四
陳九が予想した通り、汪直は宮廷に上がるとすぐに、女官たちの注目を浴びた。
汪直が最初に命ぜられた仕事は、宮中の掃除で、これは、どの宦官も同じだ。陳九自身も宮中に上がった最初に、掃除を命ぜられている。
目的は宮中の生活に慣れるのと、あちこち掃除をするうちに、紫禁城の地理を覚えこむためである。
紫禁城は途轍もなく広大で、慣れぬ内は、すぐ迷う。それに、宦官などが通行できない区域もあり、うっかり迷い込んで誰何を受けたりすると、厳罰に処せられたりする。そのために、新来の宦官には、掃除が不可欠の仕事となる。
掃除道具を持たされ、汪直は黙々と仕事をこなしていた。が、宮中を移動する汪直の姿は、城内に住まう女官たちの格好の好奇心を刺激しているらしいと、朋輩の宦官が陳九にわざわざ教えてくれた。
「汪直が歩くと、あいつの後ろにぞろぞろ女官たちが従いてきやがる。まるで家鴨の群れだぜ」
古くからの仲間は、面白半分、もう半分は嫉妬の混じった口調で陳九に報告した。
陳九は「ふむふむ」と生返事で頷く。汪直の近況を報告した宦官は、陳九の態度に当てが外れたという表情になったが、陳九は関心がないわけではない。
紫禁城に住まう女官たちの動向は、陳九を含めて、宦官にとって決して、無関心でいられない。女官たちがこっそり、城内の官僚らに、「宦官の誰それは態度が悪い」などと告げ口する例は、結構あるからだ。告げ口で済めば、まだ良い。だが、それが讒言になったりすると、冗談では済まない。
その後、陳九が城内に用があって、参内する機会に、汪直の姿を偶然、見掛けた。
久し振りに見る汪直の姿は、陳九が目を疑うほど変わっていた。
第一、掃除道具を持っていない。さらに、身に纏う着物も変わっていた。陳九が整えてやった簡素な着物ではなく、まるで大官が身に着けるような、豪奢な彩りと、絢爛豪華な刺繍が施された大人服であった。
紫禁城の庭を、颯爽と歩く汪直に陳九が声を掛けると、「これはこれは、陳九殿。お久し振りで御座います」と拱手して挨拶するが、どこか儀礼的で、よそよそしい。
陳九が早速「汪直、その着物は?」と指摘すると、汪直は初めて気付いた、という表情で、自分の着物に目をやった。
「贈り物で御座いますよ。万貴妃様が、私に下賜されたので御座います」
あまりに意外な返答に、陳九はぽかんと口を開け、棒立ちになった。
「万貴妃様が、お主に……? まさか!」
成化帝の后妃が万貴妃で、一番の寵愛を受けていると噂されている。
陳九の記憶では、成化帝より二十歳近くも年上のはずだ。何しろ成化帝が幼少の頃に乳母として接していたほどで、それで今でも帝は、万貴妃に頭が上がらないそうだ。
いつの間に、汪直は后妃に接近できるほど、王宮深く入り込んだのだろう? 多分、女官たちに接近し、伝手を手繰って、上へ上へと這い上がったに違いない。
陳九は、汪直が宮中で出世すると確かに値踏みした。とはいえ、この出世は早すぎる。異常とさえ言える。
汪直は、着物の袖をちょっと指先で引っ張り、陳九の顔を見て、意味ありげな表情を浮かべた。
「私の身に纏った着物が、分不相応とお思いなのでしょうな?」
陳九の胸に、冷やりとした風が吹きつける。陳九は半歩ほど引き下がり、心持ち、背を曲げて、汪直を見上げる格好になった。
ここは対応を間違えてはならぬ……!
