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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十章 巫士と巫蠱
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 汪直は、安甫を、西廠へと案内した。

 西廠の中に入り、安甫は物珍しそうに、周囲を何度も見回した。汪直と安甫の後ろから、藍色の官服を身に着けた部下たちが、影のようにつき従う。

「ここが、噂の西廠で御座るか?」

 安甫の顔には、戸惑いがあった。

 西廠は汪直が設立した官衙で、宦官による諜報機関といえる。西廠はある意味、紫禁城において恐怖の象徴で、汪直に睨まれると、即座に粛清の対象になると、百官は戦々恐々となっている。

 噂の恐ろしさに比べ、安甫の目の前に存在する西廠の建物は、拍子抜けするほど月並みな造りだった。

「大した建物ではありませんでしょう?」

 汪直は、安甫の背後から、軽く声を掛けた。

 安甫は汪直に向き直り「ははは……」と力なく笑い、頭を掻いた。安甫の顔には、阿諛おべっかが、ありありと見える。

「いやいや……。さすが汪直殿。建物の細部に金を掛けるより、お仕事に専念なさっておられるのですな! いや、この安甫、感服しましたぞ!」

「こちらへ……」

 汪直は、安甫の阿諛には丸っきり関心を示さず、平板な声音で促した。安甫は汪直の反応に、ひくりと全身を震わせ、慌てて追い掛ける。

 幾つかの廊下を曲がって、汪直は一部屋に安甫を案内した。部屋に踏み込み、安甫は内部を窺う姿勢になった。

 部屋は、西廠のどこにでも共通する、実用一点張りの造りだった。壁は漆喰を粗く塗りたくり、政府の建物に見られる華麗な装飾の類は、一切、見られない。

 汪直と安甫の目の前に一脚の椅子が置かれ、一人の少年が腰掛けている。少年は両手を軽く膝に乗せ、真っ直ぐ背を椅子に当てて、静かな様子を保っていた。

 安甫は、そろそろと少年に近づいた。ひょい、と腰を曲げ、顔を少年に近づける。まじまじと少年の顔つきを観察し、僅かに驚きを示した。

 手の平を目に近づけ、ひらひらと何度も振った。しかし、少年の姿勢は、微塵も崩れず、両目はぽかりと、虚ろに開いたままだ。

 良く見ると、少年の瞳孔は、不自然なほど大きくなっていた。黒々とした瞳孔のため、虹彩は、ほとんど一筋の輪ほどに縮まっている。

「この少年は?」

 安甫は、顔だけ汪直に捻じ向け、問い掛ける。

 汪直は軽く頷いた。

「左様、察しの通り、そこの少年の意識は、薬で眠らせております」

「ふーむ……。そのような薬、噂には聞いておったが、実在するとは、今の今まで、信じられなかったですなあ!」

 安甫の感想に、汪直はわざとらしく、大声で笑った。

「ははははは! 何を白々しい……! 人の意識を眠らせる薬については、お手前がよっぽど詳しいのではないかな?」

 安甫は、さっと身を起こした。

「何を仰るのです?」

 汪直はずいっ、と一歩前へ進み出て、安甫に顔を押し付けんばかりにし、早口で追及した。

「謁見の間において、お手前が香炉に仕込んだ香……。あれは、何で御座る? 莨蒼の根を使ったので御座ろう?」

 莨蒼、日本では走野労などと表記する。和名ではハシリドコロで、ベラドンナの仲間である。スコポラミンなどのアルカロイドを含有する。薬効は、大脳皮質を麻痺させる、瞳孔を開かせるなどが知られている。摂取量を間違えると、死に至る毒物である。

 汪直は、安甫の耳に囁き掛けた。

「聞いて御座るぞ! お手前は以前、仙術を学ぶ学舎を開くと称し、付近の女童を集めて薬を嗅がせ、色々といかがわしい行為に及んでいたのであろう。どうやらお手前は、月のものが未だないほど幼い、女童が趣味らしいのう……! お手前の所業がばれそうになると、慌てて引越し、引越し先で同じような所業を繰り返しておったな?」

