一
伊勢路を、一人の武芸者が歩んでいる。
文明十五年(一四八三年)の、春であった。
袖無しの革羽織に、伊賀袴で、足下は脚絆に草鞋履きと、いかにも旅慣れた出立ちである。
左手に笠を持ち、右手には六尺棒を握り締めている。頭は月代を綺麗に剃り上げ、髷は白糸で締めて、後ろにそのまま垂らしている。背中には竹を組んだ箱を背負っていて、中には道中必要な食料だの、着替えだのが、きちんと収納されていた。
武芸者は背が高く、手にした六尺棒とほぼ、同じだけの身長があった。全体に、上下に引っ張られたような体型をしていて、ひょろりとした痩躯をしている。手足は蜘蛛のように長く、ひょいひょいと足が動くさまは、何だか剽軽な印象を与える。
六尺棒を握っているのは、杖に使う目的もあるが、護身用でもある。護身には腰間の両刀を使えば良いと思うだろうが、この時代の武芸者は、滅多に抜くものではない。
刀という武器は、扱いが難しい。敵と丁々発止と打ち合うなど、講談の中でしかお目に掛かれない絵空事だ。一旦、抜き放ち、相手と斬り合うなどすれば、すぐに刃毀れをするし、万が一、敵を切り伏せた後は、血糊をすぐに拭って手入れをしないと、あっという間に錆びてしまう。
それよりは、武芸者が手にしている六尺棒のような武具が、はるかに実用的である。これなら惜しまずに振り回せるし、道中、杖として使用もできる。
峠に達した時、武芸者は不意に立ち止まった。身じろぎもせず、突っ立ったまま、凝然と立ちつくしている。
身体つきと同じく、上下に引っ張られたような長い顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ、大きな二つの目玉が、ぐりぐりと激しく動いて、辺りの景色を確認している。
「誰だ?」
遂に、武芸者の唇が動き、言葉を押し出した。洞穴から聞こえてくるような、低く、響く声だった。
くっくっくっくっく……。
武芸者の声に応じるように、辺りから甲高い笑い声が湧き上がった。
──愛洲太郎左衛門殿と、お見受けする……。
相手の声は、男とも、女ともつかない、奇妙な声音を持っていた。多分、声を変えているのだ。また、どこから聞こえてくるかも、推測できない。
愛洲太郎左衛門久忠が正式な名乗りだが、久忠は諱なので、通称の太郎左衛門と呼ばれている。が、この稿では、久忠と記す。
右から聞こえてくるかと思うと、左に移動し、さらに上下にふらふらと移動する。相手が森の中を移動しているとも思えず、立ち止まった久忠は動かない。
いや、動けない。
相手の意図が掴めず、どこにいるのかも、判然としない。不意の気配に立ち止まったのだが、それは相手がわざと気配を生じさせ、久忠に気付かせるためかも、しれない。
久忠は背を真っ直ぐ伸ばし、大音声を上げた。
「もう一度、尋ねる。お主の正体を明かせ! 拙者の名前を、承知しているようだが、何が狙いか?」
──御安心を、ただのご挨拶で御座る。いずれきちんと、お目に掛かるつもりで御座るが、まずは太郎左衛門殿のお尊顔を拝見仕ろうと、ここでお待ち申し上げておりました……。
じっと相手の声を耳にしている久忠は、怒りに頬を歪ませた。
馬鹿にしてやがる……!
怒りが、久忠に行動を促した。
左手に持っていた笠を、ぽーんと放ると同時に身体を丸め、宙に飛び上がった。
もし、立ち木の陰から久忠を見守った目があったとしても、久忠の全身は、宙に舞った笠に完全に隠れ、見失ったはずであった。
かさ、とも葉音を立てず、久忠の身体は草叢に飛び込んでいた。草叢の葉は全く動かず、一瞬に久忠の姿は街道から掻き消えている。
──ほほう……。中々見事な、穏形の術で御座るな。いや、感心致した……。
草叢に潜んだ久忠の額から、じっとりと汗が噴き出した。やはり、相手は久忠を上回る穏形の技を会得しているらしい。久忠の目眩ましを、完全に見切っている。
街道に、久忠が残した笠がぽつん、と残されている。天辺を逆さにして、微かな風にふらふらと動いている。
久忠がじっと見詰めるうち、笠がぴょこっと誰の手も触れず、飛び上がった。
はっ、と久忠は身構えた。
ぴょい、ぴょい、ぴょい、と、笠は踊るがごとく、地面を動いている。
すい、と地面から跳ね上がり、ふらふらと彷徨うように空中を漂った。
そのまま、すいーっと、久忠を目掛け、突進してくる。
おのれっ!
久忠は思わず立ち上がり、腰の刀に手を掛け、空中を薙ぎ払った。
ぽとり、と笠が地面に落ちた。
もう、動かない。
久忠は街道に全身を顕わにし、つかつかと笠に近づいた。手を翳すと、細い糸が手に触れた。いつの間にか、糸を笠に仕掛け、遠くから操っていたのだ。糸を刀で断ち切ったため、笠は操り手から離れ、落下しただけだ。
ぱちりと音を立て、久忠は刀身を鞘に納めた。
気配は消えていた。
笠に久忠が気を取られた一瞬に、姿の見えない相手は、この場を立ち去ったのだ。
ゆっくりと久忠は身を屈め、笠を拾い上げる。ぽんぽんと、ことさら丁寧に埃を払い、久忠は頭に被った。
平静を装っているが、胸は怒りに燃え盛っている。完全に遊ばれている。しかも余裕を持って。
久忠は再び、歩き出した。