二
夕暮れ前に雨は上がり、久忠は紫禁城から城下の宿へ、足を急がせていた。北京の街路は、少々の雨くらいでは泥濘は生じず、久忠の足下は、しっかりとしていた。
自分の足下を見て、久忠は「宿へ戻ったら草鞋を綯う必要があるな」と考えた。
日本を出て、明に渡って以来、久忠は自分の草鞋を、自分で綯うようにしていた。こちらでも草鞋はあるが、どうも日本で使っていたような履き心地ではなく、久忠は宿で暇を見つけては用意していた。漢人が使う草鞋には、鼻緒がないのだ。
この時代、久忠のような旅の武芸者は、草鞋一つさえ自分で綯える技を持ち合わせなければ、修行などできない。
それにしても、気懸かりなのは、あの場で久忠を睨みつけていた汪直の視線だ。汪直の視線には、久忠に対する歴然とした殺意すら、感じた。
今まで汪直が久忠に対する態度には、冷ややかな好奇の視線しか、感じなかった。久忠をただ、己の道具としてどう、利用するか、冷然とした打算しか、汪直の視線には現われていなかった。
しかし、鍛錬場で久忠を睨みつけてきた汪直の視線は、これまでの態度をかなぐり捨てた憎しみすら存在した。
何があったのか?
久忠には、まるっきり、思い当たる節はなかった。
紫禁城に度々、出掛けるのも、魚林軍兵士たちに、剣技を教授するためだけだったし、懸案の、城内から宝物を盗み出すという使命も、どう果たせば良いか、まったくの五里霧中でもあった。
鍛錬場から、少しでも別の場所へ移動しようとすると、あらゆる箇所に監視の眼が光っていたし、忍びの心得のない久忠にとっては、完全にお手上げの状態だった。
今も監視の眼は、久忠に張り付いている。
紫禁城を出て、すぐに、久忠は背後に尾行する影を感じていた。影は入れ替わり、立ち代わり、久忠を尾行していた。これは毎日であり、久忠はすでに慣れっこになっていた。恐らく、汪直の指示だろう。
宿へ向かう久忠は、途中で見知り合いの顔を、大通りで目にした。人群れの中、頭一つ突き出て、まっしぐらにこちらへ向かって来る男がいた。男は久忠を認めると、真っ白な歯を見せ、破願する。
久忠へ足早に近づくと、立ち止まり、一礼をした。
「この頃合なら、愛洲殿と出会えるのではないかと考え、出向いたので御座るが、上手く出会えましたな!」
久忠は相手に向かって、口を開いた。
「李荘殿! わざわざの出迎え、いたみいり申す。使いをよこせば、拙者から出向き申し上げたのに……」
李荘と呼ばれた男は、朱三平──皇太子──を守る、忠実な部下であった。久忠が朱三平を、毒から快癒させた縁で、しばしば会うようになっている。
李荘は久忠の言葉に、僅かに顔を顰めて見せた。
「それが……拙者の気の遣いすぎかもしれぬが、ちらほらと監視の眼を感じるので御座る。従って、他人目につく使者を出すのを控え、こうして拙者が足を運んだ次第」
久忠は李荘の言葉に、頷いた。
「なるほど。監視の目に付いては、杞憂とも思われませぬな。拙者にも、それらしき影が付き纏っております」
李荘は久忠の言葉に、大きく目を見開いた。
「愛洲殿にも、で御座るか!」
久忠は周囲を見回し、李荘を促した。
「立ち止まって話を続けるのは、あまりに無用心で御座ろう。歩きながら続きをいたそうではないか?」
「賛成で御座るな!」
李荘は快諾し、さっさと久忠の前へ身体を運ぶと、大股で歩き出した。久忠は早足になって、李荘と肩を並べた。
「先ほどの監視、で御座るが。李荘殿は、その監視の手を伸ばしているのは、誰だとお考えで御座る?」
李荘の頬が、仄かに紅潮した。
「決まっておる! あの、陰謀に長けた、汪直の奴じゃ!」
久忠は、吐き捨てるような李荘の言葉に、大いに同意した。
「拙者も同じ意見で御座る。李荘殿も御存知であろうが、拙者は現在、紫禁城において、魚林軍に対し、演武を指導いたしておる。目的は、皇帝陛下の御前にて、剣の技を披露するためで御座る。その日にちが、あと数日に迫っておるため、汪直は一刻も我らから目を離さぬ気構えで御座ろう」
李荘は「ふん!」と大きく鼻を鳴らした。
「尾行でも何でも、勝手にするが良いわ! しかし、監視の眼は確かに感じるのだが、何をするでもなく、しつっこく纏わりつくだけなのが、鬱陶しい……。汪直め、何を考えておるのやら……」
久忠は李荘の顔を見上げ、話題を変えた。
「李荘殿。それより皇──いや、三平殿の御様子は、いかがで?」
「皇太子」と言いかけるのを、慌てて三平と言い直した。
「三平殿は、愛洲殿のお薬が効いて、健やかな御様子で御座る。この分では、必ずや、愛洲殿の手引きで、城内に戻れる目算がつき申し上げる」
久忠は李荘の言葉に、頷いた。もう一つの計画が、皇帝の御前に、皇太子を密かに列席させ、皇太子としての正式な宣下を受けさせようという計画だった。
李荘がわざわざ出向いた理由は、その打ち合わせのためだろう。
久忠は通りの引っ込んだ場所にある、酒場を選んで李荘を誘い、向かい合わせになって当日の手順を話し合った。
「いや、本日は愛洲殿に会えて、有意義であった。これで拙者の憂悶も、癒え申した」
打ち合わせの最後に、李荘は顔を綻ばせ、久忠に向かって頭を下げた。久忠は慌てて両手を挙げ、李荘の辞儀を謝した。
「そのような改まった礼をされると、拙者は困惑する! どうぞ、お手を上げられよ!」
「いや……」
李荘は真剣な目つきになった。
「愛洲殿には、いくら礼を申し上げても、尽きぬ恩が御座る。この場で、愛洲殿に約束申し上げる。三平殿が、正式な名乗りを上げられた暁には、愛洲殿が望まれるなら、どのような礼でもいたそうではないか!」
久忠の頭に、閃くものがあった。
これで、もう一つの懸案も片付くのではないか?
「実は、拙者が明国へ参ったのは、ある使命が御座った……」
と前置きして、久忠は秘中の秘を明かす決意をした。久忠の言葉に、李荘は一つ一つ、頷いて見せた。
「──というわけで御座る。厚かましい願いではあるが、聞き届けていただけないか?」
久忠の懇願に、李荘は頼もしく頷いた。
「宜しかろう! 宮中の宝物一つくらい、愛洲殿がしてくれた恩に比べれば、安いもの。三平殿も必ずや、快諾されるに違いない!」
卓を挟んで、久忠と李荘は、がっちりと手を握り合った。
久忠は李荘に向かい、力強く宣言した。
「必ずや、三平殿を、本来の地位へお戻し申し上げる!」
「有り難い! 愛洲殿のお言葉、拙者百万力の気持ちで御座る!」
久忠は、晴々とした気分になっていた。




