二
久忠と朧は、勘定を払うと、何食わぬ顔つきを保って、立ち上がった。二人が立ち上がると、向かい側で見張っていた例の二人組も、あたふたと動き出す。
「素人だな」
朧はいかにも「気に食わぬ」といった表情で、憮然と呟いた。忍者にとって、敵であっても、二人組のあからさまな仕草は、癇に障るのだろう。
「太郎左衛門。儂は背後に回るぞ。お主はぶらぶらと歩いて、奴等を引き付けてくれ」
「判った」
久忠が短く答えると、朧はさりげなく離れる。久忠は曲がりくねった路地に踏み込み、当てもない振りを装い、歩いた。
背後からは、二人組の、どたどたとした足音が追い掛けて来る。朧が分かれた後、二手に別れる策もなく、久忠一人だけを、まっしぐらに追い掛けて来る。
朧の言葉どおり「素人」そのものだ。
ぐるりと路地を回り込み、久忠は紫禁城に戻る道を辿った。心覚えの道筋を辿ると、思ったとおり、広い通りに出てすぐ目の前が南門だった。
頃合は良しと、久忠は二、三歩たたっと走ると、出し抜けに、くるりと振り返った。
わっ! とばかりに、追いかけてきた二人組が、踏鞴を踏んで立ち止まる。久忠の不意の方向転換を、まるっきり予期していないと見えた。
「なぜ、拙者を追い掛ける?」
久忠は大音声を上げ、ぐっと腕を上げて二人組を指差した。
二人組の巨漢のほうが、顔を真っ赤に染めた。色黒のほうは、むっとばかりに、怒りの表情になる。
久忠の大音声で、門前に屯していた付近の人々が、好奇心に駆られ、集まり出す。忽ち、久忠の周りに群衆が出来上がった。
「喧嘩だぞぉっ! 二対一での、喧嘩がおっぱじまるぞぉ……!」
群衆の背後から、良く通る声が上がった。
大声に引かれ、益々群衆が集まってきた。
もう、人垣はびっしりと集まり、その中を掻き分けるなど、できる相談ではない。
朧の策略だ。
人垣の向こうから、朧のつるりとした禿頭が見える。朧は久忠と目が合うと、ニヤリと笑い掛けた。わざと大声を上げ、物見高い野次馬を集めたのだ。
逃げるに逃げられず、久忠を追跡していた二人組は窮地に陥っていた。
「あそこにいるのは、倭人の武芸者だぞ! 見ろ、あの刀を……あんな刀で、どうやって戦うのかのう……」
朧は群衆を煽るため、壮んに吹聴している。
今や群衆は、久忠の剣技を目にしたいという期待に溢れ返っていた。
二人組は人垣を突き抜ける隙を探しているが、群衆はびっしり集まり、いっかな解散する様子はない。
やがて決意が固まったのか、色黒の小男のほうが目を据え、久忠に近寄った。
「おい! 貴様に用があるお方がいらっしゃるのだ。大人しく、我らに従いてこい!」
顔を近づけ、小声で囁いた。小男の口からは、韮の匂いがきつく漂っていた。
「何を世迷言を口にするのか? 用があるなら、そっちから来い!」
久忠はわざと大声を上げた。久忠の逆襲に、小男の瞳に、陰険な光が湛えられた。
「そうか……そっちがそう出るなら、我らにも考えがある。後悔するなよ。俺たちは、何も生きたまま連れて来いとは、言われていないのだ」
小男が引っ込むと、巨漢のほうがぐっとばかりに、一歩前へ踏み込んだ。
すらりと、腰の長剣を引き抜く。
わあっ、と群衆が引き下がった。が、輪は崩れず、三人を取り囲んだままだ。
巨漢が引き抜いたのは、両刃の直刀だった。刃幅は広く、分厚い。
剣を持つ巨漢の二の腕に、もりもりとした筋肉が太い縄のように浮き上がる。剣は多分、二十斤(明代では十二キロほど)はあるだろう。
小男はニタリと笑うと、背中に手をやり、自分の武器を持ち出した。こちらは、両手に短剣を構えている。短剣の刃は薄く、いかにも切れ味が良さそうだ。
