四
王宮付き宦官たちの案内で、久忠と朱三平たちの一行は、紫禁城奥へと移動した。
案内されながら、久忠は改めて、紫禁城には宦官がうようよ生息しているな、と感慨を新たにした。
実際、紫禁城には、無数の宦官がいる。多くは掃除や、伝言の申し継ぎ役の雑用であるが、皇帝に近い立場の宦官も多い。それら宦官たちを束ねるのが、汪直を筆頭とする西廠である。
宦官がいなければ、紫禁城では何事も動かない。事実上、汪直は宦官を掌握して、強大な権力を握っていると見えた。
奥へ奥へと進むと、最初に案内に立った宦官は、次の宦官へ一行を引き継ぎ、引き下がってしまう。次の宦官が、目的地へ案内するのかと思っていると、これまた次の宦官に申し継ぎをして、姿を消した。
宦官が新たに姿を現すたびに、久忠は宦官の袖に、そっと礼金を握らせなければ、ならなかった。
文字通り、袖の下である。久忠が差し出さなければ、宦官は何事もなく、立ったままでいた。久忠が紙に包んだ礼金を渡して、初めて宦官は一行を案内した。
久忠は内心、城内の腐敗に、腹を立てていた。だが、朱三平と部下の李荘は一切、表情には出さないでいた。態度にも当たり前の手続をしている、とばかりに、いささかも苛立った様子は見せなかった。
ようやく一同は、目的の場所まで辿り着いた。
「おお……!」
久忠と同道していた李荘が、喘ぎ声のような、驚きの声を上げていた。
「これは、凄い!」
一同が案内されたのは、太和殿前庭で、ここは紫禁城内で最も大きな区画であり、歴代皇帝の公式行事が開催される重要な場所だ。
その太和殿の前庭に、新たな建築物が出現していた。まさしく建築物と表現すべきで、封禅のための、築山であった。
直径十間、高さは三丈。土を盛っただけといえるが、これほどの大きさの築山を築くには、膨大な費用と、無数の人足を必要としたに違いない。しかも、封禅の儀式をすると決定してから、日にちは僅かである。
築山の表面は、丹念に突き固め、白漆喰で念入りに仕上げている。純白の表面は、昇る朝日に照らされ、輝いて見えていた。
前庭の所定の場所には、すでに百官が居並び、皇帝の臨席を、じっと待ち受けていた。百官は全員、この日のために豪華な正装を身に纏い、その間を、宦官たちが忙しく立ち働いていた。
さらに目の届く限り、護衛の兵士が完全装備の出で立ちでずらりと整列し、鋭い視線を周囲に配っている。
久忠は、築山に注意を戻した。
築山の中心には、天に生贄を捧げるための台が設え、様々な捧げ物が用意されていた。
儀式が始まれば、生贄の羊が引き立てられ、生き血を迸らせるのだろう。そのための、銀杯が幾つか、台の上で燦然とした光を放っていた。
太和殿の前庭には、緊張が漲っていた。その緊張は、久忠にも痛いほど感じられた。
「愛洲殿!」
久忠は大声に振り向いた。
見ると、魚林軍師範の鄭絽が、人の良い笑顔満面で、立っていた。鄭絽は大股で近づくと、久忠の背後に控えている朱三平の一行に気付いた。
「愛洲殿、そちらの御一行は……?」
久忠は、どう説明するか、迷った。考えてみれば、朱三平については、鄭絽には一言も伝えていなかった。
鄭絽は真っ直ぐ、朱三平の横に立っている李荘を注目している。李荘の堂々たる身体つきに、武人として一目を置いたらしい。
李荘が沈黙を破った。
「拙者、李荘と申す。愛洲殿には、以前から私淑いたしており、色々と御指導も賜って御座る。愛洲殿が今日、陛下の御前で剣技を披露すると聞き及び、是非にも同席したいと厚かましくも、願い出た次第。鄭絽殿ほか、魚林軍の方々には迷惑を掛けませぬので、どうぞ、お許しを願いたい」
