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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第九章 巫蠱の毒
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 どこをどう、逃げたのか、追っ手を完全に撒いたと確信した時には、久忠はまるで見知らぬ一画に迷い込んでいる自分に気付いた。

 北京城内は広い。それに、久忠は北京に来て日が浅く、地理にも不案内だ。全身ぐっしょり汗みずくになり、クタクタになっている。

 どこかで休まねば……。

 飯屋を見つけ、久忠は店の奥まった場所に席を取った。

 近くには裏口が続いている。入口を見張っていられるから、仮に追っ手が入ってきた場合でも、裏口から逃げられる。

 食事を頼み、久忠はようやく落ち着きを取り戻した。腕を組み、考えに耽る。

 敵はどうやって、朧を連れ出したのか?

 階下にいた久忠は、丸っきり気配を感じなかった。意識を失ったとしても、朧は相当に大柄で、運び去る際には、音がしたはず。しかし久忠の耳は、何も捉えられなかった。

 それに、朧を誘拐した目的は何だろう? 拷問でもして、久忠たちの任務を暴くつもりか?

 しかし、朧は忍者だ。拷問などで白状する気遣いはないだろう。もしもの際には、あっさり自身を始末するくらいは、ありえる。

 じっと久忠が考え込んでいると、出入口に数人の影が差した。目を上げると、若い男を中心に、数人の男女が、出入口近く席を取っている。

 一同の中で、中心人物らしき若い男は、身なりは粗末だが、気品があった。隣の男と、小声で何か相談をしている。

 若者の顔を見た久忠の頭に、かーっと血が昇った。

 あれは! まさか、こんなところで!

 だっ! と椅子を蹴立て、久忠は立ち上がると、つかつかと目指す席へ歩み寄る。

「小七郎っ! ここにいたのかっ!」

 小七郎、と呼び掛けられた相手が「え?」といった表情で、顔を上げる。久忠を見上げた顔は、間違いない、久忠の息子、小七郎そのものだ。

 もう一度「小七郎っ!」と叫ぶと、若者は不審そうな顔つきになった。

「申し訳ないが、あなたは、どなたです?」

 落ち着いた声音だが、若者の口から出たのは、漢音だった。それも、久忠の操るような片言ではなく、生粋の漢人らしい発音である。

「何を申しておる? 儂を見忘れたか!」

 堪らなくなり、久忠は両腕を伸ばすと、若者の両肩をがっし、と掴んでいた。

 うわっ、と若者を取り囲んでいた男女が立ち上がる。

 向かい側に席を取っていた中年の男が、怒りを込めて久忠の腕を振り払った。

「何をなさる? 無礼は許しませぬぞ!」

 中年の男の言葉遣いは、庶民のものではない。明らかに宮仕えを経験した者らしき、口調だ。

 どうなっている……。

 目の前の若者は、小七郎ではないのか?

「お主、小七郎ではないと、申すのか?」

 久忠は、もう一度、今度は漢音を交えて若者に問い掛ける。若者は、狂人を見る目付きで、久忠を見返していた。

 若者は衣紋を寛げ、むっとした表情になった。

「わたくしは、あなたを知らない。放っておいて貰えないだろうか?」

 若者を守るように取り巻いている男女は、疑いの視線で、久忠を見詰めていた。

 服装は粗末で、ありふれていたが、共通しているのは、どことなく貴族的な動作だ。背筋が真っ直ぐ伸び、食事を摂る仕草も、この辺りの住民には決して見られない、優雅さを感じる。

 久忠の手を振り払った中年の男は、若者を守るつもりか、腰の刀に手を掛けていた。

 まるで、若殿を守る家来だな……。

 久忠の耳が、聞き慣れぬ楽器の音を捉えていた。

 どう対応して良いか判らなくなった久忠は、ふと音の方向を見やる。大路の向こうから、楽器を鳴らしながら、一団の男女が列を作って近づいてきた。

 全員、煌びやかな衣装で、顔には様々な仮面を被っている。どうやら芝居の宣伝らしい。楽団の後ろからは、のぼりを掲げた列が続いていた。

「さあさあ、これより始まりまするは、三蔵法師と三人の弟子による、波乱万丈の物語。『西遊記』特別公演の御報せで御座います! 今夕お披露目いたすのは、広場にて牛魔王と孫悟空の決戦を演じまする!」

