一
ここは万貴妃が住まう、紫禁城後宮の一角である。第一婦人として、万貴妃は後宮でも最も豪華で、広壮な屋敷を与えられている。
後宮には原則、男子禁制で、ここに足を踏み込めるのは、皇帝と宦官のみ。
しかし今、男子禁制の原則は、あっさりと破られた。
汪直の側に、床に跪いているのは、小七郎であった。少年とはいえ、男には違いない。
本来なら、入室など絶対に不可能なはずだったが、そこは色々抜け道がある。たとえば宦官の官服を身につけさせ、年少の宦官だと偽る方法とか。
「その子供は、何じゃ! まさか……あの……?」
御簾の向こうから万貴妃の疑い深い声がして、汪直はさっと前へ進み出た。
「以前にも申し上げました、例の替え玉で御座います。とっくりと、その目で確かめて頂きたく、ここへ引き出して御座います」
「左様か……。妾は初めて目にするが、確かに似ておる……。本当に、其方が申すように、赤の他人なのじゃな?」
汪直の言上に対し、万貴妃の声が微かに安堵の響きを滲ませた。万貴妃の前に進み出た汪直は、御簾に向かって深々と拝礼した。
「汪直よ、先ほどから妾が見ておるが、その童、まるで呆けたようじゃが……? それで役に立つのかのう……」
汪直は御簾に向かい、ニタリと笑顔になった。ちら、と隣に跪いたままの小七郎を見やる。
万貴妃の疑念通り、小七郎は一切の感情を表さず、無表情に虚ろな視線を宙に遊ばせている。
「これは万貴妃様とも思えぬ言いよう。呆けてあれば、我らの思いのままでは御座いませぬか? 賢しらな相手では、思いも掛けぬ失態を仕出かすかもしれませぬ。ただ、我らの命ずるままに行動するのが、肝心かと」
御簾の向こうから、くぐもった笑い声が漏れてくる。
「なるほどのう……。本物を始末し、この童を皇太子に立て、後ろから妾が操ると、そなたは申すのじゃな?」
「左様で御座います。まさに、万貴妃様ご明察……」
するすると、音もなく御簾が上へ引き上げられ、万貴妃の姿が顕わになった。
万貴妃は長椅子にしどけなく横座りになり、鋭い視線を汪直と、小七郎に向けている。酷く肥満していて、この大陸で飼われている梅山豚のように見えた。梅山豚と同じく、分厚い脂肪が襞をなし、身動きも大儀そうだ。
幾重にも覆われた脂肪の奥から、小さな二つの瞳が、貪欲そうに小七郎を眺めている。そこだけは酷く薄い唇がひくひくと蠢き、笑いの形を造る。たらり──と、万貴妃の唇から涎が糸を引いた。
「面白い……面白いぞ、汪直! その童、見れば見るほど、皇太子に生き写し。妾は考えておった……。皇太子を妾の寝所に誘えばどうか、とな。あれは妾好みの、見目良い殿方であった……。皇太子と生き写しとは、これは運命かもしれぬな……」
汪直は微かに、眉を寄せた。無表情を保っていたが、万貴妃の性欲は、呆れるほど強烈で、六十を越した今も、汪直は毎晩、寝所に万貴妃を満足させるため、通い詰めている。
小七郎を見た万貴妃は、倒錯した性欲に取り憑かれているようだ。血縁ではないといえ、仮にも正式な夫の実子に対して性欲を募らせるとは、呆れ果てる。
「万貴妃様……。老婆心ながら申し上げます。そのような事柄を口になさるのは、この汪直一人だけになさりませ。汪直は決して漏らす気遣いは御座いませぬが、他人が耳にしたら何としましょう?」
万貴妃は汪直の忠告に、明らかに不快感を示した。眉が顰められ、ふん! と鼻を鳴らして、そっぽを向く。
「判っておる! ただ思っただけじゃ! それより、汪直!」
万貴妃の声が甲高くなった。
汪直は「はっ!」と万貴妃に対して床に平伏し、額を床に擦りつける。
「肝心要の、本物の皇太子はどう始末したのじゃ? 妾は、まだ其方から、皇太子を始末したと報告は受けておらぬぞ!」
汪直は益々身体を床に擦りつけ、怖れの姿勢を示した。
「申し訳も御座いませぬ。先々も申し上げた通り、最初の暗殺には失敗しております。これは正直に申し上げます。が、次の手は着々と打っております。いずれ、本物の皇太子はここ……紫禁城に引き入れられましょう。その時こそ、暗殺の好機!」
万貴妃の肉に埋もれた両目が、一杯に見開かれた。
「何っ! それはまことか? 彼奴が、城内に姿を現すと申すのか?」
汪直は這い蹲った姿勢から、頭をぐいっと擡げた。
「左様で御座います。皇太子の取り巻きは、紫禁城に皇太子を連れて皇帝陛下の御前に引き出し、正式な皇太子宣下を執り行うつもりかと思われます」
万貴妃は苛々と、爪を噛んだ。
「まずい……! それは極めてまずいぞ、汪直。もし、その企てが成就すれば、妾たちの計画は水泡に帰すではないか?」
顔を上げた汪直は、薄笑いを浮かべた。
「でも御座いません。よくお考え下さい。陛下が正式に皇太子を認証なさった後、本物を始末し、我らの替え玉を送り込めば、事情を知らぬ者に取っては、替え玉こそが本物では御座いませぬか? 皇太子宣下のお膳立てを、奴等が大骨を折って我らの代わりにやって貰えれば、万貴妃様は黙っても政治の実権を易々と握れるので御座いますぞ!」
万貴妃は破顔一笑した。
くつくつと、喉の奥から笑い声が漏れ、それが全身に行き渡り、遂には豚が悲鳴を上げる時のような、きいきいという耳障りな咆哮となった。
「なるほどのう……! お主の悪知恵には、この万貴妃、頭が下がりっ放しじゃ! よろしい、お主の企み、とくと見届けようぞ!」
「有り難き幸せ……」
汪直は再び、静かに額を床に擦りつけた。横目で、ちらっと小七郎を確認する。
小七郎は薬の影響で、微動だにせず、一切の表情を喪失し、床に跪いている。
床に額を擦りつけている汪直の顔に、薄笑いが浮かんだ。
汪直の薄笑いは、決して万貴妃に見せられない種類の表情だ。なぜなら、今の汪直は、万貴妃を嘲笑う、反抗心剥き出しの笑顔を浮かべていたからだ。




