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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十章 巫士と巫蠱
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 見守る汪直の目の前で、少年の頬に赤みが差す。ぼうっと焦点が合わないままの瞳に、急速に意思の光が戻ってくる。

 表情が驚きに変わり、さっと上体が起き上がった。

「戻り申した……」

 ふうっ、と汗を拭い、安甫は安堵の溜息を吐いた。今まで生きた心地がなかったのか、手足の先に、細かな震えが認められた。

「ご苦労。この場であった出来事については、他言無用だぞ!」

「念押しには、及びませぬ……」

 安甫は何度も顔を左右に振って、汪直に答えた。

 ぼんやりと汪直らを見上げる少年を見詰め、汪直は安甫に尋ねた。

「どのくらい、正常なのか?」

 安甫は面倒臭そうに、答を呟いた。

「話は、理解できます。ですが、自分で何事かを考え、決定する気力までは、御座いませぬ。まあ、生きている人形ですかな。この状態は通常、一月は続きます」

 汪直は、安甫の答に、皮肉な笑みを浮かべた。

「ふむ! 安甫殿、お得意の処方であろうな。この手で、何人の女童を意のままにしたのか知らぬがな!」

 安甫は、汪直の言葉に含まれる毒を無視するように、顔を背け立ち上がった。ぱんぱんと、わざとらしく自分の道服を叩くと、背筋をそびやかす。

「それではもう、拙者には用はありませぬな? よろしければ、帰らせて頂きたい」

 汪直は頷いた。

「よろしい! 部下に送って進ぜる」

「結構です!」

 安甫は、慌てて汪直の申し出を断った。

 脇に控えている汪直の部下を見やる安甫の目には、凍りつくような恐怖があった。これ以上、汪直らと関わりを持つのは御免だと、安甫の全身が雄弁に語っていた。

 道士の姿が部屋から消えると、改めて汪直は少年に向き直った。

「お主の名前は?」

「小七郎……」

 ぽつりと少年が答え、汪直は顔を顰めた。さっと腰を落とすと、少年に顔を近づけた。

「違う! お主の名前は、朱三平! いみなは祐堂。繰り返すのだ!」

 少年……小七郎は、汪直の命令に従い、のろのろと口を動かし声を押し出した。

「名前は朱三平……諱は祐堂……」

 汪直は、小七郎の表情を、注意深く観察する。

 確かに安甫道士の言葉どおり、小七郎には意思の力は完全に抜け去っている。今はただ、汪直の命令を待つ、生きた人形だ。汪直は念を押した。

「よいか、お前の名前は、朱三平。本当の名前は小七郎だろうが、その名前は、忘れるのだ。小七郎という名前は、儂の家来でいるときに、思い出せばよいのじゃ!」

 小七郎は、ぐらぐらと頭を動かし、汪直の言葉を肯定する。

「は……はい……。わたくしは、汪直様の家来でいるときは、小七郎……。いないときは、朱三平……諱は祐堂……!」

 汪直は満足して、立ち上がった。

 それにしても、東夷の倭人の中に、皇太子そっくりの相貌を持つ少年がいたとは、驚きだった。最初に目にした時には、本当の皇太子だとてっきり、思い込んだほどだ。

 年齢は小七郎のほうが、やや若いが、体格も同じくらいだから、本物を始末した後、傀儡として操るには、うってつけといえる。汪直が小七郎を手にしたのは、本当の僥倖だろう。

 小七郎を皇太子に仕立てるには、皇太子の顔が、父親他、王宮内のごく僅かな人数にしか知られていない現状が役立つ。

 本物の皇太子は、継母である万貴妃の暗殺を避けるため、身を隠している。今のうちに本物を始末すれば、小七郎を皇太子として紫禁城に送り込む仕掛けが動き出す。そのために、汪直は小七郎の意思を薬で眠らせたのだ。

 気になるのは、小七郎と行動を共にした、二人の倭人だ。何のために、はるばる北京までやってきたのか?

 アニスの言葉によれば、一人は小七郎の父親らしい。汪直が、わざわざ自分で出向き、愛洲太郎左衛門と名乗る倭人の武人に会いに足を運んだのも、確認のためだ。

 なるほど、確かに面影はある。第一印象は、朴訥とした、武芸一筋の男だった。

 汪直は小七郎に問い掛けた。

「愛洲太郎左衛門が北京に参っておる。お主は、奴の目的を知っておるか?」

 小七郎の顔に、苦しげな表情が浮かぶ。内心の葛藤が面に出ているのだろう。

「し……知りませぬ……」

 汪直は膝を床について、顔を小七郎に近付けた。瞳孔は正常に戻っているが、小七郎の表情は相変わらず、どんよりとしている。父親について汪直が尋ねた時に限り、小七郎の顔に、葛藤が表れた。

 小七郎は、愛洲太郎左衛門を、母の仇だと言明している。言葉に嘘はないだろうが、本心は別なのではないか? 本心と、裏腹の言葉を口にするとき、葛藤が表情に出ると考えても良い。

 汪直は口調を厳しくさせた。

「小七郎! 其方は儂の家来じゃぞ! 儂の命令には、総て従うのじゃ!」

 ぐらぐらと、小七郎の上体が揺れた。がくがくと、何度も小七郎は頭を前後に揺らし、途切れ途切れに答える。

「は……はい……。わたくしは、汪直様の、忠実な家来で……御座います……!」

「では、答えよ。愛洲太郎左衛門は、何を目的に、北京へと参ったのか?」

 がくり、と小七郎は項垂れた。

 ぽつり、ぽつりと、小七郎は答える。

「何でも、紫禁城にある、宝物を探しに来たらしう御座います……」

 汪直は、がっかりとなった。

 何だ! どのような陰謀があるかと疑ったが、相手は詰まらぬ、こそ泥ではないか!

 今まで無数の泥棒が、紫禁城を目指して虚しい努力を繰り返している。それら有象無象の泥棒たちの試みは、悉く紫禁城の固い防備に跳ね返されてきた。

 折角、汪直が太郎左衛門に対し、わざと紫禁城に招き入れる工作をしたのも、もっと大掛かりな陰謀があるのではないかと、先回りしたのだが、無駄だった。

 まあ、良い。相手が詰まらぬこそ泥だろうが、汪直は全力を持って叩き伏せる覚悟だ。

 数日中に、太郎左衛門は紫禁城に足を運ぶ。その時に、対決すれば、簡単に始末できるだろう。相手は武芸者らしいが、汪直の敵ではない。

 そこまで汪直が考えを巡らせたときに、一人の部下が、慌しく足音を響かせ、入室してきた。

 ごんだ!

 汪直の部下のうち、最も大柄で、力も強い。少々身動きは軽快さを欠くが、その分、実直で、汪直の命令には無条件で従う。

 もっとも、汪直の部下全員が、艮と同じく、一切の批判、疑問を抱かず、行動するのだが。

「汪直様! 皇太子暗殺の企て、どうやら、しくじりまして御座います」

 艮の表情には、何の感情も浮かんでいないが、口調には抑え切れない悔恨が滲む。

「何っ!」

 弾かれたように、汪直は艮に向かい合った。

「詳しく報告せよ!」

 艮は極力、感情を表さないよう、淡々と事実を述べた。

 汪直は、感情に流される報告を最も嫌う。艮の報告に逐一、頷くうちに、汪直は手を挙げ、中断させた。

「待て! 例の倭人が関わったと申すか?」

「左様で……」

 汪直はぎりっと、歯を食い縛る。

 あ奴め……!

 甘く見た!

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