八
汪直は意気揚々と、宝物殿に足を運んだ。背後には、八人の部下がつき従っている。列の殿には、例の文書頭が卑屈な様子で、おどおどと歩いていた。
宝物殿入口に近づくと、過日、汪直を追い払った番兵が、ふんぞり返って出迎えた。汪直の顔を覚えていたらしく、表情に「おや?」とばかりに、微かな疑念が浮かんだ。
「お役目、ご苦労!」
汪直が声を掛けると、番兵は眉を顰め、手にした槍を持ち直した。
「なんじゃ、お主は。また来たのか!」
「左様、お役目により、再び参上仕った。以前、貴殿は、正式な命令書があれば、宝物殿に儂を迎え入れると申したな」
汪直は、わざとらしい丁寧さを装って話し掛けた。番兵は虚勢を張って、背筋を反らす。
「いかにも、正式な命令があれば、と申したが……まさか、お主……」
語尾は頼りなげに、呟きに変わった。
汪直は懐から、巻物を取り出し、麗々しく番兵の目の前に広げた。
「これを、双つの眼をよくひん剥いて、しっかと見るのじゃ! 正式な宝物殿への、立ち入りを許可する陛下の命令じゃ!」
番兵の顔が真赤になり、次いで、真っ青になった。
汪直の掲げた命令書には、皇帝のみが所持している玉璽が歴然と捺されている。さらに、玉璽の下には、花押が印されていた。
番兵ごときの身分で、皇帝の花押など判別はできまいが、それでも汪直が掲げている命令書が疑いのない本物であるとは、察せられるのだろう。命令書を見届ける番兵の全身が、細かく瘧のように震え出した。
「扉を開けよ! 儂を、宝物殿へ入れるのじゃ!」
汪直は新たな威厳を持って、番兵に命令した。番兵はぴょん、と飛び上がるように回れ右をすると、大急ぎで扉の鍵を開き、宝物殿の入口を開いた。
「御苦労」
汪直は短く口の中で呟くと、大股になって宝物殿へ踏み込んだ。背後に、部下と文書頭の老人が従う。番兵は呆気に取られたまま、茫然と汪直を見送っていた。
予想通り、宝物殿の内部は薄暗く、文書収蔵庫で感じた黴臭い匂いが籠もっていた。
宝物殿内部は天井も高く、広々としているが、雑多な文物が雑然と積み上げられ、何がどこにあるか、瞬時に判別できない。
古代の祭器らしき青銅製の鼎、青磁の器。西域からもたらされたものか、鈍い光沢を見せる透明な器物など。どれもこれも、埃にまみれ、本来の輝きは失せている。
周囲を見回し、汪直は軽く頷いた。
「なるほどな、これが帝室に伝わる様々な宝物を納めている宝物殿か!」
ふむ、と軽蔑の唸り声を上げる。
「どれもこれも、儂には我楽多に見えるな。本当に、これらが二つとない宝物なのか?」
一方、文書頭の老人は、うっとりと宝物殿の内部を見渡していた。皺くちゃの顔には、この上ない幸福感が溢れている。老人は汪直を見上げ、訴えかけた。
「我楽多などと、とんでも御座いませんぞ! ここに納められております総て、どれをとっても貴重な宝物ばかり。ああ、これら一つ一つを念入りに調べ、由来をきちんと記載できたら、この上ない幸せで御座いますな」
汪直は、意外な気持ちで老人を見下ろした。いつもいつも、ビクビクしながら生きていると思っていたが、このような面を見せるとは、汪直には驚きでもあった。
「それより、火槍と申す武器は、どこに納められておるのじゃ?」
文書頭の老人の慨嘆には取り合わず、汪直は鋭い声で命令した。老人は汪直の声音に、びくっとした様子を見せると、慌てて周囲を見回した。
「は、はいっ! 只今、お探しいたします……。多分、この奥かと推察されますが……」
ひょこひょことした歩き方で、今にも倒れそうな宝物の山を、老人は掻き分け、奥へと進んで行く。
汪直は部下を引き連れ、老人の背中に続いた。
ゆっくりと歩く、汪直の足が止まった。
「?」
微かに首を傾げ、汪直は気配を探った。
「汪直様……」
背後から、列の先頭に立っている艮と名付けられている部下が声を掛けてきた。艮の声には、緊張が感じられる。
「判っておる! 油断するな……」
汪直は小声で囁いた。汪直の囁きに、艮は素早く点頭すると、他の七人の部下たちと頷き合った。
するすると、音もなく、八人の部下はその場を離れていく。見事なほどの、連携であった。
汪直はその場に立ち止まり、素早く背を屈めると、やや上目がちになった。
確かに、ここには汪直以外の何者かが潜んでいた。それは汪直の五感に、びんびんと響いている。
「あのう……いかが致しましたか?」
老人が、ぼけっと立ち竦み、頼りない声を投げ掛けてきた。汪直は老人を無視し、ゆっくりと移動を開始した。
宝物殿には、数代にかけて集められた様々な珍宝が積み上げられ、あちこちに暗がりができている。積み上げられた宝物は、迷路のようになって、先を見通せない、
足音を忍ばせ、汪直は床を這うように進んだ。
どこだ、どこに相手は潜んでいるのか?
