一
時刻は、久忠が紫禁城に姿を見せる、少し以前に戻る。
夜明け前、仄々と明け始めた空に、まだ星が瞬いている頃、数人の護衛を従えたアニスが、汪直の西廠へと案内されてきた。
「汪直! 私に、何用です?」
相変わらず、アニスは汪直に対し、高々とした物言いで問い掛けてくる。汪直は他人目があるので、物腰を低くし、柔らかな口調になって答えた。
「いよいよ今日、皇帝陛下が御臨席になられる、封禅の儀式が開催されます。ついては、アニス姫にも、御出席を賜りますれば、この汪直、幸甚で御座います」
「へー、そうなの!」
アニスはわざと、子供っぽい口調で答えた。汪直は動ぜず、次の一撃を口にした。
「つきましては、こちらのお方と同席して頂きたい」
汪直が合図すると、部下の宦官に連れられ、一人の少年が部屋に入ってきた。少年を目にし、アニスはぎくりと硬直した。
「小七郎っ!」
それまでの態度をかなぐり捨て、小走りになって小七郎に近寄った。小七郎の目を覗き込んだアニスは、顔色を変えた。
小七郎は、アニスが近寄っても、微動だにせず、虚ろな目付きで、宙に視線を遊ばせている。魂が抜けたような、態度であった。
アニスは堪らなくなったのか、ぐいとばかりに小七郎の両手を握り締めた。
「ねえ、どうしたの? あたしよ、アニスよ! 答えて、小七郎っ!」
アニスに両手を握り締められた小七郎は、アニスに揺すぶられ、上体をがくん、がくんと揺らせた。全く意思を持たない、人形のような動きであった。
アニスはさっと汪直に振り向くと、眉をきりりと上げ、詰問する。
「汪直。小七郎に何をしたの?」
汪直は悠然と、アニスに対し答えた。
「先ほどから、小七郎なる名前でお呼び掛けになられておりますが、このお方は小七郎なる者では御座いません。畏れ多くも、皇帝陛下の御子息である、朱祐堂君であられる!」
「何ですって……」
汪直の平然とした答に、アニスは顔色を青褪めさせ、唇を震わせた。
「これには、あなたのお得意の陰謀が見え隠れするわね。すっかり、話すのです!」
ちらっ、と左右に控えている汪直の部下たちに視線をやった。
「もちろん、あなたと二人きりで」
汪直は、ゆっくりと、頷いた。
思ったとおりだ!
この娘は、少々の衝撃では、びくともしない、強さを持ち合わせている。この矜持は、王族に生まれた者のみが持つに、違いない。
「それでは……」
汪直は、さっと軽く手を挙げ、部下たちに合図した。部下たちは、無言で頭を下げ、するすると音もなく部屋から退出していった。部下たちは、部屋にアニスを連れて来たときから一切、言葉を発していない。
二人きりに──いや、小七郎は残された──なった部屋で、アニスは毅然とした態度で汪直に臨み、身近にあった椅子に腰掛けた。
腕組みをし、背を反らせてアニスは汪直を見詰めた。
「さあ、話しなさい! ここにいる小七郎が、朱祐堂様だという、あなたの戯言は、この際、無視しましょう。何を狙っているの?」
汪直は、背筋を反らした。背中で腕を組み、踵に体重を掛けるようにして、アニスに向き合った。
「狙い……か。狙いは確かに、ある! 今上陛下の余命は、もはや風前の灯。これがなにを意味するか、判るかな?」
口調は、がらりと変わっている。もはや、アニスに対し、姫君として敬ってはいない。
アニスは薄笑いを浮かべた。
「もちろん、判るわよ。陛下が逝去あそばされれば、後はあなたが──」
そこまで言い掛け、二人の会話をまるで聞いていない風の小七郎に向き直った。
「それで小七郎を、陛下の御子息なんて、言い出したのね! あなた、まさか陛下の後継に、小七郎を祐堂様と偽るつもり?」
汪直は真面目な表情を作り、真剣にアニスに対し、口を開いた。
