三
遂に、この日が来た!
久忠は宿の正面からの物音に、寝台から跳ね起きた。窓に身を乗り出すと、階下を覗き込む。
眼下の正面出入口に、紫禁城からの馬車が停車している光景が見えた。馬車の背後には多数の随員が控えていた。
物見高い町の人々は「何事が起きた?」と、早くも宿の周囲に集まっている。宿の主人は寝惚け眼で起きてきて、その光景に仰け反って驚きを顕わにしていた。
「愛洲太郎左衛門殿は、御在宅かな?」
堂々たる官服を身に纏った使者が、高々とした物言いで、主人に問い掛けた。主人は反射的に二階を見上げた。
主人の視線を追って、使者が見上げ、久忠と視線が合った。
「其方が愛洲太郎左衛門であるな! 至急、陛下の御前に伺候するよう、命じられておるはず! 一刻も愚図愚図はしては、おられんぞ!」
使者は顔を口一杯にして、喚いた。
本来なら、このように他人目も憚らず、大声を上げるなど、君子として自他共に称している使者の態度ではないのだが、さすがに皇帝陛下御前の行事とあって、興奮しているのだろう。
久忠は、とっくに着替えを済ませていた。無言で使者に頷くと、とっとと階段を降りて行き、正面出入口に足を運んだ。
「さ、お早く、お乗りなされよ!」
久忠が見上げると、早朝の朝日を受け、使者の顔は、赤々として見えた。それは朝日の光だけでなく、興奮のためでもあった。
「しからば、御免!」
呟くように答えると、久忠はさっと馬車に乗り込み、使者の隣に席を取った。
茫然として見上げている宿屋の主人に、久忠は頷いて見せた。使者は苛立ったように、御者に向かって「早く出せ!」と命じた。
ぴしり! と空中で御者が鞭を鳴らすと、三頭の馬が一斉に嘶き、馬車は動き出した。
宿の前に集まって見物の町人たちは、全員が呆気に取られて、眼前の光景を見送っている。
使者は真っ直ぐ前を見て、固い表情を久忠に見せていた。馬車に乗るよう、久忠を促して以来、一切、話しかけようとはしなかった。
多分、倭人と同席する状況は、官吏の身分である使者にとって、大いに迷惑なのかもしれなかった。
漢人のこのような態度は、久忠にとって御馴染みだった。庶民はどうであれ、明の官吏は、常に身分の上下を意識しているようだった。もっとも、久忠には、いずれ故国へ帰る身であるから、関係はなかったが。
本当なら、このように馬車で城内へ向かうより、歩いたほうが久忠は好みだった。歩いても、それほどの距離ではない。が、正式な行事に列席するのであるから、我慢しなくてはならない。
使者の頑なな沈黙に耐えていると、ようやく久忠の視界に紫禁城の南門が見えてきた。
門を固めている衛兵は、馬車が近づくとさっと両側に離れ、使者に対し恭しく頭を下げた。使者は完全に衛兵を無視し、馬車を通過させた。
城内に入ると、ちらちらと使者が久忠を見やっているのに気付いた。
使者の視線に、非難の色が浮かんでいた。何か落ち度でもあったのかと、久忠は使者に向かい、口を開いた。
「いかがなされた? 拙者の身支度に、何か落ち度が御座るか?」
「いや……」
と使者は、慌てて顔を背けた。使者の視線は、久忠の足下に注がれているようだった。
久忠は自分の足先を改めた。
この日のため、久忠は白絹の草履を履いていた。足下はこれまた、白絹を奢った足袋である。通常の場合であれば、これは、かなり贅沢な身ごなしといえた。
ああ……! と久忠は納得した。
漢人が久忠の足下で、まず注目するのは、草履でも、草鞋でも、鼻緒であった。
明国、朝鮮どちらも、人々は鼻緒のある履物を使わない。日本人が履く、鼻緒のある履物は、この大陸に人々にとって、極めて奇異に映るらしかった。
かつて日本の宮廷が、遣唐使を遣わした頃は、当時の官吏と同じような服装に身を固めていたと、聞いている。遣唐使たちは、漢語を口にし、姿も漢人と同じであったから、今のような違和感は相手に与えなかったであろう。
