六
二人が宝物庫へ到着すると、扉の前で、衛士に誰何を受けた。物々しい装具を身につけた衛士は、手にした槍の石突を、どん! と地面に打ちつけ、胸を張った。
「停まれ! ここよりは帝室の宝物殿であるぞ! 許可なくは、誰一人通せぬ!」
衛士は、真っ黒な髭を生やし、両目はまん丸で、いかにも歴戦の勇士といった印象だ。背も高く、汪直より、頭一つ分は軽く上回っている。
汪直は無表情を保ったまま前へ一歩、ずい、と進み出た。
「拙者は西廠の汪直。役儀により、宝物殿内部を調べなければならぬ。そこを通してもらえないだろうか」
汪直の口調は淡々として、単に事実を述べている調子だ。普通なら「西廠の汪直」と名乗っただけで、たいていの相手は震え上がるはずだが、この場を守る衛士は違った。
「何、西廠? つまりはお主、宦官であろう? 宦官などが、宝物殿に、何用があるのじゃ? しかと返答せよ!」
びくともせず、衛士は高々と命じる。
このような対応に慣れていない汪直は、思わず唇を噛み締めた。頬がかっと熱くなり、頭に血が昇るのを感じる。
「儂の名前を知らぬのか?」
息を吸い込み、冷静さを保って質問する。怒りに、声を震わせぬよう努力するのが、精一杯だった。
衛士は、せせら笑った。
「汪直だか何だか知らぬが、宦官など宝物殿には入らせぬわい! さあ、許可なくば、さっさと退散せぬか!」
手を挙げ「しっ、しっ!」とばかりに、追い払う仕草を見せた。
この瞬間、汪直の僅かばかりの忍耐心が、ぷっつ──ん! とばかりに、ブチ切れた。
「何を申すか! 儂を通さねば、お主、後悔するぞ!」
思い切りの大声を張り上げる。
側で、はらはらした様子を見せていた文書頭の老人が、汪直の大声に「ひえっ!」と叫んで、大袈裟に引っくり返った。
衛士は得たりとばかり、さっと手にした槍を構える。槍の穂先が、汪直の喉元を狙っていた。
「貴様、怪しい奴! 許可の証拠を見せぬ限り、ここは通せぬ! もし、押し通すつもりなら、拙者を倒してからだ!」
汪直は身構えた。
指先が、身につけた上着の裾辺りに伸び、仕掛けられた暗器を探る。裾には細い、針金を拠り合わせた暗器が縫い付けてある。両手で握り締め、相手の喉に巻きつければ一瞬で絶命させられる。
ぷつっ、と小さな音がして、袖に隠した暗器がするすると汪直の手の中に滑り込む。
針金の片方は輪になっていて、指に嵌めこむ。もう片方は、分銅が付けており、振り回す際、ぴんと張り詰めるよう工夫されている。
汪直の構えを見て、衛士は怒りの表情になった。さっと、胸元に手が伸びる。
その時になって、やっと汪直は、衛士が首から鎖で笛のようなものを下げているのに、気付いた
衛士は笛を口に近付けると、思い切り息を吸い込んだ。。
ぴい──っ、と衛士の笛が、思いがけないほど大きな音で鳴り響く。
どかどかと、周囲から足音が聞こえ、眼前の衛士と同じような装具を身につけた男たちが、血相を変えて駆けつけてくる。
「何事じゃ?」
駆けつけた胞輩の姿に力を得たらしき衛士は、憎々しげに汪直を睨みつけ、口早に叫んだ。
「よう来た! こ奴、宝物殿に押し入ろうとしたのじゃ! 見ろ、怪しげな武器を手にしておるわ!」
糞っ!
汪直は歯を剥き出し、一瞬、包囲の輪を押し渡るべきかと迷った。だが、ここは一番、我慢が肝心と、冷静さを取り戻す。
「また来よう。その時には、正式な命令書を携えて参る。お主の顔は、忘れぬぞ!」
衛士は汪直の言葉に、嘲笑いを浮かべた。
「あはっ! 正式な許可を、お主が手にできると申すか? さしずめ、皇帝陛下の玉璽が押された、命令書でも持って参るのじゃな? お待ち申し上げますぞ!」
最後は、皮肉たっぷりな口調になる。
汪直は両拳をぎりぎりぎりと、力一杯に握り締めた。怒りに、全身が震えている。
プイ、とばかりに汪直は無言で踵を返すと、大股で戻り始めた。
「お待ちくだされ、汪直様!」
背後から文書頭の老人が、情けない声を上げて、ばたばたと追い掛けてくる。
まったく、迂闊だった。
宝物殿が厳重な警備に置かれているはずだと、なぜ考えが及ばなかったのか?
理由は単純だ。
紫禁城で、汪直はほとんど敵なしの状態に慣れきっていた。汪直の姿を目にした官吏や宦官たちは、汪直の命じる内容に、唯々諾々と従うのが、通例となっている。
だが宝物殿ばかりは、汪直の神通力は、一欠片も通じない領域であった。
紫禁城で味わった、初めての屈辱感に、汪直はきつく、拳を握り締めていた。