 汪直はすっと身を離し、勝ち誇った声を上げた。

「調べは、ついておる! 儂の調べ上げたお手前の所業、陛下に言上すれば、まず、無事には済ませられぬな!」

 安甫は、茹蛸のごとく、見る見る真っ赤になった。汪直にそっぽを向き、小声で呟く。

「儂に、何をせよと仰せで?」

 汪直は少年を指し示した。

「あの子供、中々強情な性格をしておってな、儂の思う通りにならぬ。それで、莨蒼を験したのだが、分量を間違えて、あのようなザマになってしもうた。素人の哀しさだな。やはり、ここは充分な経験を積んだお手前の手を、煩わせなければならぬ!」

 安甫の両目が、裂かんばかりに見開かれる。ぶるぶると、細かく顔を左右に振って汪直に向かって掻き口説いた。

「それでは、拙者の手には負えませぬ! もし無理矢理、処方した結果、まかり間違えば、あの少年は、死んでしまうかも……」

 汪直はぐっと、安甫を睨み据えた。視線の強さは、安甫の身体を貫かんばかり。

「それは承知だ! だからこそ、お手前を呼んだのだ! 何が何でも、あの少年を儂の思い通りにせねばならぬ! さあ、愚図愚図せず、お手前の技を揮わぬか!」

 その時、汪直の背後に控えていた、藍色の官服を身に着けた部下たちが身じろぎした。武器を身に着けていた様子はないのに、手品のように全員の手に、様々な武器が現われている。部下たちは手にした武器の切っ先を、安甫に突き付けていた。

「わ……判り申した……! と、ともかく、できうる限りの努力をいたす!」

 安甫は覚悟を決めたのか、唇を引き結ぶと、少年の前に進み出た。

 屈み込んで、少年の様子をとっくりと観察する。指を耳に近づけ、ぱちりと鳴らしたり、手の平をひらひらと目の前で閃かした。

 やがて納得が行ったのか、汪直の部下たちに命じて、少年の身体を、床に仰向けに横たえさせた。

 安甫は懐から、幾つかの薬草を取り出した。取り出した薬草を手の平で磨り潰し、香炉に納めて点火する。

 香炉から煙が立ち上ると、少年の鼻に近づけ、嗅がせる。

 少年の服を脱がせ、上半身裸にさせると、塗り薬を手に盛り、胸にたっぷりと塗りつけ、伸ばす。さらに臥せにすると、背中にも同じように塗りたくった。

 安甫はさらに、細くて長い針を取り出した。針先は、髪の毛のように細い。手にした針を、そろそろと少年の背中に近付ける。

「汪直殿。この針をこの子供の背中に突き刺し、暫く待てば、正気づきまする。しかし、拙者の処方で、死ぬ場合も多い。それだけは、覚悟してもらわないと、困ります」

 安甫の言葉に、汪直は冷厳に答えた。

「その場合は、お手前の命がなくなると思ってもらう!」

 抗議しようと口を開きかけた安甫だったが、汪直の表情を目にして、慌てて少年に向き直った。緊張に、安甫の顔は固く、強張っている。

 息を吸い込み、安甫は針先を、じわりと少年の背中に近付けた。

 首筋に三本、腰の辺りに一本、さらに後頭部に一本、針が突き立てられた。少年に刺さった針は、銀色の鋭い光を反射させ、ぶらぶらと揺れている。

「痛くはないのか?」

 汪直の質問に、安甫は頷いた。

「苦痛は一切ありませぬ。苦痛を感じる点を、避けて突き刺して御座います。人間の身体には、無数の経絡・脈が走って御座いますが、正しく刺激すれば、陰陽の気の流れを、正常なものに治療でき申せます」

 安甫の返答は、自信に溢れていた。先ほどまでの、脅されていた口調は、影も形もない。

 汪直は腕を組み、結果を待った。

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