一
ぱんぱんと耳を劈く破裂音に、鼻腔を突き刺すような異臭。
思わず久忠は、腰の刀に手を添え、身構えていた。
「落ち着け。ただの爆竹じゃ!」
久忠の肩をぐっと掴み、朧が制止した。
「爆竹? それは、何じゃ!」
「花火の一種だよ。漢人の間では、祝い事があると、壮んに爆竹を鳴らして、祝いを表すのだ」
久忠は生まれて初めての経験に、完全に自分がいる場所を忘れていた。
そうだった! 久忠は、明国の首都、北京に来ているのだった!
甲高い笛の音と、ジャンジャンと喧しく鳴る銅鑼の音に合わせ、目の前に龍の張りぼてが無数の演者に操られ、くねくねと宙を動きながら通り過ぎる。
火薬の発明は、唐代で、宋を滅ぼした金が武器として使用したとされる。その後、この大陸では、武器よりも、花火などの娯楽に壮んに使用されている。
日本人が火薬の威力を経験したのは、元寇の時代で、モンゴル軍が壷に詰めた火薬を投げつけ、その音に、鎌倉騎馬軍が大いに翻弄されたという記録がある。
その後、日本では種子島に来貢した南蛮船から火縄銃が持ち込まれるまで、火薬については、ほとんど日本人は無知であった(種子島へ鉄砲が持ち込まれる以前、大内氏と尼子氏との間で、鉄砲を使用した戦いの記録があるが、全国的に鉄砲が普及したのはその後である)。
久忠が知らなかったのも、無理はない。
「朧、お主は随分、色々知っておるようじゃな。以前に、北京へ参ったのか?」
朧は、無毛といっていい眉を動かし、皮肉そうな表情になった。朧のいつもの反応だ。
「こちらへ参ったのは、今回が初めてじゃ。じゃが、北京を訪れた日本人、漢人から、様々の知識を仕入れている」
久忠は、改めて自分がやって来た首都を眺め、感慨に耽った。
まさに大明国の首都に相応しく、日本の京など、足下にも及ばない。
まず目に触れるのは、首が痛くなるほど見上げないと、頂上が視界に入らない高々とした城壁だ。総て、專と呼ばれる黒々とした焼き煉瓦で積み上げられている。この專を焼くため、燃料に森林が伐採され、山々の保水力が弱まり、しばしば洪水が起きているほどである。
門を潜ると、大路が目の前に広がる。町割りは、京と同じ──いや、京が長安や、この北京のように大陸の都を真似て造られているから話は逆だが──方形となっている。
真っ直ぐな大路が中央を走り、東西南北に街路が区分けされている。路面もまた、石畳で、まさに石造りの町だ。
閉口するのは、猛烈な臭気だ。
家々から排出される生塵に加え、大小便をそのまま路面に捨てている。多くは川に捨てているが、川面はどんよりと濁り、これまた悪臭の源になっている。
さらに無数の露店が、ありとあらゆる路地に出店して、目の前で油や、濃い出汁で煮上げられた料理から食欲を刺激する匂いが漂っている。
それらの夥しい臭気が、久忠の鼻腔に襲い掛かってくる。久忠は、この匂いに慣れるのは、相当な忍耐を必要とするだろうと思った。
「さて、これからどう致す?」
朧が、久忠の脇に立ち、のんびりとした口調で話し掛けてきた。朧の視線は、大路の果て、紫禁城に向けられている。
北京は大きく、外城と、内城に分けられる。
外城は南半分を占め、内城は北半分で、内城が範囲は大きい。紫禁城があるのは、内城である。
二人は肩を並べ、紫禁城の方向へ歩いて行く。北京の大路には、様々な出身の人間が犇き、二人の日本人の姿も、他人目を引かない。
青い目と、尖った鼻の西域商人。真っ黒な肌をした、天竺からの旅人。
僧衣を身に纏って托鉢しているのは、チベットからの僧侶だ。南方の、小柄な体躯をした人々の姿もある。
北方からやって来た遊牧民の姿も、ちらほら見掛けられる。強敢で知られる騎馬民族であるが、さすがに大明国を支える首都の北京では、行動を控えめにせざるを得ない。
