一
紫禁城謁見の間。玉座を中心に、百官が居並んでいる。百官から離れ、汪直が一人、全体を見回す場所に座を占め、立っている。
汪直の顔には、何の表情も浮かんでいない。が、二つの瞳は、熱っぽく、謁見の間の、ある一点に注目していた。
汪直が注目しているのは、玉座前である。玉座前に一人の人物が蹲り、何やら不思議な仕草を繰り返していた。
人物はどうやら、道士と呼ばれる職種らしい。ゆったりとした道服を身に着け、頭には見慣れぬ冠を被っている。左手には香炉を掲げ、右手は宙を掻き回すような仕草を繰り返していた。
床には様々な器物を置き、道士は時折それらの器物に触れたり、音を鳴らしたりしている。
玉座に腰掛けている成化帝は、瞬きもせずに道士を注視している。肘掛けに置いた手は、がっしりと掴んだまま動かず、手の甲には太く血管が浮いていた。
静寂の中に、期待が一杯に孕んだ。全員が、次に起きるであろう奇跡を、待ち構えている。
やがて頃合は良しと見たのか、道士は香炉を床に置き、両手を合掌させ、一心不乱に呪文を呟き始めた。道士の呪文は単調で、低く、耳を澄ませていないと、聞き取れない。
ゆらゆらと、道士は膝をついた姿勢のまま、上体を前後左右に揺らし始めた。床に置いた器具のうち、柄のついた羽箒のようなものを手にとると、さっさと周囲の宙を払った。
ちーん……と、澄んだ音が響いた。
道士が鉦を鳴したのだ。鉦の音は、陰々と謁見の間に鳴り響き、いつまでも耳に残る。
謁見の間の全員が「はっ」と息を吐いた。
道士と成化帝の中間に、何かが存在する!
それは、しかとは見定め難い〝何か〟であり、つと目を逸らせば見えなくなる。陽炎のようにあわやかな存在だった。
「おお……おお……!」
成化帝は、ふらりと玉座から立ち上がった。
視線は間の前の奇跡に、一瞬たりとも離れずにいる。謁見の間にいる全員が同じものを見ているのだろうか? ある者は茫然と口を開け、ある者は恐怖の表情で、目を一杯に見開いている。
衛士の右手が、腰に差した刀に伸びている。柄に手が添えられるのを見て、汪直はするすると音もなく近寄り、衛士の耳に口を寄せて囁いた。
「宮中で御座るぞ! お静かに」
汪直の言葉に、衛士はびくっと、身体を痙攣させた。自分の行為に気付くと、慌てて手を離し、汗を拭う。
「かたじけない」
汪直に顔を向け、感謝の色を浮かべた。
ちーん……。
再び道士が鐘を鳴らした。
謁見の間に張り詰めていた空気が、一瞬に拭い去られていた。
居合わせた全員から、「はーっ!」と溜息が漏れる。皆、目が覚めたように、瞼をぱちぱちとさせ、頭を何度も左右に振っていた。
「見事じゃ……!」
玉座にどっかりと腰を落とし、成化帝は感嘆の声を上げた。
「しかと、我が目で見たぞ! 其方の技により、仙女が我が紫禁城に降臨いたした!」
成化帝の目には、感動の光があった。立ち上がった道士は、得意然と口髭を捻り上げ、言上する。
「陛下の御前に現われしは、九天玄女様で御座いましょう! 陛下の治世を寿ぐために、御来臨なされたので御座います!」
「陛下万歳!」
道士の言葉に、ぼうっとなっていた一同が、声を揃えて叫ぶ。
汪直はその場の光景を、皮肉な笑みを浮かべ眺めていた。
謁見の間では、同じような場面が、何度も繰り返されている。成化帝は近ごろ、いよいよ道術に凝っていた。汪直はそんな成化帝に、次々と道士、方士を探し出し、召し出して紫禁城に入り込ませていた。
成化帝は興奮に顔を真っ赤にさせ、道士に向かって叫んだ。
「其方を、礼部侍朗に任命いたす!」
礼部侍朗とは、宮中の典礼全般を監督する重要な役職である。たった一度の道術披露で、いきなり重職を与えるとは、よほど成化帝は感銘を受けたと思える。
なぜ汪直が、せっせと成化帝に道士、方士の類を紹介させるのか。それも、汪直の狙う、明帝国弱体化の一環だ。
怪しげな術を使う連中を、次々と近づけ重職に就ければ、まともな神経の役人は仕事への熱意を失うに違いない。熱意の喪失は腐敗に繋がり、明帝国の弱体化に繋がる。
案の定、一座の中で、百官たちは一様に苦い表情を浮かべる。こそこそとお互い肘を突付き合い、何事か相談していた。
汪直と目が合うと、憎しみを込めて睨んでくる。次々と道士を探し出し、送り込む汪直に、自分の地位が危ういと感じているのだ。
玉座の前から引き下がる道士を追い掛け、汪直は声を掛けた。
「もうし、安甫殿! 少しく、お時間を頂きたいのですが」
安甫とは、道士の名前だ。安甫は汪直の顔を見ると、満面に笑みを浮かべ、拱手の礼をとった。何しろ汪直は、安甫を紫禁城へ送り込んでくれた恩人だ。愛想良くするのも、無理はない。
「これはこれは、汪直殿! 何事ですかな」
「少々、安甫殿の手を煩わせて頂きたいのですが……。安甫殿のお得意の手で……」
汪直はそこまで口にして、意味ありげな表情になる。
「拙者の得意技……ですかな?」
安甫は用心深い表情になった。汪直は安甫の肩を抱かんばかりに近づき、謁見の間から一刻も遠ざかるよう、促す。
「何、安甫殿には、そう煩わせませぬ。お話は、あちらで……」
半ば強制的に、汪直は安甫を連れ出した。安甫の目に、やや怯えが見える。安甫もまた、汪直の、色々な、芳しからぬ噂を耳にしているのだろう。
密かな足音に安甫が背後を振り向き、ぎくりと硬直した。
汪直と、安甫の後ろから、藍色の官服を身につけた男たちが近づいてくる。全員、汪直の姿を写したように、鍛え抜いた身体つきをしていた。全員が放つ剣呑な雰囲気は、触れれば切れそうなほど。
「さ、参りましょうか?」
汪直は何気ない口調で、安甫に声を掛けた。




