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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十章 巫士と巫蠱
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 汪直は西廠の建物を出て、北京に幾つもある門を潜り、城外へと足を運ぶ。

 無言で歩を進ませ、二人と一匹は、北京城から小一刻ほど離れた場所へ移動した。もう、周辺は農地が広がるだけで、建物はほとんど見当たらない。

 農地の空隙に茂る竹林へ、汪直は進む。良く足下を注視すると、僅かな踏み分け道があった。踏み分け道の先に、粗末な小屋がある。

 小屋の前に、一人の兵士が、地面に座り込んでいた。近づくと、鼾が聞こえる。寝入っている。

 汪直はつかつかと兵士に近づき、俯けた顎を目掛け、思い切り蹴り上げた。

「起きろ!」

 顎を蹴り上げられ、兵士は「うわっ!」叫んで仰け反った。両目には驚愕の色がある。

 だんっ、と地面を踏み締め、汪直は怒鳴り散らした。

「怠慢だぞ! お主には、小屋に閉じ込めた奴を逃がさぬよう、きつく言い渡しておる。それを、眠り込んでいるとは、何事だ!」

 兵士は慌てて這い蹲った。

「も、申し訳も御座りませぬ!」

 言い掛け、汪直の顔に浮かぶ怒りの色を窺い、兵士の顔は真っ青になった。

 汪直は暗殺者に向かって叫んだ。

「小屋の中の奴を験すつもりだったが、気が変わった! まずは、こいつを殺るのだ!」

「承知致しました」

 暗殺者は答え、猿に向かい合った。

 猿に向かって、微かな身動きをすると、猿は「ぎーっ!」と歯を剥き出し、のそのそと兵士へ近づく。

 兵士は、がばっ、と身を起き上がらせ、小屋の板壁に背を押し付けた。猿を一目見て、本能的な恐怖を感じたようだ。

 猿は兵士に向かい合い、用心深く近づく。兵士が逃れないよう、右へ動けば右へ、左へ動けば左に俊敏に動いた。見る見る両者の距離が縮まる。

 一瞬、猿が全身を縮めたと思ったら、ぴょーんっと、発条仕掛けのように飛び上がった。

「うぎゃーっ!」

 絶叫が上がった。

 兵士が首筋を押さえ、よろめく。両目が飛び出るほど見開かれ、食い縛った口許から、ぶくぶくと白い泡が広がった。

 がくり、と両膝が地面につき、兵士は尻餅をつく。

 かくん、と背中が小屋の壁に凭れかけ、兵士の全身から力が抜けた。手で押さえた首筋が露になり、猿が触れた部分が紫色に腫れ上がっていた。

 変色した部分は見る見る広がり、全身を侵す。兵士は、すでに絶命していた。

 猿面の暗殺者は、汪直に向き直り、声を掛けた。

「いかがで?」

 汪直は息を吸い込んだ。

「あ、ああ……。確かに見届けた! この猿なら、仕留めるだろうな……!」

 猿面は小屋を指差す。

「こちらは、どうなさります?」

「そう──だな」

 汪直は逡巡した。が、すぐに決断を固める。

「ついでだ。小屋の中にいる奴も始末してもらおう。儂が奴を捕えて以来、奴は長く生きすぎておる」

 汪直は小屋の扉を開き、内部に踏み込んだ。

 小屋の内部は牢屋になっていて、太い木格子が、がっちりと捕囚を閉じ込める造りになっている。

 窓はなく、薄暗い中から、ぷーんと異臭が漂った。異臭は、捕えられている人物から発している。汪直が内部を窺うと、人物は身動きをしてのろのろと木格子に近づいた。

「飯かね?」

 虜囚は、虚ろな声で問い掛ける。声には、まるで気力が抜けていた。単に生きているだけ、という状態らしい。

 入口から差し込む光が、牢屋の主を照らし出す。

 痩せこけた身体に、顔にはぼうぼうの髭が胸元まで達していた。汪直を見上げた目には、一切の知性、感情が表れていない。全身が垢にまみれ、身に纏っている服は、ぼろぼろになっていた。

 猿面が問い掛けた。

「これは、どのような罪人で?」

 汪直は素早く答えた。

「お主が知る必要はない!」

 猿面は「へっ」と短く返答した。

 牢屋の主は、昔、将軍だった。しかも、汪直が育った村を襲った軍隊を率いていた責任者である。

 汪直は西廠を発足させた後、総ての諜報機関を動員して、村を襲撃した部隊全員の名前を調べ上げていた。一人一人、密かに復讐を遂げ、最後に残ったのが、眼前に座っている囚人だった。

 捕えたが、あっさりと死を与えるのが惜しく、こうして他人目を避け、収監していたのだ。

 汪直は兵士から奪った鍵を使い、牢屋の扉を開錠する。扉が開いて、囚人の顔に戸惑いが浮かんだ。

「出るのだ!」

 汪直の命令に、囚人は大儀そうに牢屋の扉を潜った。汪直は暗殺者の耳に口を近づけ、囁いた。

「できるだけ、苦痛を長引かせろ!」

「畏まりました」

 猿面は、毒猿に向かって合図を送る。

 毒猿はのこのこと、囚人に近づいた。囚人の顔に恐怖はなく、ぼんやりと猿を見詰める。

 猿の両頬がぷーっ、と膨らみ、唇が窄まった。ほーっ、と毒猿が息を、囚人に向かって吹きかける。

 びくんっ! と、囚人の全身が痙攣した。

「はうっ! おぅっ……!」

 ぶるぶるっ、と囚人は手足を細かく震わせ、よろよろと立ち上がる。どこにそのような力が残されたのか、だだっと大股に走り出すと、外に飛び出した。

「うぎゃっ、あぎゃっ!」

 恐ろしいほどの苦痛に、囚人は七転八倒して悶えている。地面に横たわり、手足をじたばたと足掻かせた。

 汪直と、猿面の暗殺者は、小屋から外へ出て、囚人の苦しみを見守っていた。そろりと暗殺者は、汪直に向かい合う。

 はっ、と暗殺者の全身に驚きが弾ける。

 なぜなら、汪直の瞳に、涙が一杯溜まっていたからだった。

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