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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第九章 巫蠱の毒
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 朧が居ない! 自分で出て行ったのか?

 いや、それは有り得ない。久忠が部屋から出る時、朧はすやすやと寝入っていた。仮にあの後、目覚めたとして、動けるとは思えない。それほど、朧は衰弱していた。

 久忠は、朧が横たわっていた寝床に近寄ると、さっと這い蹲った。床に近々と顔を寄せて、じっくりと観察する。

 寝床から、窓にかけて、床に何かを引き摺ったような痕跡を見つけた。僅かな埃の上に、複数の足跡が認められる。窓枠を見ると、細かな傷があった。

 とすると、窓から朧は連れ去られたのか?

 窓に上半身を突き出して、周囲を見回すと、低い民家のいらかが、びっしりと広がっていた。

 良く見ると、瓦の幾つかが、踏み抜かれて割れている。割れた跡は、南東に向かっていた。紫禁城とは、逆の方向だ。

 糞っ!

 歯噛みして、久忠はくるりと踵を返すと、部屋から飛び出し、廊下へ引き返した。

 まんまと自分はおびき出された! 久忠を宿から引き離し、その間に敵は悠々と、朧を襲撃したに違いない!

 汪直は、久忠の反応を計算して、ぬけぬけと「部屋へ伺ってよろしいか?」と口にしたのだ……。

 俺は馬鹿だ! そんな敵の意図も見抜けないとは……。あげくに、奴から一本を取ったと、間抜けにも思い込んでいた。

 宿から通りに飛び出し、久忠は朧が連れ去られたと思われる方向を目指し、全力で駈けた。

 大路にはすでに沢山の人間が姿を現していたが、血相を変えて走る久忠に、わあっ! と悲鳴を上げ、逃げ惑った。

 大路から裏通りに潜り込むと、久忠は太陽を見上げて、方向を見定める。

 無我夢中で駈けて行くうち、途中ではっ、と気付いて立ち止まった。

 ここは敵の気持ちになって、考えるべきだ。奴等は、重い朧の身体を抱えている。そう、遠くへ逃げられないのでは? 闇雲に走っても、解決にはならない。

 そのつもりになって、周囲を観察すると、大きく雰囲気が変わっている。久忠がいる場所は、北京城内の、ほぼ東南角で、高い塀がせまって、最も日当たりの悪い場所だ。

 ここに住むのは、北京でも貧しい階層が集まっている。当然、治安も悪い。

 久忠の歩みは遅くなった。

 ジトジトとした地面に、あちらこちらに、住民が座り込んで、ジロリと久忠に視線を送っている。それも、上から下まで値踏みするような見詰め方だ。久忠は自分の背中に、粘りつくような視線を感じていた。

 す──と、座り込む住民の一人が、地面から立ち上がる。何気ない風を装い、久忠の背後にぴったりと従いてきた。

 一人、また一人と周囲の人間が立ち上がり、久忠に近づいてきた。

 良く見ると、全員、何らかの武器を持っている。たいてい、棒とか包丁だが、油断はできない。

 明らかに久忠は、ここでは場違いだ。身なりも、周囲の男たちに比べ、上等の部類で、良いカモに見えているのだろう。

 遂に、袋小路に突き当たる。

 ゆっくりと、久忠は向き直った。

 目の前に十数人の男が取り巻いている。皆、無言で、まるで緊張感はなかった。どの男の目にも感情らしきものは、浮かんでいない。

 魚の目だ……。

 久忠はちらっと、そんな感想を持った。

 ゆらりと、一人が一歩、前へ進み出た。どうやら頭目らしく、身体は男たちの中で一番大柄だ。袖無しの着物を身につけ、剥き出しの両腕には逞しい筋肉がついていた。

「あんた、ここへ何しに来た?」

 顎を挙げ、唇をほとんど動かさない喋り方で問い掛ける。

 久忠は唇を舐め、答えた。

「人を探している」

「ほう、人を──ね……」

 ぐすっ、と男が鼻を鳴らした。笑っているつもりらしい。が、顔には、欠片ほども笑みは浮かんでいない。

「珍しい刀だなあ」

 右端にいる、見るからに狡賢そうな小男が、久忠の腰に差している大小を指差した。気軽な仕草で、ひょいと片手を伸ばす。

「触るでないっ!」

 かっとなって、久忠は素早く小男の手を振り払った。ばしっと手の甲を打たれ、小男の顔に、怒りが現われた。ここに来て、初めて久忠が目にした、感情の表出だった。

 久忠が小男の手を振り払った瞬間、その場の雰囲気が一変した。

「野郎!」「殺せっ!」「逃がすなっ!」

 口々に叫び、手にした得物を構える。

 久忠は刀の柄に手をやっていたが、抜くつもりはなかった。

 こんな連中に刀を抜くなど、久忠の自尊心が許さなかった。久忠の所持する刀は、名工が鍛えぬいた、名刀である。刀の錆にするには、もったいなさすぎる……。

 わあっ、と喚き声を上げ、最初に襲い掛かったのは、さっきの狡賢そうな顔つきの小男だった。

 手にしているのは、一本の棒だ。

 殴り掛かるのを、さっと避けると、久忠は相手の手首を掴む。そのまま相手を腰に乗せ、同時に足を飛ばして、内股に絡める。

 くるりと、綺麗な円を描き、小男は一回転をして、地面に背中を打ちつけ倒れ込む。

「ぐえっ!」

 奇妙な声を上げ、小男の全身はぴん、と硬直した。背中をしたたかに打ちつけ、苦痛に声も出ない。

 さっと身を起こした久忠の手に、小男が握り締めていた棒が移っていた。

「死ねやあっ!」

 頭目と思われる、大柄な男が襲いかかる。手にしているのは、重そうな牛刀だ。ぶーんと、垂直線を描いて振り下ろす。

 久忠は手にした棒を、真横に振り払った。

「うぎゃっ!」

 大男は苦痛に顔を顰め、手にした牛刀を取り落とした。久忠の横に薙いだ棒が、男の手首を直撃していた。

 久忠は横に薙いだ棒を構え直し、今度は真っ向微塵に振り下ろす。

 こーん! と虚ろな音がして、久忠の棒は、男の脳天に命中していた。

「ふんっ……!」

 男の目玉が、くるりと裏返り、白目になった。とんとんと踏鞴を踏み、そのまま全身を棒のようにして、ばたりと仰向けに倒れる。

 ぐしゃ! と厭な音がして、男は地面に後頭部を打ちつけた。

 わっ、と周囲の男たちが身を引いた。

 じわじわと、倒れた男の後頭部から、地面に血潮が広がっていく。びくびくと、男の全身が痙攣している。

「死んだ!」「あいつが殺した……!」

 久忠は手にした棒を投げ捨て、茫然としている男たちの輪に突進する。

 わっ、ひえっ……と、悲鳴を上げ、男たちは久忠の突進に慌てて引き下がった。空いた切れ目に、久忠は身体を捻じ込み、そのまま跡を見ずに逃走を開始した。

「追い掛けろ! 仇を取ってやる!」

 背中にそんな叫び声が聞こえたが、久忠は振り返りもせず、走り続けた。

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