慇懃な李荘の態度に、鄭絽は何事かを感じ取ったようだった。お互い武人として、李荘の技量を一目で見抜いたらしい。
「ふむ……宜しかろうと存ずる。お話では、李荘殿も、拙者と同じく愛洲殿の御指導を受けたよし。それならば、拙者と李荘殿は、兄弟弟子と相成る」
つかつかと李荘に近づくと、ぐいと右手を伸ばし、力一杯、肩を叩いた。
「お互い、この日のため、骨を折ろうでは御座らんか?」
李荘は破顔すると、鄭絽の肩を答礼のつもりか、思い切り叩く。
「賛成で御座るな! この日が良き日になるよう、祈るのは拙者も同じで御座る」
鄭絽は李荘から久忠に振り向くと、口を開いた。
「それよりも、愛洲殿。お早く御用意なされよ。陛下御臨席まで、間が御座らんぞ」
久忠は「あっ!」と息を呑んだ。
「それほど時が、迫って御座るか? つい、時の経つのを忘れ申した……!」
鄭絽は両手を振り回すと、急き立てるように先に立って走り出した。
「急がれよ! すでに魚林軍、虎軍、豹軍の全員は、愛洲殿をお待ち申し上げておる!」
久忠は鄭絽に続いて歩き出し、素早く李荘に振り向いた。無言で一つ、頷いてみせる。
李荘もまた、無言で頷いた。
総ては打ち合わせてある。後は、いよいよという時に、李荘が朱三平を守り、父親の成化帝の御前に名乗りを上げる手筈だ。
久忠と鄭絽は、出番を待つため、無言で足を急がせた。ほどなく、魚林軍全員が待つ、控場所へと近づいた。すでに魚林軍全軍は、久忠が指導した通りに整列していた。武装は皆、直刀を腰に吊るしている。
「では」
と短く声を掛けると、鄭絽は所定の位置に立った。久忠も、自分の位置に決まると、遠くから「皇帝陛下御臨席──っ!」と、長々と語尾を伸ばして、声が届いてきた。
じゃーん、じゃーんと銅鑼の音が響き、それを合図に、楽師が儀典のための演奏を開始した。
久忠は儀典の演奏を聴くのは、初めてだが、何となく「雅楽に似ているな」と思った。
もっとも、日本の雅楽は、遣唐使、遣隋使らが持ち帰った大陸の音楽が基になっているから、似ているのも当たり前だが。
遂に儀式が始まった。
どーん、どーんと腹に響く太鼓の音が聞こえ、久忠を先頭に、魚林軍が動き出した。
会場である太和殿前庭には、ぴーんと張り詰めた静寂が支配していた。
百官は身動きもせずに立ち尽くし、折からの風で、衛兵たちが構えている槍の穂先につけられている目印の旗が、風に煽られて、はたはたと翻っていた。
決められた歩数で、魚林軍は前庭に進み出て、太鼓の合図で足を止めた。止めた場所が成化帝の正面だった。
成化帝は、このために設えられた玉座に座り、じっと身動きもせずこちらを見ていた。手には杓を持ち、頭には竜顔を隠す直垂がついた冠を被っている。身を包むのは、目にも鮮やかな黄色の玉服で、遠目に見る成化帝は、皇帝に相応しい威厳を放っていた。
皇帝の脇に、汪直が静かに控えている。
その隣に、驚くほど巨大な肉塊が、寝台のような長椅子に横になっているのが見えた。
あれは、皇帝の第一夫人である万貴妃であろうか?
久忠は一瞬にして、それらの位置関係を見て取っていたが、視線は王族に向かわず、王族から離れた一角に向かっていた。
そこにいたのは──金髪を風に靡かせている一人の少女──間違いない!
アニスだ!
しかも、アニスの横には、見間違いようもなく、息子の小七郎の姿があった!




