二
久忠は強いて気持ちを落ち着かせ、寝台に注意を振り向けた。
朱三平──皇太子は、すやすやと寝息を立て、寝具で寝そべっている。時折、ぴくぴくと瞼が痙攣するが、危険な様子はなかった。朧の丸薬が効いたのだろう。
李荘に促され、久忠は室内の椅子に腰掛けた。李荘は卓を動かし、久忠の向かい側に腰を落ち着けた。
李荘の合図に、その場にいた残りの全員が足音を忍ばせ、部屋から立ち去って行く。
「なぜ、皇太子君が、このような場所に身を隠しておられる?」
久忠は李荘に尋ねた。李荘は、顔を顰めた。
「暗殺の危険が御座る! 身を暗殺者の手から守るため、市中に潜伏しておったのだが、あのような仕儀になり申した」
口調は悔しそうであった。
久忠は不思議であった。
「敵は、いずこに? 誰が、皇太子君のお命を狙って御座る?」
「万貴妃で御座る。皇帝陛下の、第一后妃で御座る」
李荘の答は、吐き捨てるようだった。
「后妃! さっぱり判らぬ!」
首を捻っている久忠を見て、李荘は皮肉そうに肩を揺すった。
「后妃は、すでに六十近い老婆で御座る。皇帝陛下との間には、一子が御座ったが、早世なされた。それ以来、后妃と陛下の間には、子は御座らぬ。第二、第三后妃に御子息がお生まれあそばされると、万貴妃は嫉妬に狂い、次々と暗殺を仕出かしたので御座る」
久忠は呆れ果てた。
「信じられぬ。そのような犯罪を仕出かして、なぜ万貴妃と申す后妃は、罪に問われぬので御座る?」
李荘は諦めたように、何度も首を左右に振った。
「皇帝陛下が、万貴妃の罪を問わぬからで御座るよ。陛下は幼少の頃から、万貴妃に母親代わりに育てられ、即位なされてからは、最初の后妃として万貴妃を迎え申した。身も、心も、陛下は万貴妃に支配なされておる。まことに、おいたわしい……」
久忠の胸に、怒りが湧き上がった。義憤といって良い。
「それで、逃げ回って御座るのか! なぜ、堂々と万貴妃と対決して、正式な皇太子の名乗りを上げぬ? 陛下に正式に皇太子として迎え入れれば、手出しはできぬはず」
李荘は目を剥いた。
「紫禁城に乗り込めと、お主は提案なされるのか? 紫禁城には、万貴妃の後ろ盾を恃む、卑劣な宦官どもが巣食っておるのじゃ! 彼奴らは万貴妃が背後におわすのを良いことに、城内で暗躍しておる。昼間の暗殺者も、宦官が差し向けたのであろう。そのような紫禁城に、のこのこと三平様が出向けば、たちまち餌食になるのが、目に見えておる」
久忠は胸を張った。
「それなら、拙者が一身を持って、三平様をお守り申し上げる。口幅ったいようであるが、義を見てせざるは何とやらと聞く。拙者は日本の武士の一人として、三平様をお守り申し上げ、皇太子の名乗りを上げさせ申す!」
久忠は立ち上がると、腰の大刀を抜き放った。ぎらり! と、久忠の抜き放った刀の刀身が、青白く光る。
刀身の輝きを目にした李荘の顔が、赤々と紅潮した。
「判った! 拙者も、いつまでも三平様を逃げ回らせるつもりはなかった。愛洲殿の仰るのも、もっとも。こうなれば、宦官の汪直と堂々と立ち向かおうぞ!」
久忠は李荘の言葉に、「何ぃっ!」と叫び声を上げていた。
「李荘殿! 何と申したっ? 宦官の汪直と聞こえたが?」
久忠の態度に、李荘は口をぽかりと開けて答える。
「さ、左様で御座るが……。愛洲殿は、汪直を見知って御座るのか?」
久忠は大きく頷いた。
「知らぬでか! 今朝、奴は儂を訪ねて参った。拙者を、紫禁城に招待し、演武を依頼してきたのじゃ」
李荘は、久忠から詳しい話を聞いて、考え込んだ。
「ふーむ。何を狙っておるのじゃろう? 愛洲殿をわざわざ招き入れるとは……」
久忠は、李荘の言葉に自分の本来の計画を思い出していた。久忠は朝廷から、紫禁城に隠されている宝物を奪うよう、命令されている。
もしや、汪直は、久忠の秘められた使命を承知しているのでは? それで、逆に罠を掛けるつもりで、招待したのかもしれない。
それならそれで良い。朧がいない今、使命を果たすのは、久忠しかいないのだ。
久忠は密かに、闘志を燃やしていた。




