表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第二章 神領奉行
8/105

 伊勢路を、一人の武芸者が歩んでいる。

 文明十五年(一四八三年)の、春であった。

 袖無しの革羽織に、伊賀袴で、足下は脚絆に草鞋履きと、いかにも旅慣れた出立ちである。

 左手に笠を持ち、右手には六尺棒を握り締めている。頭は月代を綺麗に剃り上げ、髷は白糸で締めて、後ろにそのまま垂らしている。背中には竹を組んだ箱を背負っていて、中には道中必要な食料だの、着替えだのが、きちんと収納されていた。

 武芸者は背が高く、手にした六尺棒とほぼ、同じだけの身長があった。全体に、上下に引っ張られたような体型をしていて、ひょろりとした痩躯をしている。手足は蜘蛛のように長く、ひょいひょいと足が動くさまは、何だか剽軽な印象を与える。

 六尺棒を握っているのは、杖に使う目的もあるが、護身用でもある。護身には腰間の両刀を使えば良いと思うだろうが、この時代の武芸者は、滅多に抜くものではない。

 刀という武器は、扱いが難しい。敵と丁々発止と打ち合うなど、講談の中でしかお目に掛かれない絵空事だ。一旦、抜き放ち、相手と斬り合うなどすれば、すぐに刃毀れをするし、万が一、敵を切り伏せた後は、血糊をすぐに拭って手入れをしないと、あっという間に錆びてしまう。

 それよりは、武芸者が手にしている六尺棒のような武具が、はるかに実用的である。これなら惜しまずに振り回せるし、道中、杖として使用もできる。

 峠に達した時、武芸者は不意に立ち止まった。身じろぎもせず、突っ立ったまま、凝然と立ちつくしている。

 身体つきと同じく、上下に引っ張られたような長い顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ、大きな二つの目玉が、ぐりぐりと激しく動いて、辺りの景色を確認している。

「誰だ?」

 遂に、武芸者の唇が動き、言葉を押し出した。洞穴から聞こえてくるような、低く、響く声だった。

 くっくっくっくっく……。

 武芸者の声に応じるように、辺りから甲高い笑い声が湧き上がった。

 ──愛洲あいす太郎左衛門殿と、お見受けする……。

 相手の声は、男とも、女ともつかない、奇妙な声音を持っていた。多分、声を変えているのだ。また、どこから聞こえてくるかも、推測できない。

 愛洲太郎左衛門久忠が正式な名乗りだが、久忠ひさただいみななので、通称の太郎左衛門と呼ばれている。が、この稿では、久忠と記す。

 右から聞こえてくるかと思うと、左に移動し、さらに上下にふらふらと移動する。相手が森の中を移動しているとも思えず、立ち止まった久忠は動かない。

 いや、動けない。

 相手の意図が掴めず、どこにいるのかも、判然としない。不意の気配に立ち止まったのだが、それは相手がわざと気配を生じさせ、久忠に気付かせるためかも、しれない。

 久忠は背を真っ直ぐ伸ばし、大音声を上げた。

「もう一度、尋ねる。お主の正体を明かせ! 拙者の名前を、承知しているようだが、何が狙いか?」

 ──御安心を、ただのご挨拶で御座る。いずれきちんと、お目に掛かるつもりで御座るが、まずは太郎左衛門殿のお尊顔を拝見仕ろうと、ここでお待ち申し上げておりました……。

 じっと相手の声を耳にしている久忠は、怒りに頬を歪ませた。

 馬鹿にしてやがる……!

 怒りが、久忠に行動を促した。

 左手に持っていた笠を、ぽーんと放ると同時に身体を丸め、宙に飛び上がった。

 もし、立ち木の陰から久忠を見守った目があったとしても、久忠の全身は、宙に舞った笠に完全に隠れ、見失ったはずであった。

 かさ、とも葉音を立てず、久忠の身体は草叢に飛び込んでいた。草叢の葉は全く動かず、一瞬に久忠の姿は街道から掻き消えている。

 ──ほほう……。中々見事な、穏形の術で御座るな。いや、感心致した……。

 草叢に潜んだ久忠の額から、じっとりと汗が噴き出した。やはり、相手は久忠を上回る穏形の技を会得しているらしい。久忠の目眩ましを、完全に見切っている。

 街道に、久忠が残した笠がぽつん、と残されている。天辺を逆さにして、微かな風にふらふらと動いている。

 久忠がじっと見詰めるうち、笠がぴょこっと誰の手も触れず、飛び上がった。

 はっ、と久忠は身構えた。

 ぴょい、ぴょい、ぴょい、と、笠は踊るがごとく、地面を動いている。

 すい、と地面から跳ね上がり、ふらふらと彷徨うように空中を漂った。

 そのまま、すいーっと、久忠を目掛け、突進してくる。

 おのれっ!

 久忠は思わず立ち上がり、腰の刀に手を掛け、空中を薙ぎ払った。

 ぽとり、と笠が地面に落ちた。

 もう、動かない。

 久忠は街道に全身を顕わにし、つかつかと笠に近づいた。手を翳すと、細い糸が手に触れた。いつの間にか、糸を笠に仕掛け、遠くから操っていたのだ。糸を刀で断ち切ったため、笠は操り手から離れ、落下しただけだ。

 ぱちりと音を立て、久忠は刀身を鞘に納めた。

 気配は消えていた。

 笠に久忠が気を取られた一瞬に、姿の見えない相手は、この場を立ち去ったのだ。

 ゆっくりと久忠は身を屈め、笠を拾い上げる。ぽんぽんと、ことさら丁寧に埃を払い、久忠は頭に被った。

 平静を装っているが、胸は怒りに燃え盛っている。完全に遊ばれている。しかも余裕を持って。

 久忠は再び、歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