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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十二章 王族
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 汪直の毎日は、修行僧のような暮らしだ。

 朝、鶏声が聞こえる前に寝床から起き出して西廠内庭に出ると、朝の鍛錬を始める。上半身裸になって、手足を動かし、型を演じる。宙を蹴り、指先を揃え、突きを入れる。気合が籠もり、素早く繰り出される手足は、想像上の敵を撃破している。

 一刻あまり体練を続けていると、汪直の鍛え上げられた筋肉からは滝のように汗が噴き出す。今は夏だが、冬の厳しい寒さの中では、湯気が白く見えるほどだ。

 鍛錬が終わると、汪直は井戸水を汲み上げ、頭からざばりと、汗を流す。その際、腕ほどもある太い荒縄で、全身を拭い、汚れを落とす。汪直は念入りに身体を清める。他人の目には、狂気が感じられるほど、全身の肌が赤剥けになるくらいに、強く擦る。

 そこでようやく、鶏声が聞こえ始め、内庭に朝日が差し込んでくる。

 普段着に着替えると、汪直は自室に戻って前日に提出された書類を片付ける。文書量は膨大で、報告書は堆く箱に積み上げられている。

 が、汪直は怯まない。

 一枚一枚、素早く目を通すと、細い朱筆で書類に書き込んでゆく。報告に対し、却下、採用、保留を決裁し、却下の場合はその理由を、採用、または保留の場合も、事細かに朱筆で理由を書き込む。

 汪直の仕事は極めて迅速だ。書類をちらっと一瞥しただけで、素早く朱筆が動き、決定済みの箱へと移動する。一枚の書類に掛かる時間は、ほんの一呼吸か、二呼吸。

 猛然と書類に立ち向かい、総ての書類が決定済みの箱に移動したのは、昼前である。

 やっと汪直は食事を摂る。汪直は毎日、一食しか口にしない。量も、僅かで、これでよく毎日の激務に耐えられると、他人からは呆れられるほどだ。

 一汁一菜の簡単な昼食を摂ると、汪直は西廠を後にして、紫禁城へ向かう。

 城内にも、汪直を待つ仕事は山積みだ。

 紫禁城の各官衙へ赴き、成化帝の一日の予定を組み上げる。面会者がいれば人物の調査を命じる。提出される議案があれば、前もって目を通し、後は成化帝の玉璽を待つだけの状態にしておく。成化帝は単に、玉璽を押すだけでよい。

 汪直ほどの地位にあれば、ほとんどの仕事は他人任せにし、自由な時間を自分だけの楽しみに費やすのだろうが、汪直は決して、遊びに時間を浪費したりしない。

 宦官であるから、女は無用だ。自分を厳しく律しているから、酒も口にしない。

 同じ理由で、美食にも関心はない。賄賂も受け取らないし、利殖にも一切、近づかない。

 孤独で、有能で、なおかつ厳格な汪直には、友と呼べる人間は一人もいない。存在するのは、部下と上司だけだ。

 紫禁城で汪直を知るほとんどの人間は、憎むか、怖れるかで、好意を寄せるなど考えられない。

 他人目からは、汪直は忠実な臣下に見えるだろう。また、汪直自身、そのように自分を演出している。汪直の関心は、一途に、明帝室安泰にありと。

 八人の部下にとって、汪直は権力奪取のために、非情な任務を下す上司と見えているはずだ。

 が、汪直の総ての努力は、明帝国崩壊に向けられている。この並々ならぬ決意は、八人の部下さえ、僅かでも気取られていない。

 汪直は、明、漢、秦、元、宋などの歴史を学び、帝国崩壊には、重要な要職に昇った宦官が関わっている事実を掴んでいた。

 したがって汪直も、それら、帝国に巣食った宦官の例に倣う決意を固めている。

 自分の一歩一歩が、一挙手、一投足が、着実に明帝国崩壊へ近づいていると、確信していた。

 その日、汪直は夕刻近く、一枚の報告書を目にし、西廠の自室から外へ出た。

 報告書は、文書頭からのものだった。

 以前、明帝室に存在した、聖なる武器について調査するよう、命じていたが、やっと報告が挙がってきた。

 すぐさま文書収蔵庫へ急ぐと、あたふたとした様子で、文書頭の老人が出迎える。

「あっ、汪直様! お待ち申し上げておりましたぞ!」

「貴様の報告は読んだ。詳しく話してみよ」

 汪直は静かな態度で話し掛けた。汪直の態度に、老人は冷静さを取り戻した様子で、息を吸い込むと報告を始める。

「汪直様が御依頼された、聖なる武器について古書を調べておりました……。明帝室初期の頃は無論、それ以前の宋、漢、秦についての書物も調べ申し上げました」

 汪直は黙って、老人の報告を受けている。老人は唇を舐め、報告を続けた。

「ところが、で御座います! 幾つかの重要な文書が、私が調べる前に、誰かに閲覧されていた跡があったのです!」

 汪直は眉を寄せ、真剣な顔つきを作って身を乗り出す。

「誰か、とは?」

 老人は、ぶるんっ、と顔を左右に振った。

「それは判りませぬ……。が、確かに誰かが、文書の幾つかを掻き回した形跡があったのです!」

「ふうむ。奇妙であるな。武器について調べよと儂が命じたのは、つい最近じゃ。それ以前、武器について誰かが興味を持つなど、まずもって、ありえぬ……」

 汪直はしばし考え込み、老人に向かって念押しした。

「それで、儂の命じた武器について、何か判明いたしたのか? 武器は実在するのか?」

 ごくり、と老人は唾を飲み込み、頷く。

「御座います! 宝物庫に密かに収蔵されておると、記録に残っております」

「よし! それがどのようなものか、この目で確かめてやる! 宝物庫からは、持ち出されておらぬな?」

「はい。そのはずです」

「案内せよ!」

 汪直が命じると、老人はぴょこりと上体を折り曲げて頷き、先に立った。

 二人は宝物庫へ急いだ。

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