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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十四章 成化帝
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 太和殿前庭には、気の抜けた静寂が支配していた。

 倭人、愛洲太郎左衛門の披露した技が、あまりに凄すぎたため、百官以下、王族、護衛の兵士たちは、虚脱感すら生じていた。

 これ以上の見物は、あるはずもない……とばかりに、これから始まる退屈な儀式に対して、諦めにも似た、忍従の気持ちが出ていた。

 退屈な儀式とは、封禅を指す。

 汪直は、皮肉な笑みが浮かびそうになるのを、さっきから気を引き締め抑えていた。

 今に見ておれ……貴様たちが、忘れようとしても、決して忘れられない儀式を演出してやる!

 儀典係が、合図の銅鑼を、重々しく鳴らした。太和殿に、銅鑼の音が、陰々と響く。音を切っ掛けに、人々が流れるように動き出した。

 最初に動いたのは、皇帝で、大儀そうに玉座から立ち上がると、周囲に控えていた皇帝直属の宦官に支えられ、よちよちと歩き出した。

 身動きは実に緩慢だった。身分の高い人間は、早くは動かない。いかにも暇を持て余している風を装い、どんな急ぐ時も、緩々とした歩き方を心掛ける。

 しかし皇帝は、本当に身動きが大儀そうで、ほんの一歩を進むだけでも、渾身の力を振り絞っているようだ。まるで糖蜜の中を進むように、両脚を引き摺っている。すでに数歩を進んだ所で、蟀谷からはびっしりと汗が浮き、息が弾んでいた。

 とうとう、がっくりとへたり込み、両脇を抱えている宦官たちに、哀願の表情で訴えかけた。

「もう……歩けぬ……朕は、まだ歩かねばならぬのか?」

 宦官たちは「ははーっ!」と畏まると、大急ぎでお互い相談して、小型の輿を持ち出した。輿を支えるのは、全身筋肉の塊、といった体格の、大男だ。全員、宦官である。

 皇帝の、河馬のように太った尻を、宦官たちは大汗を掻いて輿へ押し上げた。皇帝は、輿に落ち着いて、ようやく大きく溜息を吐いた。

 周りの大男が、輿を担ぎ上げた。

 予定変更であったが、儀式は滞りなく進んで行く。

 汪直は、皇帝の横で剣技を見物していた万貴妃に注目した。

 万貴妃は、剣技を見物している最中も、意地汚く長椅子に身体を横にして、食物を口に運んでいた。そのため、万貴妃の座っている場所の周囲には、夥しい残飯が散らばっていた。

 皇帝に負けず劣らず……いや、倍は太っている万貴妃は、ほとんど通常の歩行は、不可能に近い。さらに、幼い頃に施された纏足の結果、両足先は子供のように萎縮している。纏足のための、専用の履を履いているが、事実上、寝台の上で二六時中暮らしていた。

 皇帝を乗せた輿を見送り、万貴妃は鋭く汪直に視線を動かし、手を微かに動かした。

「来よ!」と命令している。

 汪直は「ははっ! 御前に」と小さく口の中で呟き、ささっと音もなく歩くと、万貴妃の前に跪いた。

「直よ。儀式は、予定通りなのじゃな?」

 万貴妃は、きいきい声で、汪直に問い質した。声の途中に、鞴のような、激しい喘ぎ声が混じる。じっと座っているだけでも、万貴妃の豚のような顔には、たらたらと、大量の汗が噴き出していた。

 汪直は、さらに額を床に擦りつけた。

「はっ! 下問の通り、儀式は順調に進んでおります!」

 淀みなく答えると、万貴妃の細く吊り上がった両目に、貪欲そうな光が浮かんだ。頬が盛り上がり、唇の両端が持ち上がった。薄い唇の間から、茶色い乱杭歯が覗く。

 笑っている。万貴妃は、微笑を浮かべていたのだ。

 万貴妃の微笑を見分けられるのは、汪直だけだ。初対面の人間にとって、万貴妃の微笑は、恐ろしげな、猛獣の威嚇に見える。

「そうか! そうか! それでは、封禅の儀式が終われば、いよいよ……じゃな?」

「いよいよ、で御座います。封禅の儀式が終われば、あの方が皇帝陛下の御前に進み出る予定で御座います」

「そうか! 目出度いのう……。幼き頃、離れ離れになった皇太子殿が、遂に御父上にお目通りになられ、正式な太子宣下をお受けになられる。まさに、これこそ、明帝国を寿ぐ慶事といって良いな!」

 喋っている間、万貴妃の口端には、白く唾液の泡が湧き出した。体格の割りには、小さな両手を、何度も握ったり、開いたりしている。

 万貴妃は、全身で欲望を表現していた。

 権力に対する渇望を!

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