六
階下で久忠を待っていたのは、藍色の官服を身に着けた、若い男だった。
すらりとした身体つきで、落ち着いた物腰は、紫禁城でも高い身分を持つ者ではないかと、思わせる。
男の服を良く見ると、形は簡素で、色も地味だが、仕立て、生地どちらも贅沢そのものだ。無地に見えるが、近寄れば、細かな模様が織り込まれているのが判るだろう。
このような服を身に着けられるのは、相当に高い身分でなくては適わない。
「拙者が、愛洲太郎左衛門で御座る」
久忠が先に名乗ると、相手は両手を胸の前に組み合わせ、礼をした。
「汪直と申す者です。噂では、かなりの腕前とか。王宮を守る魚林軍のため、愛洲様に披露を願いたく、罷り越しました」
汪直と名乗った男の声は、奇妙に甲高かった。むしろ、十二歳くらいの、男の子の声に聞こえる。
不思議なのは、汪直の顔に全く、髭が見当たらないところだった。綺麗に剃っているのかと思ったが、そもそも毛根が見当たらないのだ。
まるで女の肌をした男のようだと、久忠は感想を持った。
久忠の視線に、汪直は、にっこりと笑い返した。
「拙者の正体に、不審をお持ちのようですな。拙者は宦官なのです。宦官について、何かお聞き及びでしょうか」
汪直の言葉に、久忠は驚きを隠せなかった。
「そ、それは、少しは耳にしております。なるほど、汪直殿は宦官で御座ったか……」
後を続けられず、絶句してしまう。
宦官についての知識は、久忠はそう詳しくはない。それでも幼い頃、陽器を抜いた場合、声は少年の高さを保ち、肌も女のように滑らかになる、くらいは、知っていた。
遣隋使、遣唐使などで大陸の影響を受けた日本であるが、科挙、宦官などの制度は、とうとう採用しずに終わった(科挙については、江戸期に一時、採用された記録があるが、全国的なものではない)。
理由は、大陸の王朝が、早くに封建制から官僚中央集権制に移行したが、日本では幕末まで封建制度が残り、封建領主と科挙、宦官の制度が馴染まなかったためとされている。
そのため、日本人が宦官を直接に見る機会は、今の久忠のように北京に来ない限り、まず考えられない。久忠が汪直を宦官と見抜けなかったのも、無理はない。
「お気になさらないで下さい。では、細かな打ち合わせを始めましょうかな。お部屋へ伺っても、よろしいかな?」
滑らかな口調で、汪直は答えた。
挙措動作は優雅そのものだが、久忠は汪直が、相当の修練を積んだ武芸者と見抜いていた。しかし、部屋へ来るだと?
「そ、それは困ります。ええと、従者がおりまして、今、臥せっております」
久忠は、しどろもどろだった。汪直は久忠の言葉に、少し眉を顰めて見せた。
「従者の方が、御病気なのですか? それは、御心配でしょう。紫禁城より、医官を派遣いたしましょうか?」
従者とはもちろん、朧だ。まあ、最初から、朧は久忠の従者として行動する約束だから、今、こう告げても、間違いではない。
久忠は急いで、汪直の提案を断った。
「結構で御座る! それより、外で打ち合わせを致しませんか?」
「それでよろしいなら、私も否やはありませんな」
汪直は気取った様子で、答える。
久忠は内心、汗を掻く思いだった。
朧が切れ切れに伝えた内容では、襲撃してきたのは、藍色の服を身に着けた集団だという。
それでは目の前の、汪直という宦官と、何か関係があるのだろうか?
久忠の訓練された目には、汪直がどのような武芸か知らないが、相当の修練者であるのは明白だった。
もし汪直が朧を襲撃した集団の長なら、なぜ、今の時点で、わざわざ自ら出向いたのだろう? 朧が生きているのか、死んでいるのか、確かめに来たのか?
宿屋を後にし、二人は肩を並べて大路を歩く。
汪直が軽い口調で、話し掛けた。
「愛洲殿は倭から……あ、失礼! あなたがたは、日本と呼ぶのでしたな。日本から明国へいらっしゃったのは、武者修行のためと、聞き及びますが、本当ですか?」
久忠は緊張した。汪直は、探りを入れてきた!
「ええ、その通りです。拙者は、若い頃から、武芸一筋で生きてきましたから。大明国には、沢山の武芸者が居られるのでしょう?」
何とか無難な答ができたようだ。汪直は、久忠の返答に、鷹揚に頷く。
「まあ、何人かは……!」
汪直の血相が、一瞬にして険しくなった。今までの温顔が拭ったように消え去り、後には鷹のように鋭い目付きの、一匹の獣が残った。
二人は立ち止まり、大路の真ん中で睨み合っていた。
久忠は一歩引き下がり、右手を刀の柄に添え、抜き打ちの構えを取る。
汪直は不思議な構えを見せていた。
やや前屈みになり、両腕を顔の前に持ってくると、ぴったりと密着させ、足を前後に軽く曲げている。恐らく、今の奇妙な姿勢は、汪直が身に着けている武芸の、基本的な防御の構えなのだ。
先に緊張を解いたのは、汪直だった。
何事もなかったように背筋を伸ばすと、構えた両腕をだらりと両脇に垂らす。顔は上気していたが、険しい顔つきは、元の温顔に戻っていた。
「失礼仕った! 久忠殿も、人が悪う御座るな!」
「こちらこそ……」
久忠も作り笑いを浮かべ、姿勢を戻した。
何気ない風を装い、大路を歩く二人であったが、久忠は汪直の全身から、ぴりぴりと油断ない気配を終始、感じていた。まるで抜き身の刀が、すぐ側に居るような圧迫感を感じていたのだ。
汪直の出方を見るため、ついでに汪直の武芸の正体を見極める目的もあり、久忠はわざと殺気を発してみたのだ。
案の定、汪直は久忠の殺気に、敏感に反応した。
汪直の両手の拳は、長年、硬いものに打ち付けた修練を積んだ者特有の、胼胝が盛り上がっている。多分、素手での格闘術を身に着けているのだ。
汪直は礼儀正しさを崩さず、久忠が紫禁城で魚林軍に剣術を披露する日取り、手続などを手早く告げると、そそくさと戻って行った。
久忠から遠ざかる汪直は、ほとんど頭を上下させない独特の歩き方で、紫禁城へと消えて行く。
ふうっ、と久忠は溜めていた息を吐き出し、額を拭った。気がつかなかったが、久忠の額には、冷たい汗が、びっしりと吹き出していた。
まずは汪直から、久忠は一本を取った、というべきか……。
久忠の自己満足は、宿へ帰り、自分の部屋へ踏み込むまでだった。
「朧!」
久忠は茫然と、立ち尽くしていた。
朧の姿が、部屋から消えていた!




