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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十四章 成化帝
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 封禅の儀式が開催され、築山に向かって人々が動いてゆく中、汪直は人並みを掻き分けながら、太和殿の中へと進んで行った。

 汪直の歩みは、恐ろしく速い。

 万貴妃との会話を、頭の中から一刻も早く、追い出したい気分で、遮二無二、駈ける。

 近々と万貴妃に額ずき、洞窟に暮らす獣のような、きつい体臭を嗅いだため、猛烈な吐き気が襲っている。が、この太和殿で吐くわけにいかない。胸一杯、新鮮な空気を吸い込み、必死に平常心を取り戻そうとしていた。

 やがて万貴妃の映像を脳裏から叩き出し、汪直はいつもの自分に回復していた。

 途中で次々と、八人の部下に声を掛けて行く。

 汪直が合図すると、人込みの中から、部下たちが一人、また一人と跳び出して、早足に歩く汪直の周囲を取り囲んだ。

 すらりとした体格のソンが汪直の右隣に並ぶと、早口で報告した。

「倭人は汪直殿の予想通り、剣技披露が終わると、太和殿奥へと向かいました!」

 汪直は素早く頷くと、左隣に歩くゴンに顔を向けた。艮は、八人の部下の仲でも最も巨体を誇る。が、身動きは巨体の持ち主にかかわらず、俊敏だ。

 艮は汪直に報告した。

「アニス姫と、小七郎──」

 言いかけた艮の報告に、汪直は顔を顰めた。

「小七郎ではない! 朱祐堂君と、申し上げぬか!」

「はっ!」

 艮は顔を赤らめた。唇を舐め、報告を続けた。

「申し上げます。アニス姫と、祐堂君は、汪直殿を、太和殿奥でお待ちになられておられます。倭人とは、いずれ、出会うでしょう」

 汪直は頷いた。これを待っていたのだ。

 太郎左衛門は、二人を目にしたら、じっとはしていられないはずだ。御前披露が終われば、一刻も二人を──特に小七郎に会いたくなるに決まっている!

 奥へ、奥へと、汪直は足を急がせた。飛ぶように走るが、ほとんど足音は立てない。滑るような足取りで、影のごとく、ひそひそと走った。

 やがて人影は、ほとんど周囲に見えなくなった。皆、前庭で、成化帝の執り行う、封禅の儀式に参加するため出払っているのだ。

 汪直は、ぴたりと立ち止まり、耳を澄ませた。汪直が立ち止まると同時に、部下たちも一斉に動きを止め、気配を断った。すべては無言で行われている。

 ひたひたと足音が近づいてくる。汪直のごとく、特に足音を消してはいない。

 汪直たちは、瞬時に位置を変え、物陰に潜んだ。一切の気配を消し、そこに人がいるとは、誰にも判らないだろう。

 外光は、太和殿の奥まで届いて、近づく足音の主の影を映し出している。影が揺らめき、遂に足音の主が姿を現した。

 愛洲太郎左衛門であった。口許はきつく引き締まり、眉には決意が漲っている。

 普段なら、汪直らの気配に気付くはずだ。今は周囲に気を配る余裕もなさそうで、突進するように先に進んだ。

 汪直は物陰に隠れながら、太郎左衛門の後を尾行した。

 太郎左衛門は、太和殿の複雑な建物を、無我夢中で進み続けている。歩みは躊躇いがちで、明らかに地の利を得ていない。

 その太郎左衛門の歩度が、ゆっくりとなった。

 何かに聞き耳を立てていた。

 汪直も同時に、太郎左衛門の注意を引いた音に、気付いていた。

 人の声だ。

 少女の声──アニスだ!

