一
紫禁城を守備する、魚林軍兵士専用の鍛錬場には、雨が降り続いていた。
それほど強い雨ではなかった。しとしとと、間断なく降り続いているが、久忠が兵士たちに剣技を教授する邪魔には全くならない。
「良いか? 昨日の教授した箇所まで、繰り返す。右に剣先を撥ね上げ、返す勢いで真正面に振り下ろす。が、決して、剣先を地面につけてはならぬ! さ、やれ!」
声を嗄らし、久忠は全員に向かって命令した。久忠の目の前で、魚林軍兵士たちは、一斉に青竜刀を振り上げ、振り下ろす。
が、魚林軍兵士たちの動きは揃っておらず、剣先の動きもてんでん、ばらばらだった。
兵士たちを見守る久忠は、眉を寄せて考え込んだ。
動きがばらばらなのは、魚林軍虎軍において、特に顕著だった。
魚林軍は、虎軍と豹軍に分かれていた。虎軍は男だけで、豹軍は女兵士だけで構成されている。豹軍兵士が女だけで構成されている理由は、後宮を守備範囲としているからだ。虎軍に比べ、豹軍兵士の動きは、まだしも、であった。
やはり、剣が原因ではないか? と、久忠は考えを巡らせた。
虎軍兵士たちの持つ剣は、重い青竜刀である。日本刀に比べても、倍近く重量がある。豹軍の持つ剣は軽い。刀身が真っ直ぐな、直刀と呼ばれる形だ。片手持ちを念頭に造られているから、重量も日本刀と同じくらいだ。
久忠が考え込んでいるのを見て取ったのか、魚林軍虎軍師範の鄭絽が早足で近づき、話し掛けてきた。
「愛洲殿、何をお考えで?」
久忠は鄭絽に顔を向けた。鄭絽は開けっ広げな笑顔になっている。人柄の良さが、そのまま表情に表れ、久忠の緊張した気分を解してくれた。
「いや……」
言い淀み、やはり鄭絽に相談するべきかと、思い直した。
「鄭絽殿。この際、申し上げる。拙者、虎軍と、豹軍の兵士たちが持つ、得物を統一すべきと考えておる」
鄭絽の顔には、感情は表れない。ただ、ぐいっと両方の眉を上げて見せただけだった。
「武器の統一、で御座るか? しかし、豹軍の女兵士には、青竜刀は無理で御座ろう」
久忠は急いで、鄭絽の言葉を否定した。
「あいや! 拙者の提案は、逆で御座る。虎軍が、豹軍の直刀を持つべきだ、と考えておるので御座る」
鄭絽の口が、ぽかりと丸く開いた。両目には、信じられないという色が浮かんでいる。
「お、女の得物を、我らが手にすべきと、貴殿はお考えで?」
口にして、鄭絽の顔色が見る見る真っ赤に染まった。
久忠は鄭絽に向かって、重々しく頷いた。
「左様。鄭絽殿はどう、お考えか?」
「うーむ……」
鄭絽は久忠の質問には答えず、ただ唸り声を上げるだけだった。くるりと虎軍兵士たちを見やり、呟くように答えた。
「虎軍兵士たちは、嫌がるで御座いましょうな……。後宮を守るため、女兵士たちが存在するのも、面白くなく思っておる連中も御座る。本来なら、紫禁城総て、虎軍兵士で守るべきと考える部下もおりますゆえ」
久忠は必死になった。
「しかし、豹軍の持つ直刀を使わねば、虎軍兵士たちは、拙者の教授する剣技を陛下の御前にて披露するのは無理で御座る! 御前披露まで、日にちが迫っておる。是非とも、拙者の提案を受け入れて頂きたい!」
久忠と鄭絽が立ち話を続けているので、兵士たちは動作を止めてしまった。
二人の話し声は、虎軍兵士たちの耳にも入っていたのだろう。前列兵士のうち、久忠が才能ありと目を着けている兵士が、険悪な表情になって睨み据えていた。
「拙者の聞き間違いでは、御座らんかな? 何やら、虎軍に豹軍の得物を持たせようという相談に聞こえましたが!」
久忠と目が合って、件の兵士が口を開いた。口調には、挑発的な響きが滲んでいた。
鄭絽が兵士に向かって、叫んだ。
「貴様、何を申しておるのか? 愛洲殿は我が軍の師であるぞ! 師に対し、無礼であろう!」
叱られて兵士は口を噤んだが、目には反抗的な炎が燃えていた。久忠は、ここは一計を案じるべきだと判断した。
「待たれよ! まずは拙者が話そう……お主ら、なぜ、豹軍の得物を手にするのが厭なのか、教えてもらえぬか?」
久忠に問い掛けられ、兵士はいかにも軽蔑したように、そっぽを向き、口の端を歪めて言い放った。
「女の得物など、使えるものか!」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