久忠は、自分の差料を引き抜いた。
群衆から「おお……っ!」と感嘆の声が上がる。
午後の日差しに、久忠の刀身が青白く光っていた。鍛え抜かれた日本刀の輝きは、大男の振り被る長剣とは、段違いだ。
巨漢は、久忠の刀を目にして、僅かに怯みを見せた。が、久忠の刀と、自分の長剣を見比べ、自信を取り戻す様子を見せた。
大男の持つ長剣に比べ、久忠の日本刀は見るからに細い。巨漢の長剣は、刀身は分厚く、重さも遥かにある。まともに打ち合えば、久忠の日本刀は、ぽっきりと折れてしまうであろう。
ずっしりと腰を据え、大男は長剣を持ち上げる。ふっと息を吸い込むと、両目をくわっ、と見開き、突進してきた。
ぶーんと音を立て、大男の長剣が久忠を目掛け、殺到した。
久忠は充分、余裕を持って、大男の長剣を寸前で躱す。
がっ、と音を立て、長剣の剣先が、地面を噛んだ。
大男はくるっと、意外と素早い動きで久忠に向き直る。顔には、悔しそうな表情が浮かんでいた。
と、わっとばかりに、群衆が沸いた。
久忠に再度、襲い掛かるため、駆け寄る大男の足下が縺れる。そのまま、どっと地面に、顔から先に倒れ込んだ。
大男は、不審そうにきょろきょろと周囲に視線をやった。自分に何が起きているのか、理解できていないのだ。
群衆は、そんな大男の醜態に大口を開け、指差して笑っている。
自分の姿を見下ろし、やっと大男の顔に理解の色が浮かんだ。
大男の下帯が、すとんと足下に下りている。
久忠が、避ける寸前、下帯を切り取っていた。大男は、自分の下帯に足が縺れてしまったのだ。
大男は怒りの咆哮を上げた。
ぶんぶんと、大男は無茶苦茶に自分の長剣を振り回した。もう、型も何もなく、力任せに振り回すだけだ。周囲の群衆は、大男の狼藉に、慌てて輪を広げた。
久忠は大男に対峙しながら、背後に気を配っていた。
色黒の小男が、すっと音もなく回り込む気配を感じる。こちらのほうが、手強そうだ。
久忠の戦いを見守っていた朧が、するすると群衆から離れ、背後に回った。
大男が喚き声を上げ、突進する。
久忠の刀身が、ぎらっと陽光を反射し、閃いた。
「うぎゃーっ!」
大男が苦痛の絶叫を上げる。
がちゃり、と長剣を取り落とし、右手で左手を押さえていた。ぼたぼたと、握り締めた手から、血が地面に垂れていた。
地面に、大男の親指が転がっている。
〝指きり〟と呼ばれる、剣術の秘法だ。久忠の剣先が、一瞬で大男の親指を抉り取っていたのだ。親指を切り取られたら、もう、剣は揮えない。
背後で「ぐっ!」と押し殺した声が上がる。
振り返ると、小男の腕に、小刀が突き刺さっている。
久忠の背後から、こっそり忍び寄り、短剣を突き刺そうとした刹那、朧が投げつけていたのだ。
小男は、腕を押さえながら唇を噛み締める。両目が、怒りに燃え上がっていた。
「逃げろっ!」
大男に叫ぶと、群衆に体当たりを懸けた。
野次馬たちは、小男の突然の動きに、思わず道を空けた。空いた空隙を突いて、小男は後ろを見ずに、駆け去って行く。
「兄貴、待ってくれよぉ……」
情けない声を上げ、大男が小男を追って、走り出す。二人が大路をこけつまろびつ、逃げて行くと、朧がちらっと久忠に合図した。
久忠が頷き返すと、朧は二人を追い掛け始めた。
「凄え……。あんなの、初めて見た!」
「刀の動き、目に止まらなかったぞ!」
久忠が鞘に刀を納めると、周囲の群衆から賛嘆の声が次々と上がる。
野次馬たちを無視して、久忠はゆっくりと、その場から立ち去った。