が、久忠は日本の武士であった。
武士ならば、武士の姿でいるべきだと、久忠は思っていた。今さら、明の官吏と同じような服装にするのは、見苦しすぎる。
馬車が停まり、久忠は使者に礼を述べて、降りた。使者は報告のために、随員を従えて城内に去った。
南門で、久忠は待った。
門の向こうの大通りを、煌びやかな軍装に身を固めた一団が列を作って接近してくる。
全員、揃いの武器、防具に身を固めていた。門を守る衛兵は、一団を認め、さっと手にした槍を構え、詰問する。
「止まれっ! お主らは、何者であるか?」
久忠は急いで南門に向かうと、衛兵に向かって叫んだ。
「待たれよ! 拙者の随員で御座る。御使者とは、別に出立したゆえ、このように遅れて拙者が待っておった。是非とも、門を通過させて貰いたい」
「あなたの?」
衛兵たちは、疑わしそうな表情になって、久忠に問い掛けた。久忠は熱心に頷き、弁護した。
「左様。拙者の御前披露には、どうしても必要な人員で御座る。それとも、衛士殿には、拙者の随員を、ここで足止めなさるおつもりかな?」
改まって問い掛けられ、衛兵の二人は一様に、逡巡を浮かべた。どぎまぎとした様子で視線を逸らし、お互い、ひそひそ声で相談を重ねた。
「どうする……?」
「この倭人、陛下の御前に……」
「あの随員と称する連中……」
「しかし、拙者が責任を問われるのは……」
中々結論が出ないので、久忠の苛立ちは募った。
もちろん、軍装に身を固めたのは、朱三平と、その部下たちである。城内を通過させるための方便であった。
しかし、衛兵がこのような態度に出るとは、意外だった。
忍びやかな足音が近づき、そちらを久忠が見ると、藍色の官服が目に入った。汪直だった。
相変わらず汪直は、冷然とした態度を崩さず、両手を後ろ手にしたまま接近してくる。
「何事かな?」
少年のような甲高い声で、衛兵に質問した。二人の衛兵は、汪直の姿を見て、さっと背筋を伸ばし報告を開始した。
「この倭人が、城内に、あれに控えます随員たちを入れろと、要求しておりまして……」
右側のやや年嵩の衛兵が、顔にびっしりと汗を浮かし、こちこちになって汪直に報告をしていた。
「ふむ。愛洲殿の、随員とな?」
汪直は立ち止まり、門からぎろっと、鋭い目付きで大通りを眺めた。
軍装に身を固めた一団の前列で直立しているのは、李荘だった。李荘は汪直の視線を、身動きもせずに受け止め、耐えていた。表情を一切変えずにいるとは、さすがに武人だけはある。
「なるほど。良いだろう」
汪直の顔に、うっすらと皮肉な笑みが浮かんでいた。
「通してやるように。責任は、儂がとる」
衛兵は、責任を汪直に追い被せるとばかりに、明らかにほっとした様子を見せた。横柄に李荘たちに合図して、構えを解いた。
足並みを揃え、李荘たちが南門を通過する。一団の最後に、朱三平が皆と同じ軍装に身を固め、久忠の前を歩いていった。三平は、久忠の目の前を通過する時、微かに会釈を見せた。
一団が入城して、久忠は汪直に向き直った。
「これは……汪直殿の手を煩わせ、恐縮至極で御座る」
「何。あれもこれも、剣技御前披露を成功させるためで御座る。愛洲殿には、何卒、陛下の御前で、素晴らしき剣技を披露して頂きたいと、お願い申し上げる」
汪直は、さらりと久忠に挨拶すると、何事もなかったように背を向け、去って行った。
久忠は汪直の背中を見送り、不可解な思いに駆られていた。通り一遍の挨拶のように思われるが、汪直の言葉には含みがあった。
李荘が憤然とした調子で、久忠に向かって囁いた。
「あの宦官め。何を企んでおる?」
李荘の疑問は、久忠の疑問でもあった。