汪直は視線を低くし、どのような微かな変化も見逃すまいと、全身を緊張させていた。
天井近くに開けられている、明り取りの窓から、斜めに陽光が光の柱となって、埃っぽい室内に差し込んでいる。明り取りの窓には細かな細工が施され、そこからは出入は不可能だ。
では、どこから正体不明の敵は潜んできたのだろうか?
敵?
汪直は自嘲した。
姿を見せぬ相手を、自動的に敵と考えている。今のところは、姿を見せぬだけで、相手は敵かどうか、判らない。気配は感じるが、殺気は含まれていない。ただ相手は、こちらを注意深く見守っているらしい。
が、今は敵と考えるべきだろう。姿を見せず、意図を押し隠したまま、相手は行動している。
八人の部下は、汪直を中心に、円を描くように位置を取っている。配置は、何が起きても、瞬時に対応できる態勢だ。
汪直は、さっと、低くした姿勢を真っ直ぐにさせ、立ち上がった。
相手が移動している!
目を一杯に見開き、焦点を一箇所に集中させぬようにして、次の異常に備えた。視界の隅に、微かに何かが横切る。
「そこだ!」
汪直は叫ぶと、それまで溜めていた総ての力を解放させるかのように、全力で走り出した。汪直が動くと同時に、八人の部下たちも行動を開始させた。
とん! たん! と、汪直は床を蹴り、跳躍する。ほとんど身長ほどの高度に汪直の身体は浮き上がり、放物線の頂上近くで、積みあがった珍宝の壁に取り付いた。
汪直の手足が僅かな手懸りを求め、素早く動いた。まるで守宮のごとく、汪直は垂直に近い堆積物の壁を登っていく。しかも、ほとんど音を立てない。
宝物殿の空気は黴臭く、僅かな動きで埃が濛々と舞い上がる。汪直の忍びの技でも、埃が舞い上がらせるのを、避けられない。汪直は密かに歯噛みして、舞い上がった埃が収まる状態を待った。
相手も同時に、動きを止めていた。自分の動きで埃が舞い上がり、居場所を突き止められる危険を犯さないためだろう。
「お前の居場所は判明いたしておるぞ! 観念して、姿を現せ!」
汪直は堆積物の上に這い蹲った格好で、鋭く声を上げた。無論、はっきりとした居場所を判っているわけではない。が、大体の場所は見当をつけている。もしも相手が反応すれば、絞り込める。
もっとも、汪直が推察するに、相手は中々の技量を持つ。こんな子供騙しの手に、引っ掛かるとは、まるで思えないが──。
「くっくっくっく……」
汪直は総毛だった。
何と、相手は挑発するように、笑い声を立てたのだ!
汪直の右手が、素早く上着の裾に伸びた。裾には、びっしりと長さ五寸ほどの針が忍ばせてある。
右手に十本あまりの針を指の間に挟み込むと、腕を振るって、空中に飛ばした。
さっと影が動き、汪直の攻撃を避けた。
汪直の動きに応じ、同時に駆け登ってきた部下たちが、同じような武器を空中に投げつける。狙いは正確で、どのような奇跡が起きたとしても、絶対に躱すのは不可能なはずだった。
かん、かん、かん! と物に金属が接触する音がして、床に投げつけた武器が落下する音が続く。
糞っ!
汪直は唇を噛んだ。
何と、相手は汪直の必殺の攻撃を楽々と躱して見せたのだ。しかも、こちらを挑発するような真似をして、汪直の攻撃を誘った。
汪直は堆積物から、するりと、音もなく床に降り立った。汪直が降り立ったのを確認して、部下たちも同じように、床に着地する。
「汪直様……」
艮が申し訳なさそうな顔つきで近づいてくる。汪直は軽く頷いた。
「判っておる。彼奴は逃げた。我らの攻撃で、僅かに隙ができたのを、見逃さず、ここから逃げ出したのだ」
汪直は冷静に分析してみせた。
「あのう……」
文書頭の老人が、おずおずと近づいた。何か言いたいのか、しきりに両手を捻くっている。
「何だ?」
汪直が声を掛けると、老人は辺りを憚るように小声になり、重大な報告を口にした。
「火槍が、なくなっております! 記録にあった箇所に収められたはずの火槍が、紛失しておるので御座います!」
汪直の全身に、怒りが沸騰した。
「奴の狙いは、それか! では、あの倭人が関わっておるのか?」
汪直は歯を食い縛っていた。