それまで黙っていた豹軍を率いる、紅三女が怒りの表情で、ずいっと前へ進み出た。
「さっきから黙って聞いていれば、勝手な理屈ばっかりじゃない? 豹軍の刀が、何が悪いの? 仰いな!」
男女の別はあるが、豹軍師範、紅三女は形式上、上官になる。兵士は膨れっ面になったが、言い返せずに押し黙った。
久忠はここが肝心と、声を張り上げた。
「青竜刀では、一致揃った演武を陛下にお見せするのは、不可能である! 直刀なら、自由自在に扱えるのは歴然! それとも、貴殿らは陛下に対し、未熟な技をお見せするつもりなのか?」
虎軍兵士たちの目には、不信感が溢れていた。久忠は、兵士たちの不審を拭わねばならぬと、覚悟を決めた。
「では、証拠を見せよう! その直刀を拙者に一振り、所望いたす」
紅三女が、腰に吊るした直刀を外すと、久忠に無言で差し出した。一礼して、久忠は鞘を払うと、身構えた。
鍛錬場内側の壁には、ぐるりと場内を取り巻くように、休憩所の雨避けが設けられている。つかつかと久忠は屋根の下に歩くと、雨樋を内側から見上げた。
雨樋からは、降り注ぐ雨に、ぽたぽたと水滴が滴っていた。滴る雨水を見上げ、久忠は宣言した。
「良いか? 拙者は、この直刀を使って、雨樋から滴る水滴を三度、切って進ぜよう。良く、見届けよ!」
ぐいっと、久忠は着物の袖で刀身に残った水滴を拭った。手に持った直刀は、日本刀とほぼ同じ重量だった。これなら扱えると、久忠は内心、安堵していた。
腰を落とし、雨どいを注視する。
気息を整え、雑念を消し去り、無念無想の境地を自分に課した。修行の成果か、こちらを注目する兵士たちの視線はすぐに気にならなくなり、雨樋から滴る水滴だけに精神を集中させた。
「……!」
一瞬の内に、久忠の全身が発条のように弾け、手にした直刀を三度、閃かせていた。
きらっ! きらっ! きらっと、三閃した刀身に、久忠は手応えを感じていた。
「見たかっ?」
顔を上げると、兵士たちの顔に、驚愕の表情が浮かんでいた。
確かに久忠の刀は、滴り落ちる水滴を三度、切っていた。兵士たちも、長年の訓練を受け、久忠の技を見届ける眼力を涵養している。久忠の手練に、全員、茫然となっていた。
「同じ技を、青竜刀でできるものか、拙者に教えてもらいたい!」
久忠の挑戦に、虎軍兵士たちは目を伏せ、答えなかった。が、それでも先ほど久忠に口答えした兵士が、口許をぐっと引き締め、決意の表情で一歩、前へ進み出た。
「拙者が倭人の挑戦を受けて見せよう!」
久忠が改めて兵士の体格を見ると、筋骨逞しい壮漢である。自信があるのだろう、のしのしと歩いてくると、久忠と同じく、庇の下に陣取った。
険しい顔つきで、雨樋を睨み据える。
「うおりゃーっ!」
雄叫びを上げ、手にした青竜刀を力任せにブン廻した。
一閃目、確かに兵士の青竜刀は、滴り落ちる水滴を捉えていた! 返す刀で二閃する。
「うおっ!」
兵士は青竜刀の重みに、ぐらりっ、と上体をぐらつかせた。足下は泥で汚れている。ずるりっ、と兵士は泥に足を取られ、ずっでんどう、とばかりに、尻餅をついてしまった。
転倒の格好があまりに滑稽で、見守る兵士たちから、どっとばかりに爆笑が上がっていた。尻餅をついた兵士は、決まり悪そうに、のろのろと立ち上がり、列に戻った。
師範の鄭絽は、笑わず、苦い顔になっていた。
久忠に向かい、頷くと口を開いた。
「確かに、愛洲殿の仰るとおり、我が虎軍の青竜刀では、剣技を習得するのは、難しう、御座るな……」
ちらっと鄭絽は紅三女を見やった。
「判り申した! 豹軍と同じ、直刀を採用いたそう!」
鄭絽の宣言に、兵士たちは全員が諦めたように、肩を落とした。鄭絽は胸を張り、全員に向かって、声を張り上げた。
「皆、承知だろうな? 今日より我が軍は、全員、直刀を制式といたす!」
兵士たちは、はっ、と顔を挙げ「諾!」と一斉に声を揃えた。
久忠は内心、胸を撫で下ろしていた。
鍛錬場を眺める久忠の視線が、出入口近くに集中した。
藍色の官服を身に纏った、痩身の男がじっと、立っている。
汪直だ!
久忠を一心に睨み据えている。汪直の、久忠に向ける視線には、燃えるような怒りが迸っていた。