「偽るつもりは毛頭ない。予定では、今日の儀式において、封禅の儀式と同時に、陛下は朱祐堂君に、正式な立太子としての宣言をなされるはずだ。その後、祐堂君が儂の助言を受け入れるか否かは、儂の知るあたわずじゃな」
「ふうん」
アニスの顔に、考え深い表情が浮かんだ。汪直の言葉の端々を、咀嚼しているらしい。
「妙ね。汪直、あなた、さっきから、小七郎という名前を口にしていない。祐堂様のお名前を出した時も、小七郎を見ていない。まるで、ここにいない本物の朱祐堂様が、どこかにいて、その居場所を知っているような口振りだわ!」
「まさに、御明察!」
わざと軽い調子で答えると、汪直はぐいっと、アニスに向かって身を乗り出した。汪直の瞳に浮かんだ光に、アニスは怯えた表情を浮かべていた。
「いいか、良く聞くのだ。これから儂が口にする陰謀は、お主と儂だけの秘密じゃ! 儂はいずれ、明帝室の全権を握る! そこにおわす祐堂君──まあ、小七郎と認めても良い──を操ってな! その暁には、お主の一族に全面的に力を貸す! お主は北荻に嫁し、蛮族を教化して、儂のもう一つの力になって貰いたい。お主と儂が力を合わせれば、明帝室など、思いのままとなろう」
アニスは必死に、汪直に抵抗する姿勢を見せた。
「そ……それで、小七郎は、どうなってしまったの……なぜ、小七郎は、あたしを見向きもしない。こんなの、信じられない!」
「小僧など、どうでも良いのだ! あ奴は、今、儂の思いのままに動く。儂が右を向けと命ぜれば、右を向く。左を向けと命ぜれば、左を向く。アニス、お主が何を思っても、今の小七郎には一切、届かぬ!」
一気に喋って、汪直は口調を和らげた。
「なあ、アニス姫。小僧はいずれ、元に戻る。今の小七郎は、確かに本来の小僧ではない。元に戻れば、いずれ小七郎を、お主の下へ遣わそうではないか。北の地で、お主と小七郎は、仲良く暮らせば良い」
アニスは、ぐい、と頭を振った。
「本当に、小七郎を自由にしてくれるの? 祐堂様の身代わりという、あなたの陰謀は、どうなるの?」
汪直は「はっ!」と小さく笑った。
「儂の計画が進めば、皇太子の後継など、必要なくなる。その頃には、明帝室は、今の明帝室ではなくなるだろうよ」
汪直は手を伸ばし、アニスの腕を掴むと、荒々しく椅子から立たせた。アニスは腕を掴まれた瞬間、痛みに顔を顰めたが、気丈にも悲鳴は上げなかった。
「さあ、祐堂君──そうそう、小七郎だったな! 小七郎を連れて、太和殿へ行くが良い。そこで大人しく、儀式を見守っておれ!」
アニスは怒りに、顔を真っ赤に染めていた。それでも何も言わず、小七郎の腕を引き寄せた。
小七郎は、がくり、と倒れ込むように、アニスに近寄った。
「小七郎、行きましょう。きっと、あたしが、あんたを元に戻してあげる!」
アニスと小七郎が部屋を出る後姿を、汪直は満足して見送った。小七郎がアニスを操る鍵だ! 総ては、汪直の計画通り進んでいる。
部屋の隅に、俄かに生じた気配に、汪直は身を捻じった。
いつの間にか、部屋の片隅に、仮面を被った巫士と、毒猿が蹲っていた。
「お主らか。いつ、来た?」
「ずっと、ここでお二人の遣り取りを聞いておりました。実に、興味深いお話でしたな」
仮面の奥から、くぐもった声が聞こえた。汪直は肩を竦めた。
「儂の計画を邪魔する気か? そうではあるまい。お主らは、契約どおり、儂の合図で、本物の皇太子君を亡き者にすれば良いのだ」
巫士は微かに頭を下げた。
「御意のままに」
汪直は念押しした。
「良いか。必ず、人知れず亡き者にするのだ。証拠は一切、残すな!」
「判っております。拙者の育てた、この毒猿に掛かれば、一見、病死のように、見せ掛けられましょう」
汪直は我に帰った。
巫士など、ここにあらず、とばかりに無視して、大股になって部屋を出て行った。
儀式が始まる!