 わあっ、と子供たちが歓声を上げ、集まってきた。声を張り上げた劇団員は、集まってきた子供たちに菓子を配り、今宵に演じられる劇について、面白おかしく宣伝している。

 ぴょーん! と列から、孫悟空の仮面を被った役者が、蜻蛉とんぼを切って飛び出した。役者の動きに合わせ、楽団が笛や銅鑼を鳴らして盛り上げる。

 くるりっ、と孫悟空の顔が、久忠たちの方向を向く。

 久忠は直感的に、危険を察していた。

「危ないっ!」

 叫ぶと、若者の襟を掴み、地面に引き倒していた。

「何をなさるっ?」

 中年男が叫ぶ。

 がたんっ、と卓が傾いた。傾いた卓に、かつんと音を立て、吹き矢が突き刺さる。

 見ると、孫悟空が口に吹き矢の筒を当て、構えていた。

「見ろっ」

 喚いた久忠は、卓に突き刺さった吹き矢を引き抜き、中年男に示す。中年男は両目を見開き、唇を噛み締めた。

 だっと久忠は立ち上がると、孫悟空に向かって駆け出した。すでに腰の刀を抜いている。

 孫悟空は駆け寄る久忠に向かい、筒先を向けた。ふっと息を筒に送り込む。

 久忠は無意識に刀を振り払った。刀身に手ごたえを感じる間もなく、たんっ、と地面を蹴って空中に飛び上がる。孫悟空は、蜻蛉を切って、背後に飛び下がった。

 くるくると回転を続け、孫悟空の刺客は、数間も久忠と距離をとる。

 糞……ちょこまかと動きおって……!

 久忠は苛立った。相手の動きが読めない。

 じゃんじゃんと喧しい音を立て、楽団が楽器を掻き鳴らしながら、久忠と刺客の間に割り込んできた。久忠の視界を、沢山の幟が塞ぐ。

「どけっ!」

 久忠は楽団員を押し退け、前へ進み出た。

 案の定、刺客は逃げ去った後だった。楽団を追及しようと、そちらを見ると、大路はがらんとして、誰も居ない。多分、刺客の一味だったのだ。

「三平様! 三平様!」

 さっきの飯屋で、切り裂くような悲鳴が上がった。振り返ると、久忠が小七郎と見間違えた若者が、地面に倒れ込み、連れの男女が必死に介抱している。

 では、若者の名前は、三平というのか?

「どうしたっ!」

 声を掛けると、中年男が、涙に濡れた顔を上げた。顔には苦渋の色がある。

「三平様が……」

 男を押し退け、久忠は地面に膝を突いた。目の前に、若者が手足を長々と伸ばし、倒れている。首のところが赤く腫れあがり、男が手に吹き矢を握り締めていた。

「刺さったのか?」

 男は無言で頷いた。

 若者は苦悶の表情を浮かべ、苦しんでいる。では、まだ死んではいない……。

 久忠の脳裏に、閃くものがあった。

「まだ助かるかもしれぬ」

「何とっ! そ、それは本当か!」

 中年男が、目をひん剥き、久忠に詰め寄る。久忠は頷くと、手早く指示をした。

「どこか寝かせる場所を! 住まいは、この近くかな?」

 中年男は狂おしく頷くと、その場で他の男女を指揮して、若者を担ぎ上げた。そのまま大路を渡って、この近くにあると主張する住まいへと歩いて行く。

 久忠の懐には、朧から預かった革袋があった。袋の中には、まだ丸薬がたっぷり、残っているはずだった。

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