朝早くから歩いて、昼頃になり、ようやく紫禁城南門(牛門)が見えてくる。人込みが酷く、掻き分けるように進まなければならず、二人の歩みは遅々としていた。
南門は、鮮やかな紅で塗られ、厳重な警護がなされていた。門を守る衛士は、通り過ぎる人々を、一瞬の油断もなく見守っている。
紫禁城を取り囲む内城の城壁を、朧が腕組みをして見上げた。城壁は軽く十丈(約三十メートル)はあり、侵入者を拒んでいる。
久忠は朧に話し掛けた。
「越えられるか?」
「まず、無理であろうな。鉤を掛けようにも、壁面は真っ平らで、鉤が掛かる窪み一つ、ない。城門はどうやら、四六時中ずっと衛兵が見張っておるようじゃ」
朧は妙に分別臭い表情で、静かに答えた。二人の会話は日本語で、衛士に内容を察せられる心配は、まずない。
「離れよう。見られておる」
久忠はこちらを胡乱げに見詰めている衛士の視線が気になり、歩き出した。朧も久忠の後に続いた。
会話を聞き取られる心配はないが、明らかに怪しいと思われたのだ。
久忠の目的は二つ。
一つは紫禁城にあるとされる、天叢雲剣を探し出す。もしくは、それに似た何かを。
もう一つは、小七郎とアニスの行方を突き止める。
前者は朧の任務であるが、後者については、朧の協力はあてにならない。元々、小七郎も、アニスも、同道させる久忠の決定に、反対し続けていたのだ。
相談するため、久忠は食事処を探した。北京には、多数の飯屋が軒を並べている。
北京に住む人々は、たいてい自宅では食事を摂らず、安直な飯屋で済ませる。または、自宅前に卓を並べ、飯屋に注文した料理を配達させ、家族が揃って食べるのが普通だ。
どうも、こうして堂々と食事するのは、一種の見栄かもしれない。こうして「我が家は豊かな食事ができる」と自慢しているのだ。
二人が選んだ飯屋も、食事は外に並べられた卓を囲んで摂る。
卓に向かい合い、久忠は朧に話し掛けた。
「どうやって紫禁城に入る?」
「ふむ。忍び込むのは、無理のようだ。やはり、太郎左衛門殿の協力が必要じゃな」
店の者が手早く卓に、料理と酒を並べるなか、朧は淡々と答えた。
朧の答に、久忠は首を捻った。
「それが判らぬ。儂がどうやって、お主の仕事を手伝えるのだ?」
箸を使いながら、朧はニヤッと笑った。
「表門から、堂々と入るのよ! 向こうから、是非とも、城内にと招き入れさせる。それには、お主の剣技が役に立つ」
「拙者の?」
朧の意外な答に、久忠は渋面を作った。益々朧の返答は、謎めいている。
「お主の剣技は、この国の人間にとっては、妙技そのものじゃ。うまく披露できれば、評判になって、城内から招聘があるかもしれぬ」
久忠は呆れ果てた。
「そんな一か八かを狙っておるのか! 第一、そのようなうまい話が転がっておると、正気で考えておるのか?」
朧はニヤニヤ笑いを顔に張り付かせたまま、ゆっくりと頷く。
「もちろんだ! それ、そのうまい話が、向こうから転がってくるぞ!」
顔は久忠に向けたままだが、朧は視線で久忠の背後を指し示した。
久忠は用心深く首を動かし、朧の示した方向を視線の端で捉えた。
道路を挟んで、向かい側にもう一つ食事処があって、見るからに怪しい二人組みが酒を呑んでいる。
一人は山のような巨躯をして、毛皮の上着に、長剣を腰に差している。顔つきはいかにも乱暴者らしい雰囲気で、過去の戦歴があちこちに傷跡となって、残っている。
もう一人は天竺人の血が入っているのか、肌は真っ黒で、落ち窪んだ眼窩をして、両目は落ち着かなく、あちこちを探っていた。時折、久忠の方向へ視線が動くと、ぎらっと目に光が湛えられた。
二人は明白に、久忠と朧を見張っていた。
「何者であろうな?」
朧に囁きかけると、朧は肩を竦めた。
「さあな。だが、うまい切っ掛けだと思わぬかな?」
「ふうむ……」
久忠は背を反らした。




