎だろっ! ほら、船であたしと、父さんの太郎左衛門と一緒に旅したじゃない?」
小七郎の両手が、もじもじと当て所もなく動いていた。表情に僅かに変化が見られる。
眉が狭まり、唇が噛み締められた。表情は、苦痛に耐えているように、見えた。
「小七郎っ!」
その場を切り裂く絶叫が響き渡り、アニスはぎくりと声の方向に身を捻じ向けた。
背後に日差しを受け、太郎左衛門が立っている。表情は険しく、全身に緊張が溢れていた。
どすどすと荒々しく足音を蹴立て、太郎左衛門は二人に近づいた。
ぐわっ、と両手で小七郎の両肩を掴み、無言で顔を近づけた。小七郎の両目を覗き込んだ太郎左衛門の表情に、さらに険しさが増した。
さっと小七郎の両肩から手を離し、アニスに視線を注ぐ。
「アニス! 小七郎は、どうなったのじゃ? 儂が見るところ、魂が抜けたようじゃ!」
アニスは項垂れ、頭をゆるゆると左右に振った。
「あたしにも、判らないの……何を言っても、自分は皇太子だと言い張るばかりで……」
「むう……!」
太郎左衛門は唸り、もう一度、小七郎に向き直った。
「小七郎。儂が判るか? 父の太郎左衛門じゃ! お主は拙者を、母の仇と思っておるのじゃろう? 母の仇を討ち果たしたくは、ないのか?」
そこまで見届け、汪直はいよいよ、対決の頃合と見計らった。
隠し扉を押し開け、汪直は部屋の中に素早く踏み込んだ。
汪直の気配に、アニス、太郎左衛門が驚愕の表情で、こちらを見ている。
多分、二人の目には、汪直が何もない場所から、突然ぬっと出現したように見えていたはずだ。
「これはこれは……アニス姫、それに素晴らしい剣技を披露してくれた、愛洲太郎左衛門殿で御座いますな? ここで、何用で御座るかな?」
汪直を認めた太郎左衛門の表情に、凄まじい怒りの色が浮かんだ。
「汪直っ! 貴様っ!」
太郎左衛門の怒号が、汪直に向けて放たれた。太郎左衛門の右手は、本能的であろうか、腰の刀に伸びている。
汪直は太郎左衛門に対し、薄笑いを浮かべた。




