六
拝火教は後世の二十一世紀になっても、消滅したわけではなく、イラン・パキスタンなどで、五千人ほどの信徒が存在する。汪直とアニスの時代には、まだ中近東を中心に、相当数の信者がいた。
かつては中央アジアから、インド、北アフリカにかけ、拝火教は壮んであったが、キリスト教、イスラム教が影響を及ぼすにつれ、この時代、徐々に縮小傾向にある。
汪直は、アニスを紫禁城内にある、秘密の区画へ連れて行った。
紫禁城は、そもそも北京を首都と決めた元代から、長い年月を経て幾度もの改修、増築が繰り返されていて、今は使われなくなった建物がそのまま残されている例が多い。
秘密の区画に近づくと、汪直の部下たちが姿を現して、前後を守った。あまり人が立ち寄らない場所だが、それでも、うっかり宮中の女官や、役所の人間がさ迷い込む可能性があるので、用心のためである。
汪直の背後に歩くアニスを見ると、汪直の部下たちは恭しく頭を下げる。
不審そうなアニスの表情に、汪直はちょっと立ち止まって説明した。
「我々宦官は、皆、拝火教の信徒だ。お前は、ザラシュトラを崇める本地からやってきた姫君だから、敬意を表しているのだ」
アニスはつんと顔を挙げ、答える。
「でも、あなたは、それほど、あたしに敬意を表してはいないようね」
「そうかな?」
汪直は取り合わない。肩をそびやかし、さっさと前へ進む。アニスは怒ったような顔つきになって、足を速めた。汪直の足は速い。
幾つもの曲がり角を経て、一行は紫禁城の奥深くへと進んでゆく。それまで目に付いた装飾は影を潜め、建物の形は古びたものに変わった。
やがて前方に、煉瓦造りの、今にも崩れそうな建物が見えてくる。人が立ち寄った形跡がないのは、地面に生い茂った雑草が証拠だ。
汪直は入口に立ち、中へ入るよう、アニスを促した。
内部は外見と裏腹に、清浄な雰囲気に包まれている。部屋の中央に台があり、そこに奇妙な器が置かれていた。
器は、古代の鼎に似ていたが、素材が翡翠のような色合いで、縁が溶けたように崩れている。縁からは青い炎が燃え上がり、炎は微かな風に揺らめいていた。
汪直が器の前に拝跪すると、その周りに八人の部下が、ぐるりと円を描いた。
九曜星の形だ。
真ん中の汪直は、拝跪と、上体を反らして祈りの姿勢を繰り返し、口の中で何やら、祈祷の言葉を呟いている。
汪直たちの仕草を見詰めるアニスは、炎を上げている器の向こうに視線をやって、ぎくりと硬直した。
「あれは、何?」
恐る恐る腕を挙げ、見ているものを指差す。
薄暗い中、不気味な神像が浮かび上がっていた。
真っ黒な肌をした、女神の像である。
女神は首から髑髏の首飾りを垂らし、四本の腕に独鈷や、剣、鎌、環刃などの武器を振り翳している。
女神の顔は恐ろしげで、三つの目が見開かれ、口許からにゅっと鋭い牙が突き出している。にやりと笑った口許からは、胸まで達する長い舌がだらりと垂れていた。
汪直は誇らしげに説明した。
「アーリマンの御姿だ! 天竺では大黒天女と呼ばれておる。我らは男器を自ら切除した結果、陰の生を選び取ったので、陰の神を崇めるのだ」
天竺の大黒天女とは、ヒンズーのカーリー神を指す。殺戮と破壊の女神で、アーリマンはゾロアスターにおいては、光の神アフラ・マズダに対抗する闇の神である。
だが、汪直の拝火教に対する理解は、根本的なところで、致命的な誤りを犯しているようだった。拝火教の教義に、陰陽の教えが混じっている。
汪直はアニスに向き直った。
「其方は女だ! 男は陽、女は陰と決まっておる! 従って、男を捨てた我らと同じ、アーリマンの信徒であろう?」
アニスは両目を一杯に見開き、恐怖の表情で何度も顔を左右に振った。
「違う……違う……あなたたち、まるっきり見当違いの祈りを捧げているわ! アーリマンは、悪神よ! アフラ・マズダは、世界を破壊しようとするアーリマンと戦い、最終的には勝利を収めると決まっているの! 悪神のアーリマンを崇めるなんて、間違っているわ!」
「悪神ではない!」
汪直は立ち上がり、怒号した。
が、はっと気付き、周囲を見回す。
汪直を取り囲む部下の宦官たちは、アニスと汪直の遣り取りに、驚きの表情を浮かべている。
「皆、出るのだ!」
汪直は、さっと腕を一振りすると、部下たちを追いやった。部下たちは、黙って外へと出てゆく。
アニスと二人きりになり、汪直は腰に拳を当て、胸を張った。囁くような小声になって、アニスに話し掛けた。
「アーリマンは、世界を破壊し、新たな世界を呼び寄せるのだ! お前は、アーリマンを悪神と誹るのか?」
アニスは、じりっと後じさる。
「なぜ、あたしを呼び寄せたの? ザラシュトラを崇めるのが、なぜ、あたしを蛮族の王に嫁がせる理由になるの?」
汪直はふっと息を吐き出した。一瞬に、冷静さを取り戻す。
「満州族に、ザラシュトラの教えを広めてもらいたいのだ。嫁いだ後、子供を産んで、その子供にザラシュトラの教えを伝えるのだ……。そうなれば、我ら宦官たちが、同じ信徒として入り込むのに都合が良い」
アニスの両肩が、がっくりと下がる。表情は虚ろで、衝撃の大きさを表していた。
「そんな理由で……。あたしを何だと思っているの!」
汪直は、ぐっとアニスに顔を近づけ、囁いた。
「お前が嫁がなければ、一族はどうなる? 明の後押しが必要なのであろう?」
アニスは口を噤んだ。悔しそうな表情になり、唇を噛み締める。汪直はアニスの表情を確かめると、微笑を浮かべた。
「まあ、何を信じるかは、別に議論する必要はない。お互い様ではないか。お前があくまで光の神、アフラ・マズダ側に立つというなら、儂は闇の神、アーリマンを奉ずるまでだ。どちらが正しいかは、いずれ時が決めてくれるだろうよ」
アニスは、ぎりっと、顎に力を入れた。
「あたしは、あくまで、光のアフラ・マズダを信じます! いずれ、アフラ・マズダが、あなたのアーリマンを滅ぼすわ!」
汪直は頷いた。
「良いだろう。闇の力が、光に打ち克つかどうか、験してみようぞ!」
アニスは出入口に背中を向けて立っている。汪直の側からは、出入口からの光が、アニスの輪郭を白く浮かび上がらせ、金髪が輝いて見えていた。
その姿は、汪直には、アフラ・マズダの姿を思わせた。
汪直の背後に立つカーリー──汪直の理解ではアーリマン──と、アニスは対決しているような配置になっていた。