 太郎左衛門の口が声もなく開いて「アニス!」と動いた。

 倭人の目に、さらなる決意が溢れ、太郎左衛門は一散に走り出した。今度は、完全に目指す方角を得たようだ。

 汪直は別の方角に、走り出した。

 目の前に壁が迫っている。汪直は壁に激突する寸前、壁の飾りに手をやった。

 壁はぱくりと回転して、あっという間に汪直の身体を呑み込んだ。八人の部下たちは、別経路で倭人の後を追っている。

 汪直が飛び込んだのは、紫禁城内あちこちに仕掛けられている、隠し通路の一つだ。

 城内には、このような隠し通路や部屋が、いたるところに存在する。汪直は、その一つ一つを記憶していた。

 曲がりくねった隠し通路を急ぎ、汪直は太郎左衛門の先回りを狙っていた。

 汪直の足が止まり、突き当たりに、それとは判らないが、覗き穴が穿たれている。穴が穿たれている向こう側には、上手く装飾が施され、そこに覗き穴があるとは、まず判らない構造になっていた。

 覗き穴に、汪直は目を押し当てた。向こう側は、がらんとした部屋になっている。

 天井の明り取りから、日差しが床に、白く鋭い光を作り出していた。光に、二人の姿が見えている。

 アニスと小七郎だ。

 小七郎は、相変わらず、ぼうっ、とした虚ろな表情で、立ち尽くしている。小七郎の姿は彫像のようで、何の感情も汲み取れない。

 横に立つアニスは、小七郎の横顔を覗き込み、しきりと話し掛けていた。

「ねえ、小七郎。あたしが判らないの? ね、あんたの名前を言ってみなさいよ!」

 小七郎の口が、微かに動いた。小さな声で、アニスに答える。

「わ、私は、朱祐堂……皇帝陛下にあらせられては、御健勝、お喜び申し上げ……」

 汪直の教え込んだ台詞を、棒読みしている。

 アニスは、じれったそうに、足踏みをした。

「違うったら! あんたは、愛洲小七郎だろっ! ほら、船であたしと、父さんの太郎左衛門と一緒に旅したじゃない?」

 小七郎の両手が、もじもじと当て所もなく動いていた。表情に僅かに変化が見られる。

 眉が狭まり、唇が噛み締められた。表情は、苦痛に耐えているように、見えた。

「小七郎っ!」

 その場を切り裂く絶叫が響き渡り、アニスはぎくりと声の方向に身を捻じ向けた。

 背後に日差しを受け、太郎左衛門が立っている。表情は険しく、全身に緊張が溢れていた。

 どすどすと荒々しく足音を蹴立て、太郎左衛門は二人に近づいた。

 ぐわっ、と両手で小七郎の両肩を掴み、無言で顔を近づけた。小七郎の両目を覗き込んだ太郎左衛門の表情に、さらに険しさが増した。

 さっと小七郎の両肩から手を離し、アニスに視線を注ぐ。

「アニス! 小七郎は、どうなったのじゃ? 儂が見るところ、魂が抜けたようじゃ!」

 アニスは項垂れ、頭をゆるゆると左右に振った。

「あたしにも、判らないの……何を言っても、自分は皇太子だと言い張るばかりで……」

「むう……!」

 太郎左衛門は唸り、もう一度、小七郎に向き直った。

「小七郎。儂が判るか? 父の太郎左衛門じゃ! お主は拙者を、母の仇と思っておるのじゃろう? 母の仇を討ち果たしたくは、ないのか?」

 そこまで見届け、汪直はいよいよ、対決の頃合と見計らった。

 隠し扉を押し開け、汪直は部屋の中に素早く踏み込んだ。

 汪直の気配に、アニス、太郎左衛門が驚愕の表情で、こちらを見ている。

 多分、二人の目には、汪直が何もない場所から、突然ぬっと出現したように見えていたはずだ。

「これはこれは……アニス姫、それに素晴らしい剣技を披露してくれた、愛洲太郎左衛門殿で御座いますな? ここで、何用で御座るかな?」

 汪直を認めた太郎左衛門の表情に、凄まじい怒りの色が浮かんだ。

「汪直っ! 貴様っ!」

 太郎左衛門の怒号が、汪直に向けて放たれた。太郎左衛門の右手は、本能的であろうか、腰の刀に伸びている。

 汪直は太郎左衛門に対し、薄笑いを浮かべた。

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