「いえ……そのような……」
口調は自然に、上役に対する謙ったものになっていた。必死に答える陳九の背中が、じっとりと汗ばんだ。
汪直は顎を引き、悠然とした態度になった。
「いやいや、陳九殿が不審に思われるのも無理はありません。が、御不審なきよう、説明しておきますと、私、新たな官衙の責任者に任命されたので御座います。この服は、そのために万貴妃様が御用意下されたので」
「そ、それは、どのような官衙で御座いますかな?」
陳九は慎重に、尋ね掛けた。
汪直は、さりげなく答えた。
「西廠という、新たな部門が紫禁城内に設けられまして、私、その責任者となりました」
「はて、西廠? 東廠ならば、知っておりますが」
陳九が問い返すと、汪直は大きく頷いた。
「左様、その東廠に対する、西廠ですな。まだ正式な官衙として発足はしておりませんが、いずれ私が長官として任命される運びとなっています」
永楽帝時代、帝直属の特務機関として東廠が設置された。要するに諜報部門で、宮廷内の監視を主な任務とし、帝に直接情報を報告する。
「西廠では、我々宦官が主要な官員として召集されます。そうだ!」
いかにも、たった今、思いついたという顔つきで、汪直は陳九に向き直った。
「いかがで御座います? 私は今、様々な宦官の仲間に声を掛けているのですよ。私と一緒に、帝のお役に立つつもりはないか、と。陳九殿は私の仮親。あなたが西廠に来て頂ければ、俄然、心強いのですが?」
陳九はじりじりと後じさり、ゆっくりと頭を左右に振った。
「い、いえ……私など、何のお役にも立てませぬ。自求監で働くのが、精一杯で。それに、私は、そろそろ引退するつもりで、田舎に土地を求めるつもりで御座います。どうか、お忘れ下され……」
汪直は「ほう」と嘆声を上げた。
「それは知りませんでした。そうでしたか、陳九殿が、御引退をお考えだったとは。いや、詰まらぬお話をお聞かせしてしまったようですね。御無礼を致しました」
汪直は陳九に対し、慇懃に礼をした。陳九は脂汗を額に浮かせ、気もそろぞに汪直の前から離れる。
相手の姿が見えなくなると、陳九は急ぎ足になって紫禁城から市街へ戻って行った。
蟀谷は、ずきずきと鼓動が打っていた。無我夢中で自宅に帰り着くと、その場で家財を売り払い、ありったけの金を掻き集めると、馬車を呼んで北京から逃げ出すように……。
いや、陳九の感覚では、一心不乱、無二無三に逃走を開始していた。
北京から充分に離れると、陳九は汪直に返答した言葉そのままに、田舎の適当な地所に土地を求め、隠棲の生活に入った。
なぜなら、汪直がうっかり(実際は、わざとであろうが)洩らした言葉が、陳九を震え上がらせたからである。
宦官を集めて諜報機関を運営する、と汪直は明言した。
冗談ではない!
つまりは、宦官を監視する諜報機関ではないか! 汪直は西廠の長となり、王宮総ての宦官を一手に、掌握するつもりなのだ。
もし陳九がうかうかと汪直の誘いに乗ったならば、まず標的となる公算大であろう。あれは汪直の「老人は引っ込んでいろ」という無言の脅しかもしれなかった。
陳九が隠棲生活に入って暫くして、風の便りに汪直の言う「西廠」が発足したと報せがあった。その後、紫禁城では大幅な粛清が始まり、大量の宦官が罪を問われ、刑を執行されたらしい。
隠棲生活を続ける陳九が願うのは、唯一つ。汪直が陳九から関心をなくし、己の野望に邁進して欲しいという願いであった。
多分、そうなるだろう。陳九自身、宮廷では何の発言力もなく、自求監で宦官になりたい志望者に手術を施すのが、唯一の技能であったのだから。
こんな哀れな老人を、わざわざ罪に落とすなど、汪直にとって、無駄働きに決まっている。
が、陳九は長い隠棲生活の間、一時も心休まった瞬間はなかった。陳九がやっと心の底から安心を覚えたのが、自分に死が訪れる最期の時だけだったのである。
陳九が死んでから、十数年が経過した──。